自虐癖。










つ、と。
まるで画家の絵筆の繊細さで、細い線が走る。

薄暗い、饐えた臭いのする部屋。
太陽の光は望めず、そこから見えるのは石造りの黒ずんだ壁だけ。
壁に取り付けられている、少し黴の生えた鎖。

まったく自身にそぐわないその場所で、アルベルトはその作業に勤しんでいた。

ちょこん、と子どものようにしゃがみこみ。
まるで、砂遊びでもするような、手つきで。
無感動な目で。

鎖につないだ男を、拷問していた。

むき出した男の肌に、赤い筋がまたひとつ増える。
浅くなく深くなく、しかし確実に痛点を刺激するその軌跡。
男は低くうめき声を漏らした。ぎらぎらと光る目が、アルベルトに突き刺さる。

両手両足を鎖に繋がれ。
筋肉の欠片もなさそうな優男に嬲られる屈辱。そして苦痛。

アルベルトが手に持つ細身のナイフはすでに切れ味が鈍るほど血と脂に汚れていたが、彼の体自体には一滴の返り血も飛んでいない。
憎悪にゆがむ男の視線を、完璧に無視しながら、アルベルトはナイフを軽くひねった。

太い血管を避けて傷つけられた肉からは、それでも充分な血があふれる。
林檎の芯を抜くように、アルベルトは男の太ももを抉った。
びしゃり、と跳ねた血が壁に新しい染みを増やす。

新しい悲鳴が、狭い部屋に転がった。

かたん。

疲れたのか、アルベルトはナイフを置くと立ち上がった。
その、疲れた、とは精神的なものではなく、ただ単にしゃがんでいる体勢が辛かったか、ナイフを支える華奢な手首が凝ったためであるという事は、誰に言われずとも男が一番良く理解している。

作業が中断されても、痛みが中断されるわけではない。
男は歯を食いしばり、足の痛みに耐えていた。

あまりあちこち傷つけると、中枢神経が麻痺して逆に苦痛が少なくなると言うことを、アルベルトは知ってやっているのだろう。
男の右足だけが、めちゃくちゃに掻き回され切り刻まれている。足の腱だけは既に両方切られていた。

「………………」

丁寧に膝を折り、アルベルトはまた男の前にしゃがみこんだ。
男は、アルベルトと目を合わせた覚えが無かった。

淡々と、黙々と、今にも落ちそうな目蓋を必死に維持しているような青年は、男の目を見ない。
罪悪感からでは、勿論ない。
獲物を捌く猟師が、その目をいちいち覗き込んだりするだろうか。まあこの青年は、粗野な猟師とは似ても似つかないが。

血に染まった部屋でも、何故かことさら優雅に、アルベルトは男をいたぶっている。

その背後で、扉が音も無く開かれた。細い光が部屋に差し込む。
血臭と呻き声しか立ち込めていなかった部屋に、軽い呼びかけが投げ込まれた。

「おい」
「何ですか?」

アルベルトは振り向かず、素っ気無く答える。手の動きも止めない。
ユーバーは薄い笑みを唇に乗せて、揶揄するように言った。

「こそこそとこんな所に籠もって何をしているかと思えば、軍師殿は嗜虐趣味がおありか?そういう楽しそうなことは、俺にさせろ」
「貴方は尋問に向いていない。すぐに殺してしまう」

あっさりとした切り返しに、ユーバーは顔をしかめる。一応、その通りだと言う自覚はあった。
その長い足を存分に活用して、二歩でアルベルトの背後に立つ。
その手元を見下ろし、ふうん、と鼻を鳴らした。

「意外に慣れているな」
「刃物の扱いですか?重くなければ平気です。振り回したりは出来ませんが」
「役立たずめ」
「貴方の仕事まで取り上げてしまうのは非道というものでしょう」

ぱちり、と瞬きをひとつして、アルベルトはようやくユーバーを見上げた。
その目は曇り、ぼんやりとしている。
半分寝ているな、とユーバーは思った。

「其奴に何を吐かせようと言うんだ?」

会話の接ぎ穂に聞いてみる。

「依頼主の名を。私を殺そうとしていたので」
「…………また何かやったのかお前」

呆れたように、ユーバーは溜息を吐いた。
アルベルトは答えずに、視線を手元に戻す。

「ふん………赤いのは髪だけではないな」

嘲笑うように、ユーバーはアルベルトの髪を摘み上げた。

「足も手も、顔でさえ血に染まっている」

しゅ、と。

抜く手も見せず、ユーバーのキングクリムゾンが疾った。
一瞬の間を空けて、男の首がごろり、と落ち、そこからさらにもう一瞬の間を空けて、血が噴出する。

狭い部屋一面に、赤がぶちまけられる。
勿論、その中にいる人間にも。

「…………………」

血が入らないように閉じた目を、アルベルトはゆっくりと開けた。
目の前の悪鬼は、金髪の上からべったりと血をかぶって、楽しげだ。勿論自分もそう大差ない姿になっているだろう。

