子どものような我が儘。










アルベルトが、今はもう歴史にしか名を残さないその王国に滞在した期間は、それ程長くはなかった。
血飛沫の舞う戦場の鼓動、昏い宮廷の駆け引き、流砂に呑み込まれるかのように急激な衰退―――十にも満たない歳の頃だが、もうそんなものは見慣れていた。ただ、本当に国が消滅する瞬間を見たのは、その時が初めてだ。

その二人と会ったのは、丁度その国が落ちる日の二ヶ月ほど前の事だった。
ハイランドの誇る将軍、双璧と並び賞された二人である。





「レオン・シルバーバーグの孫?」

クルガンはそう言って、赤毛の子どもを見下ろした。
同僚の髪とは、色の加減が違う。見るからに賢しげな顔立ちだが、眼光が鋭いというわけではない。暗緑色の瞳は、半分瞼に隠されている。

髪も目も、どちらも美しいが、何処かしら物憂げな匂いが漂う色だ、と思った。
この子どもは、陰の属性だ。人のことを言えた義理ではないのは承知しているが、自分ともまた少し違う。

「……………全っ然似てねぇな」

シードはその一言で表現を終えた。
よく言われる、といった表情で、アルベルトはゆっくりと瞬きをした。

「あのオッサン、子持ちどころか孫までいたのか。や、こりゃ侮ってたわ」
「お前よりも甲斐性はあったということか」
「俺はまだ二六だ!」

シードは顔をしかめて怒鳴った。痛いところを突かれたのだろう。
人差し指をクルガンの横顔に突きつける。無論即座に払われたが。

「しかもアンタにゃ言われたくねぇぞ。バツイチよかマシだかんな」
「真顔で妄言を吐くな。誤解されるだろう」
「そりゃ信憑性があるからだろぉ?」

そう言うと、シードは再びアルベルトに視線を移した。
その顔を見つめ、数秒ほど黙考する。

「…………レオンの孫じゃ、色々大変なんだろうなぁ」

うんうん、と一人で頷いてから、シードはアルベルトに笑顔を向けた。二割ほど、隠しきれない同情が混ざっているが。

「ピリカと遊べ、ほら」
「せっかくですが、子供と遊ぶような性格ではないので」

程良い軽蔑を視線に混ぜ込みながら、アルベルトは即座にその提案を切り捨てた。
愛想笑いすら浮かべない。
シードの額に、うっすらと青筋が刻まれた。

「テメェだってガキだろが………」
「いえ、精神年齢を考えて言うなら」

アルベルトはそこで一度言葉を切った。暗緑色の光が無感動にシードを見上げる。

「むしろ、貴方が遊んであげた方が」

しばし、その場に沈黙が降りた。

「………なあクルガン、コイツ斬ってイイかな?」
「情状酌量の余地はあるかも知れないな」

こめかみをひきつらせながら問ってくる同僚に、クルガンはそう答えた。




+++ +++ +++




同盟軍の鬨の声が、遠くに響く。
古い王家の長い歴史が、もうすぐ終わりを告げる。

ハイランド皇国第三、四軍の最後の軍団長、クルガンとシードは、並んで歩いていた。
いつものように、優雅な歩調で。
いつものように、大股に早足で。

自然、シードの方が先行してしまうのだが、すると少し歩幅を狭める。
クルガンの背中が見えた時点で、元に戻す。

そうやって、二人は並んで進んでいた。

「クルガン!シード!」

かけられた声に、二人は振り向いた。
シードの顔に少しの驚愕が浮かんでいるのは、まさかこの子どもが大声を上げるなどということがあるとは思っていなかったからだろう。

「――――死にに行くんですか」

白く長い廊下。
アルベルトは半ば駆けるようにしながら二人との距離を詰めた。

「よっす」

アルベルトはいつも通りにその挨拶を無視した。
呼吸を整え、クルガンの方を見上げて宣言する。

「貴方も案外愚かだったんですね。猛将殿は、どうしたところでもとよりそういう末路だろうと予想してましたから、別にどうでもいいですけれど」
「かっわいくねぇガキ…………」
「ええ、貴方は可愛いんでしょうけれどね」

アルベルトはいたって冷静に言い放つ。
怒りの表情を作ったシードだったが、それはすぐさま柔らかな笑みに変化した。有り得ないことだが、例えるなら老いた教会の尼僧のような。

ぐしゃぐしゃとアルベルトの髪を無造作に掻き回し、シードはのたまった。

「………お兄さんがイイコト教えてやるよ。お前、こう言うときは素直に『行かないで~』って泣き落としの方が効くんだぜ?」
「体験談か」

シードは同僚の台詞は黙殺することにしたようだった。

親愛の笑み。乱暴に頭を撫でる手。可愛がっているつもりだろうか。
アルベルトは苛々した。その助言は役に立たない。

―――ここで自分が泣いたところで、決意を翻しはしない癖に!

