三十秒間。
戦場に響き渡る、轟音。
「っ!?」
思わずユーバーは人を狩る手を止め、空を見上げた。
周りの人間もいぶかしみ、戦場であることも忘れて周囲を見渡している。
被っていた山高帽が、押さえることを忘れた為に、血に濡れた地面にぱたりと落ちた。
「…」
数秒。
数秒でユーバーの鋭敏な感覚は、その発生源がどこであるかを正確に捉えた。
赤と金のヘテロクロミアが、危険な程に眇められる。
見据えるは、戦場から遠い丘上の一点。
ユーバーは左手を水平に持ち上げた。
その手のひらから何かが滴る。
「…………!!」
雫の落ちた水面のように、金色の波が地面に広がった。
重なる異常事態に、ユーバーの周りの兵が怯えて後じさる。
だが、ユーバーはそんな事は認識もしなかった。
足下の土が溶ける。
直立不動の姿勢のまま、悪鬼は体が沈むに任せた。
最速の行動。しかし。
完全にこの空間から消え去る前に、ユーバーの耳は、二度目の轟音が戦場の空を通過していくのを聞いた。
+++ +++ +++
熱く焼けた『ハードフレア』の砲身に、手のひらが焦げるのも構わず、銃弾とセットになった火薬を押し込む。
慎重に、しかし手早く。整えられた神経だけがそれを可能にする。
距離計を覗き込み、若干の修正、照準を合わせる。
薬により限界まで高められた集中力と視力。
この化け物兵器を使いこなすには必要不可欠なものだ。通常の人間の能力では、超遠距離攻撃の長所を生かせない。
過剰摂取すれば神経が壊死し、廃人になる可能性もある薬物。
危険性は理解しているが、この戦の勝利の礎となれるのであれば何ほどのことでもない。
猛禽類の視力と機械の精密さがあれば、この『ハードフレア』の能力を最大限に引き出せる。正確な狙いが可能になるのだ。
「…………」
すう、と呼吸を整える。
「斉射」
チームリーダーが片手を振り下ろすと共に、十台の『ハードフレア』が一斉に火を噴いた。
鼓膜が破れる程の音。耳当ての上からもかなりの衝撃として伝わる。
一発放つごとにどこかしら狂いが出る繊細な兵器。五度も連射すれば使い物にならなくなる。
だが──それでも五十発。
計五十発の弾丸が、たった一人の人間を仕留められないということがあるだろうか。
何故そんな非効率的なことをするのか、彼らは知らされていない。
だが、彼らは全員ハドクに心酔していたし、ハドクの言うことなら、例え自分の命でも惜しみなく差し出すことができた。
麻薬による高揚感を僅かに残る理性で押しとどめる。
リーダーの制止はまだ無い。
砲台の尻に取り付いた蓋を開け、顔面をあぶる熱気をものともせずに火薬のカスを手早くこそぎ出す。
三度そこに銃弾を取り付け、角度を調整してから照準計を覗き込み──
ぴちゃり
何かの液体で頬が湿る。
事態を把握せず、脊椎反射で男はそれを拭った。
汗である筈が無い。雨とも違う。生暖かい感触。
何が飛んできたのか、何故飛んできたのか、そんなことを考えるスペースは男の脳裏から削除されていた。
男は余計なことは何も考えない。
照準計を覗き込み、目標を探す。
「……………」
居た。
ミリ単位、あるいはそれ以下の繊細さで、砲身を動かすレバーを操作する。
撫でる様に押し、引く。少しのずれが着弾地点では致命的な差となるのだから。
狙いがつけられたと思った瞬間、標的の位置が急激にぶれた。
しゅんっ
「?」
いや、ぶれたというよりは視界から目標が消失したのだ。
そう男は理解した。しかし、何故だろう?人間はそんなスピードでは動けない。
脳裏に浮かぶ疑問符。その間に彼の目に映る色は、コンマ刻みで変わった。
茶。黒。緑。青。茶。黒。緑。青。茶。赤。赤。赤。赤。
「?」
考える。
茶は土の色。黒は磨いた鉄の色。緑は草の色。青は空の色。
自分の頭部が自らの体を離れ、くるくると回転しているのだと、男が気付いたかどうか。
男は空気の抜ける音を漏らした。声とも呼べない、喉の奥を風が通り抜けるそれ。
最後に常識的な思考をして、男は瞬きをする。
赤。
赤は血の色。
どさ、と音を立てて、視界を染める色の変化が止まる。
眼球に土が入り込む感触。男の意識はそこで途切れた。
跳ね飛ばされた首が落下する音が次々と響く。
総計すれば十一度。それから漸く静寂が訪れた。
「……身の程を知らぬ畜生共め」
粗野な単語を、しかし高貴とさえ感じさせる口調で、ユーバーは吐き捨てた。
黒い神父服の袖を汚した返り血を、忌々しげに眺める。
舌打ちを一つ。
黒い靴底が、地面に転がる首を踏みつけた。
ごぐ、と硬い音がしてはぜ割れる。
土に染み込む何か粘液質のもの。ユーバーはそれには一瞥もくれず、雷鳴の紋章の詠唱に入った。
ばちばちと体に紫電を纏わりつかせ、彼の体積を遥かに超える質量の鉄の塊達を睥睨する。ざわり、と金の髪が解け、水中のようにゆらゆらと漂う。
その身からのたくる雷光が、脇に生えていた雑草を蒸発させた。
「過ぎた玩具だ」
ぱんっ!