ユーバーは満足そうに言った。

「その方がずっと好い。もっと血を浴びろ、お前も」
「別に、貴方の趣味に付き合いたいわけではないのですが」

はあ、と今度はアルベルトが溜息を吐く。いまさら血臭で気分が悪くなるような人間ではないが、気分が良くなるほど特殊な性癖でもない。
ちらりと転がった男の首を見遣った。目は開いたまま、アルベルトを見つめている。

初めて、目を合わせた。

「非道いことをしますね」
「お前が言えた義理か」

アルベルトは頬に飛んだ血をぬぐい、立ち上がった。
これ以上この部屋にいる意味も見出せない。扉をくぐり外に出た。
そこには細い廊下が続いている。アルベルトは歩き出す。

続くユーバーが、からかうように言った。

「依頼主を探さなくていいのか?」
「貴方が手がかりを消したんでしょう」
「それは悪かった」

にやにやとしながら悪鬼がはしゃいでいる。
結局、この人外は嫌がらせが好きなのだろう。
しかしアルベルトには、彼が予測できる範囲の行動は嫌がらせとして成立しない。

つまり、ユーバーの嫌がらせはアルベルトには通じない。

「構いませんよ。あの男の依頼主はわかっていますから」

アルベルトは淡々と宣言した。
なんだ、とつまらなそうにユーバーが肩をすくめる。

「故シーブル卿の息子でしょう」
「お前が謀殺した奴か?」
「不運な事故死です」

よく言う、とユーバーは悪態を吐いた。
ふと疑問に思って問う。

「ならば何故あんな手間をかけていたんだ?知っているのなら、聞き出す必要はない。やはり、ただの趣味───」


「覚悟しているのだろうな、と思うのです」


ユーバーの言葉を遮って、アルベルトは呟いた。

「あの男が、私を殺すことを引き受けたときに」
「…………………」
「失敗した後のことを、そして最後にはどうなるのかを」

自分の、末路を。

修羅の道に生きるものは。
覚悟しているのだろうな、と。

「暗殺者は、苦しんで死ぬべきですから」

アルベルトは、非情さを何故か感じさせない口調で、そう言った。
ユーバーは少し考え、問う。

「それは………罪深いからか」
「かも知れません」
「ならば俺は、百万回炎で焼かれても足りないな」

ユーバーの軽口に、

「いいえ」

アルベルトはゆるゆると首を振った。
今度は冷たい響きを持った言葉で、告げる。

「貴方には、必要ない」
「………何故」

問いかけに、しかしアルベルトは振り向かなかった。

「───貴方がそれを、望んではいないからです」

懺悔を、裁きを貴方は求めない。
貴方は、自身を自ら貶めてはいない。

ユーバーの足が止まる。

「それは………」

アルベルトは、独り言のように呟いた。

「貴方と違って、人はか弱いんですよ」

罪深い自身を、嫌悪する。
自業自得を、期待する。

それが、まるで許しにでもなるかのように。

「因果応報の理を、自ら後押しして世界に押し付けるんです。そうでないと───」

ユーバーは思った。

ならばこの男は。
幾万の命を操り、障害を密やかに取り除き。血の雨の予報を得意とし。裏切りと謀殺に手馴れ。
表情を崩しもせず暗殺者をその手で拷問にかける、赤く染まったこの男は。


「そうでないと。それが自分に、きちんと廻って来ないかも知れないから」


かつりかつりと、廊下に足音が反響する。
歩き始めてから、一度としてアルベルトはその歩みを止めてはいない。

「………………くだらん」

ユーバーは、細いその背に向かって言葉を投げつけた。

「………らしくないぞ」
「ええ、冗談ですよ」

安心してください。

そう言って、しかしアルベルトはやはり振り向かなかった。
そのまま、細く暗い廊下を進み続けた。

まるで、修羅の道のように。