純情。















ユーバーは転移を終えるか終えぬか、定まらぬうちにその足を踏み出した。

本営のあった場所は、敵軍に攻め入られたわけでもないのにそこかしこに死体が転がって赤く染まっている。
ユーバーは素早く視線を走らせながら、違う赤色を探していた。

必死の形相で走り回る兵士達を邪魔そうに押し退け、眼を眇めて血の臭いを嗅ぐ。
兵士の走る流れは、特に見極めずとも一点を指している。戦場指揮の中心を見据えると、ユーバーはそちらにつま先を向けた。





+++ +++ +++





シーザーは強張った顔のまま、苦しげに笑った。
言ってやりたいことが、山ほどある。

お前は知らないだろう。
ずっとずっと、長い間、俺が何よりも望んできたことを。

「アイツはさ……綺麗なものを知らないんだ」

扱い慣れない短刀を握り締めて。
その軽さと、それを振るう重み。

「無意味なものの価値を知らないんだ」

命というものを誰よりも粗末に出来ないのはあの男なのかもしれなくて。
だって、無駄で不合理なことにそれを費やしはしないから。

彼は許容できないのだ。

時には敵のために命を投げ出すという愚かさを。例えば裏切りを赦しその刃に倒れ伏す愛情を。
沈みかける船の上、へりを掴む幾多の手を払いのけることの出来ない弱さを。

命よりも、勝利よりも、意味よりも大切なものを、彼は知らないのかもしれない。

だから数の上での命を彼は見る。
無駄な死。無意味な死を彼は嫌悪する。

感情を切り捨て、計算で決定をする。

命以上の価値を知らないから。
合理性だけで人は生きられない、そのことを。



だからかみさま。

俺があいつにその事を教えてやりたいんです。






+++ +++ +++




いつものコートの後姿に、すたすたと近寄る。
辺りには血の臭いが立ち込めている。

走る伝令にも動揺の色が濃い。
未知の攻撃に晒されたのだ、恐慌が起こらなかったのは奇跡といってよい。
日ごろの訓練の賜物か──それとも、この軍師の統率が優れていたためか。

興味は無かった。
前を向き、いつものように盤を見つめる彼の左斜め後ろに立ち、ユーバーは揶揄った。

「──俺が居なくとも平気だったか?」
「勝手に持ち場を離れるな」

すぐさま全く可愛げのない答えが返って来た事に、覚えたのは不満か安堵か。
アルベルトはユーバーを振り向きもしないまま、片手で呼びつけた伝令に何事か命じる。伝令は顔を強張らせたまま、それでも役割はきちんとこなしてまた走り出す。

いつもと少しも変わりない光景だ。
だがユーバーを少しだけ驚かせたのは、次に続いたアルベルトの台詞だった。

「だが……攻撃の元を絶ってくれたのはお前か。感謝する」

珍しい。
素直な感謝の言葉は滅多に聞けるものではない。というよりは初めての事だ。
ユーバーは微かに笑った。悪い気分ではない。

よく見れば、アルベルトの真っ白なコートが所々血に染まっている。
それは、多分ユーバーが戦場で見るのは初めてだった。アルベルトは自分の居る場所まで敵に攻め込ませることなどないから、いつもそのコートは綺麗なままだったのに。
軽い苛立ちを覚えて、ユーバーは舌打ちした。
アルベルトには赤が映えるから、染まること事体は不快でもないのだが。

「後は、此処に来てくれた事に」

悪鬼の動きが一瞬止まる。

「……熱でもあるのか?」

ユーバーは訝しげに問った。
珍しいを通り越して恐ろしくさえある。この男が、こんな殊勝な事を言うとは。

「直接の攻撃に晒されて、心細くなったとでも?」
「そうかもしれないな」

笑みを含んだ答えが返る。
ざあ、と風が吹いて、アルベルトの髪とコートとを揺らした。一層濃く鼻を刺す戦場の臭気。

ユーバーは数瞬の沈黙の後、静かに訊いた。

「どうした」

二歩。二歩踏み出せば届くその後姿。
先程の揶揄は、只の冗談に過ぎない。アルベルトも、只の軽口を返したに過ぎない。
その筈。いつもとなんら変わりない筈。

ユーバーの不審に気付いたのか、アルベルトが首だけ動かして振り向いた。
肩越しにちらと見えたその頬には、生乾きの血が一面にべとりとこびり付いていて、その奥から暗緑色だけが輝いていた。