気に入らない。ひどく気に入らない。

「クルガン」

こちらの方が、理論は通じる筈だ。
アルベルトは縋るようにも見える目で、もう一人を見上げた。

いつもと変わらぬ表情でそれを見下ろしながら、クルガンはこう言った。
独り言のように。

「…………何故だか誤解されがちなのだが」

回廊の窓から見えるルルノイエの町並みを見下ろし。

「俺は結構、ロマンチストだ」

淡々とそう宣言する。

「…………あー、コイツのコレ、ギャグじゃねぇから笑うんじゃねぇぞ」

自分こそ遠慮容赦なく笑いながら、シードはぺしぺしとクルガンの肩を叩いた。
いつものように無情に叩き落とされたが。

「笑っているのはいつもお前だけだ」
「そりゃアンタの部下共が笑えるかよ」

そう言いながら、彼らは身を翻す。颯爽と。

そのまま、何の変わりもなく。全く普段通りに。
怯えも恐怖も諦念も、名残惜しささえ見せずに去っていこうとするから。

――――何故。

アルベルトには理解できなかった。
どうして、別れの言葉も、誓いも、特別なひとときも設けない?
どうして、振り向かない。どうして喚かない?

怖くない筈がない。
悔しくない筈がない。
生きたくない、筈がない!

アルベルトには理解できなかった。

だから。



「――――だって、貴方達が行っても、結末は変わらない!!」



残酷にも。

そう叫んでしまった。子どもだから許されるだろうか。
少し泣きそうな声だったかも知れない。そんなことは決して認めないけれど。

………この発言は正しい。間違いなく正しい。
しかし、欠点もわかっている。

正しいだけだ。

「アルベルト」

クルガンの声は、冷たくはなかった。


「合理性だけでは、人は動けない」


縋るものが。守るものが。求めるものが。
確かに必要なのだと。

…………自分が何を言っても無駄だとは、理解していたのに。予想していたのに。
それなのに何故こんな事をしてしまったのか、アルベルトにはわからなかった。
遠ざかっていく軍服。

彼らの後ろ姿を眺めることしか、幼い彼に出来ることはないのだと。

何も、する事が出来ないのだと。
自分には何も変えられないのだと。

―――それを認めたときの、絶望感




+++ +++ +++




もう聞こえる筈もないのに。
アルベルトには時折、確かにあの王宮が崩れる音が聞こえる。

礼拝堂。鮮やかなステンドグラスが、光に色を付けていた。

勿論、アルベルトにここを訪れる習慣などは無かったのだけれど。
規則正しく並ぶ椅子。重々しい扉。祭壇。天井に描かれた宗教画が、彼を見下ろしている。

アルベルトは問いかけた。

「彼らが滅びるのが、歴史の必然なのか?」

奴らではなく?

―――アルベルトにはわかっていた。
ハイランドか都市同盟、どちらかがどちらかを屈服させ、吸収するのは当然の流れだ。人の力、誰かの願いや祈りではどうすることもできない。
そう、あれは起こるべくして起こったこと。

戦が起こるのは、誰のせいでもない。
いつか、そうなることは既に決定していた。

だが。

あの時。あの場所で。彼らでなくてはならない理由。
そんなものはない筈だ。そんなものは変えられる筈。

―――現実は、常に、既に、そのありようが決定されている。
人の身でそれを変えようなどとは、所詮叶わぬ夢。

だが、大河の流れは変えられずとも、堤を作れば、堰を作れば、その軌跡は変化する。石を投げれば波紋が広がる。
そう、それこそ、人が調律しなければならないものだ。

この身に流れる血の、欲するものだ。


「罪深いな」


小さな呟きが、聖堂に落ちた。

死の数を計算する。血の量を管理する。
歴史の礎となる犠牲すら選び操作しようなどとは、神をも畏れぬ思い上がり。

―――――そんなことは、知っている。

だが。

「神を畏れるだと………?」

そんなことには、我慢がならない。

パイプオルガンの錆びた金色の管が覆う壁。
中心に据え付けられた巨大な十字架。

………アルベルトはゆっくりと振り向いた。

重厚な扉が開かれ、射し込む光の中に人型が切り取られている。
迎えだった。

綺麗な悪魔。姿だけはこの場に似つかわしい。
神父服を身に付け、天使のような金の髪を垂らして、それなのにまるでちんけな街の不良のような立ち方で。

「行くぞ」
「…………ああ」

アルベルトは頷いた。
全てのものを利用してみせる。神も、悪魔も、この自分でさえも。

アルベルトは歩いていった。

聖堂には、ゆったりとした、軽い、けれど固い足音の余韻だけが残った。