一閃。
解き放たれた高エネルギーが、狙い違わず『ハードフレア』に突き刺さる。
そして破裂音。
驚くべきことに、通常なら地面に流れて逃げてしまうはずの雷気は、その鋼鉄の装甲を軽々と突き破り四散させた。
プラズマ放電の余韻を残して大気が震える。怯えたように。
「…………」
飛び散った鋼の欠片が悪鬼の白い頬を掠め僅かに傷つけたが、彼はその存在を黙殺した。
+++ +++ +++
きゅぼっ
アルベルトの耳が最初に捉えたのはそんな異音だった。
動転──全くしなかったと言えば嘘になるだろうか。
だがアルベルトはこんな状況でさえ、優雅さを失わずに首を横に向け事態を把握することに成功していた。
頭部を失い、霧のように赤いものを吹き散らしながら斜めに倒れていく兵士。
内側から爆発したのかと、そう思わせるように悲惨に飛び散る頭蓋。
「────」
視界が真っ赤に染まる。
その時点で、既に七つか八つ、地面に穴が開いている。舞い上がる土埃と血煙。
耳を劈く轟音。重なり合い、不思議な重奏を奏でている。
まだ、誰も悲鳴を上げていない。
上げる暇がないのだ。
突然の急襲。何処から、何で、どうやって攻撃されているのか全くわからない。
否──この数瞬で、『攻撃されている』と事態を捉えることが出来たのは、アルベルトを含め五人に満たないだろう。
まさか、本陣が何の前触れも見せず直接に狙われるとは。
弓兵部隊の姿も、魔法部隊の姿も全く見えない。不可視の刃が致命的に切り刻む。
しかも、一瞬で。
「うああああああがあああああああああっ!?」
やっと誰かが音を出した。
アルベルトはその時点で左脚の異常に気付いた。
何か途轍もなく威力のあるものが掠め──掠めただけで彼の太腿の肉をこそぎ取っていってしまった事に。
痛みと熱。
そして──恐怖?
アルベルトは咄嗟に地に伏せようとした。
「……!」
体が斜めになった瞬間、赤毛を何か圧倒的なものが掠める。
一瞬、いや半瞬遅れていたら隣に転がる骸と同じ末路を辿っていただろう。
がくり、と地面に膝を付く。
故意にしたのが半分と、力が勝手に抜けたのが半分。
ふと、呼吸と共に僅かな笑みが零れ落ちた。
そんな感銘に浸っている場合では無い。だが、アルベルトは笑った。
「成る程――良い策だ、シーザー」
良くやった。
これでお前は。
「アルベルト様っ!!」
今の不可解な攻撃に運良く晒されなかった者だろう、アルベルトの護衛が数人走り寄ってくる。
攻撃は既に止んでおり、彼らは安全にアルベルトの元に辿り着く。
跪いたアルベルトを庇う様に囲んで立ち、一人が肩に手をかけ覗き込んできた。
「お怪我をなさって」
く、とアルベルトは軽い呻き声を発した。
唇を噛み、項垂れていた顔を持ち上げる。
「──急いで遮蔽物の陰に退避だ」
まだ終わったとは限らない。
そう言い繋ぐ必要はなく、駒として動くに非常に優秀な護衛達はアルベルトの言に従った。周りではまだ混乱の怒声が響いている。この状況下で任務を忘れない、訓練により磨かれた駒達。
彼らは人の身に出来得る限りに迅速だった。
賞賛されてしかるべき物分りの良さ。
数本の手がアルベルトの体を引き起こし、持ち上げようと──
そこに、第二撃が来た。