視線は合わなかった。アルベルトはユーバーの眸を見詰めはしなかった。
しかしユーバーの目が少し見開かれたのに反応したのか、ふと眼差しを和らげる。

「…………」

アルベルトは肌を覆い隠す血糊を片手の甲で拭ってみせた。
しかし手袋も既にぐしょりと濡れていて、殆ど役に立ったようには見えなかったが。

「護衛の血だ。優秀だったのだがな……殆ど死んだ」
「貴様の盾になってか」

アルベルトは答えなかった。

再び正面に視線を戻し、伝令を呼ぼうと片手を振り上げ──

「…………」

距離を一瞬で詰め、ユーバーはアルベルトの手を掴んだ。

「──アルベルト」

至近距離で顔を覗き込む。血の臭い。血の臭い。血の臭い!

「…………」

アルベルトは苦笑した。
しかし、この距離でも、彼の視線はユーバーの前髪の辺りをうろつくだけだった。

「鋭いな、お前は……他の者は騙せたのに」

ユーバーは、ゆっくりと指の力を抜いて、手を離した。
アルベルトは伝令を呼びなおすと、小声で二、三言告げ、やはり青い顔(当然だろう)の兵士は急いで走り去っていく。

ユーバーは、体の前半分を血に濡らし切った男を、真正面から見詰めた。
視線を感じているのだろう、アルベルトは苦笑を崩しはしなかった。

「見えていないのか」
「見ずとも……わかるさ」

アルベルトの眸は、焦点を結んでいない。
しかし瞼は閉ざされず、顔は正面だけに向けられている。

見ることではなく。
アルベルトが。軍師が、戦場に相対していると。

その絵を。その効果を。その在り方を。
それだけを望んで、この男は立ち続けている。



弓や、普通のガンであったなら、アルベルトの身までその猛威は及ばなかっただろう。
しかし鉄板を軽々と打ち抜く『ハードフレア』の牙は護衛の肉体を引きちぎり、貫通し、そのまま進んだ。

衝撃のショックか失血による、失明。
腹の中に留まる鋼の塊。

しかしアルベルトは、只の蛋白質と化した護衛の体を押し退けて、立ち上がった。
体勢を立て直し、命令を下し、兵を宥め。
いつもの表情で歩き、喋り、策を実行し。

アルベルトは、役割を果たし続ける。
穴の開いた脇腹と、削られた脚に、コートで僅かに蓋をしながら。

いつものように。
只、なんでもない事のように、アルベルトは言った。



「──お前が此処に来てくれて、良かった」



答える言葉を持たない。

黒衣の悪鬼は、静かに彼の横に並んだ。



「……手当ては?」
「持っていた札で一応な。皮一枚は塞がったか」
「集めてくるか」
「兵には知らせるな。それでなくとも怯えていて動きが悪い」

アルベルトは被りを振った。

「それにもう、手遅れだ。どれ程治療したとしても、体の中に鉛が残ってはいずれ腐れ落ちる」
「しかし、今ではない」
「ユーバー」

こんな声を出すときには、もう意思を翻す気はないのだと、知ってしまわなくとも良かったのに。
ユーバーは帽子のつばに手をかけて、少し下げた。

「時間が惜しい」

彼奴の相手をしているんだ。
アルベルトは、楽しんでいるのかもしれなかった。

何も見えていない眸が見詰めるものは、何なのだろう。

ユーバーは微かな溜息を吐いた。

「貴様は俺の言うことは聞かぬのだな」

人には全てを命じるくせに。
自分の行動には、口を出させない。

「俺は負ける訳にはいかないのでね」
「──敗北は、死よりも屈辱か」

アルベルトは答えなかった。
脳裏にありありと映し出される現実を見て、未来を描き決定していた。





+++ +++ +++





耳鳴りがする。轟々と吹く風の音だ。
自分の呼吸音もやけに大きく響く。

口元に手をやる。
固まりかけた黒ずんだ血が、吐き出され手のひらの上でぬめった。

腹の中に溜まった血が、出口を求めて逆流してきたのか。
アルベルトの膝から力が抜ける。片足だけで辛うじて支えていたのだが、限界が来たようだ。

衝撃。
湿った土の感触。

体を九の字に折り曲げてアルベルトはえずき、地に手を突いて、せめて這い蹲ることを避けようとした。
崩れ壊れかけた体を、誰かの腕が拾う。

「意地張りめ」

呆れたような声が降ってきて、軽々と体が返される。

「素直に手を貸せといえば貸してやるものを」

当たり前のような言葉。
アルベルトの唇が僅かに綻んだ。

「そう……だな。お前の手は、俺が──」

言いかけ、しかしアルベルトは言葉を切った。
眉を僅かに顰め、細く長い息をする。

それをどう取ったか、悪鬼はアルベルトの前髪を撫でた。
まるで、幼子に対する母親のように、穏やかに。

勿論アルベルトは幼子ではなく、ユーバーは慈悲深い存在ではない。
はっきりと言ってしまえば、むしろ対極に位置するのだろう。

だがそれでも、苦しむ時はあるのだ。
それだけで、理由としては十分だった。

「痛むか」

アルベルトは僅かに首を横に揺らした。
痛みは、辛い。脂汗が滲むほどに。
けれどこれが自分のして来た事の対価だ。アルベルトはむしろ安堵すらしながら、その苦痛を味わっている。

間違ってはいない。

「これで良い。これで良いんだ、ユーバー」

自分は、この痛みを、この結果を迎えるために、今まで息をしてきた。
だから──だから。今だって、とても。

「予想よりは少しだけ……早かったが。これで、俺は」

お前は覚えているだろうか。
『アルベルトの為に摘んだんだ』
あの、白い花の咲く丘を。

「勝ち逃げる。シーザーは、俺の影を追い続ける」

『そうすればこのお花もしあわせだろ』

お前は覚えているだろうか。


「生涯勝てない、俺の幻影を創り上げる。全知…全能の…幻」

指先と手のひらを濡らす赤。ユーバーは舌打ちをした。
ここまで先が読めてしまうなら、この男の人生とは一体何だったのだろう。結果が分かっているゲームほど、つまらないものはないのに。
成る程、聡明すぎるアルベルトは、自分の限界すら既に知っていたのだ。

どんな気持ちがするものなのだろう?
世界を見渡す、とは。

「俺がいれば、シーザーは其処で終わってしまう。彼奴は愚かだ」
「─────」
「俺に追いつけるかもしれない。でも俺を追い越そうとは、しない……」

それでは駄目だとアルベルトは言った。
ごぼごぼと喉を鳴らし、血を吐きながら。
その目から、涙は零れない。

「……本当に、俺が、完全だったら、良かった」

かみさま、みたいに。

体温が下がる。止められない。
本当に、あっけないものだ。

アルベルトは精密に出来ていたけれど、多分、シーザーよりも精密には出来ていたけれど。
それだけだった。無欠でもなく、理想でもなかった。
絶対神を信じていたのは憧れだったのだろうか。

アルベルトは笑った。はっきりと自嘲だった。
本当に自分が完全に出来ていたなら、あの丘で、シーザーを止める事が出来ただろう。
愚かな、愚かな、あんな選択を。

「……せめて代わりに、幻をやりたかった」

生身でなく、有限でなく、何処までも追いかけていける幻影を。
ユーバーは苛立たしげに口を挟んだ。

「喋るな」

細い癖に荒い息遣い。抱き起こしている上半身は、その唇から新しく零れ落ちた赤で、綺麗な発色を取り戻している。
薄い背を支えるユーバーの腕にも、じんわりと染みていく暖かい──生温い液体。

それでもアルベルトの言葉は途切れなかった。

「彼奴には権力欲も、出世欲もない…自ら歴史に関わることもない……何故」

叶わない想いを承知してなお、恋い焦がれる愚かな女のように、アルベルトはさやかな吐息を零す。

「シルバーバーグの悲願、彼奴なら高みへと……いける、のに」

妄執。
真っ赤に染まった自分自身の手を、アルベルトは目の前にかざした。

見えないものを、それでも。

それでも。
掴みたかった。

震える指。流れ落ちる雫。

――─夢見るように囁いた。



「この血の、後継者だ」



それは、羨望なのか、憧憬なのか。憎悪かもしれない。
いずれ執着していることに代わりはないだろうが、アルベルトの捩れた思考は、この期に及んでもユーバーには良く読めなかった。

ふ、とその肩から力が抜ける。

「何故こんな事を……語っているのでしょう?」

今更なのに、と。不思議そうに、アルベルトは目を細めた。
その仕草に、ユーバーは呆れた。

……そんなことがわからないのか?この男は意外に馬鹿なのかも知れない。
ユーバーの方がよほど、自分の感情に聡く正直だ。

アルベルトはゆっくりと瞬きをして、軍師の口調で囁いた。

「ユーバー、最後の指示です。貴方はこれから敵陣左翼後方に斬り込んでください……今ならすんなりと通れる。川沿いまで押して、本陣から切り離すのです。シーザーはきっとそこにいる筈、でも殺さないでください……命令系統が途絶えた軍など、もうどうにでもなるでしょう」

殺さないで。
懇願するように、アルベルトは言った。震える喉。伏せられた目。

――それが意図的なものだとわかっている。アルベルトも、ユーバーが見抜けないとはまさか思っていないだろう。
しかしこの男は、それでもユーバーが頼みを聞き入れる筈だと計算しているのだ。

そして多分、それは当たる事になっている。ユーバーは渋々認めた。
ああ、こうなる前に比奴の目の前で比奴の弟を引き裂いてやれば、それは途轍もない快感だったろうに。

「酷く勝手なことを言うようですが……出来るなら」
「出来るなら……?」

ユーバーは静かに、ゆっくりと問い返した。

「彼奴が、浴びる筈の血。……貴方が、受けてくれませんか」

数瞬の静寂。交錯する視線。
お前の、手を離すのだと。

「──貴様の弟のもとへ行けと?」
「分不相応な願いですか……?私がそう言うのは、おかしい…事ですか──」

ちっ、と派手に舌打ちをして、ユーバーは苦々しげな顔を作った。

「しおらしくすれば俺が我侭を聞くと思いやがって」

アルベルトは、アルベルトの道を最後まで進んだ。此処が、彼の決めた彼の最終地点だった。
ユーバーはそれを理解し、納得した。本当に、酷く勝手な男だ。

きっかけはもう、あちこちに撒かれている。
シーザーは身を投じるしかない。兄殺しの、消えない傷を負って。

歴史は動いていく。
これは、呪いなのかも知れなかった。

「ああ……見えるよ、ユーバー」

もはや譫言にしか聞こえない、とぎれとぎれの霞んだ声。

「我が弟は、歴史の果てに辿り着く…そうでしょう……?」

ふんわりと、嬉しそうにアルベルトは微笑んだ。
ユーバーは初めて、この男の表情がこんな風に変わるところを見たのだ。

「これが私の策…私の最後の策です……」

昏い色の瞳から、何かが音もなく消えた。
かくかく、と少し、細いその体が震えた。

「…………シーザー…………」


お前の為に、この花を摘もう。




遠くに響く、剣戟、喚声。
遮られて、静かな小さなその言葉は届かないのだろう。













「──不愉快だ」

ユーバーはアルベルトの前髪をかき上げると、その額に軽く唇を落とした。
冷血、と呼ばれるにふさわしかったこの男だが、それでも少し、温かかった。

「こういう時は、抱いている者の名を呼ぶのが礼儀だろうが」

一度だけ、ぎゅっとその躯を抱きしめてから、ユーバーは彼を突き放した。
硬い地面に無造作に転がる体から、その髪と同じ色が散る。

目は閉じない。空ろなその暗緑色に、世界の果ては見えているだろうか。


金髪の悪鬼は何の名残もみせずに立ち上がると、赤い道をいつものように無造作に歩いていった。