迷い。
『迷い』
「遊んできた」
無邪気とすら表現できる顔で、そう報告する黒衣の悪魔。
結んだ金髪に赤黒い塊がこびりついている。
アルベルトは、その細い指を優雅に伸ばしてユーバーの頬を拭った。
「楽しかったか?」
台詞だけ聞けば、まるで平和な。
アルベルトは彼をベッドに座らせ、金糸をほどいて柔らかく櫛をかけていく。
ゆっくりゆっくり、髪を引っ張らないように丁寧に。血で固まった部分は爪で崩して。
存分に甘やかしてもらいながら、ユーバーは片頬だけで笑った。
+++ +++ +++
ユーバーが遊んできたのは、射光のアジトのひとつである。
アルベルトに教えて貰ったその場所で、ユーバーは咎められることなく好き勝手に振舞った。
壁と床と天井を思うがままに血で濡らし、恐怖に濡れた悲鳴を浴びる。哀れな肉片を踏みしだき、拠点を無人に変えた。
アルベルトの弟が居なかったのは残念だったが、予想はしていた。アルベルトがそんな不手際をする筈が無い。
本来、拠点の場所が易々と知られる筈は無い。
ところが最近、射光のアジトは次々と襲われ、壊滅させられていた。全体からすれば微々たる損害だが、普通は起こりえない事だ。
内通者がいる、と誰からかともなく噂が流れる。
それは自然の成り行き。
そして作為でもある。
+++ +++ +++
「シーザー」
「………知ってる」
苦悩の伴った呼びかけに、不快を示しながらシーザーは答えた。
こちらを向かない赤毛の青年に、自制をしながらハドクは言い募る。
「知っている?知っているならば何故動かない」
「俺が言ってどうなると言うんだ」
振り返り、シーザーはやや険のある目を見せた。
十も年上のハドクを睨みつけ、反論する。
「返って逆効果だろう……?」
燻った緑の瞳に、彼とてこの状況が本意ではないのだと、わかっていた事だが実際に確かめてハドクは軽く息を吐いた。
降る雨の音だけが、暫くの間狭い部屋に満ちる。
彼は年下で、軍師といえども完璧な存在ではない。そうだ、わかっている。
ハドクは反省しながら、言葉を選んだ。
「──噂の出所がわからないんだ」
「そりゃ、簡単にわかるくらいなら苦労はしないさ」
シーザーは彼の十八番の仕草で、肩をすくめて手を広げて見せた。
それはいつもより多分に道化がかっていて、浮かべた笑みには明確な自嘲が浮いている。
わかっていないわけではないのだろう。ハドクにあてつけているのか、それとも。
「それに、案外事実かもしれないぜ?昔から言うしな、『火の無い所に』ってさ」
ハドクは眉根を寄せた。
シーザーの本音は読み取りにくい。
それは、彼自身の性質というよりは彼の職業に因るものなのだろう。
動揺を晒していてすら、真実の狙いが何処に有るのかわからない。普段は全く気にならないのだ、しかし何かが緩んでいる時、その性質が顕著に現れる。
作為めいたものを感じてしまう。いや、其れは期待しているのかもしれなかった。
──何か計算しているのだろう?と。
「………何か言えよ、ハドク」
苛立ちをあらわにした声に、ふ、と気付く。
先程確認したのに、また思考が妙な方向に逸れていた。
シーザーは軍師であろうとも、『射光』に、ハドクに誠実な筈ではないか。
彼が何かを考えていたとしても、それは主の益になること。軍師というのはそういうものの筈。
そう思っている。確かに。そう思っている。
……それでも何処か心に影が落ちるのは、そう、やはり。
噂に僅かながら真実が混じっているからだろう。
「国の正軍師──アルベルト・シルバーバーグ」
ふと、そんな言葉をハドクは漏らした。
はっきりと意図しての事ではない。頭の中で考えていた事象が、ふと零れ落ちたのだ。
シーザーはその名を聞いた瞬間、いっそ動揺もせず、むしろ落ち着いたようだった。
燻っていた瞳の色が、影を落として平坦になる。ふん、とシーザーは鼻を鳴らし、焔の色の髪を揺らした。
「そうだよ。俺はあの男を知ってる。あの男は俺を知ってる」
「シーザー、自棄になるな」
「アンタもそれはとっくに調べて知ってた。何で今更こんな大事になるんだか」
「他の者には……言わなかった……」
シーザーは皮肉げな表情をしているだろう。ハドクは視線をそらしていた。
妙な誤解を恐れて、調べたその事実をハドクは広めなかった。しかし、今では逆効果だ。
「そうだな」
シーザーはそう言って、ぶるぶると首を振った。
思い直したように普段の顔を作って、ハドクに微笑みかける。
「ごめん、わかってる……俺を気遣って言わなかったんだろう?わかってる、八つ当たりだ」
「シーザー」
「正しい選択だよ、あんたを責めてる訳じゃないし、責められるわけも無い。むしろ礼を言わなきゃな」
「シーザー」
「自分でさっさと言っときゃ良かったんだ。俺の責任だ」
「シーザー」
「……はっきり言えよ?」
凶暴さを内に秘めた瞳が、ハドクを射た。
作り直した顔を、強情にも貼り付けたまま、その瞳に映る影だけが刻々と変化していく。
「はっきり言えよ」
シーザーは繰り返した。
それむしろ、ハドクの方が問われるべき何かを持っているような態度。
冷笑は、シーザーの本質ではない。
ごく偶に浮かべる其れは、策士としての演技の為にしか使われることがない筈なのだが。
「アンタだってきっと俺を疑ってるだろ……俺が密告者だって?」
素性を明らかにしていない。理念に欠けるようにも見える。
疑って見ればシーザーの態度には疑問の残るところが多いのだろう。
更に言えば、襲撃のあったアジトの近くにはいたのに、被害は受けていない。
『射光』内で、疑念は渦を巻きハドクの耳にも聞こえてくるようになった。
シーザー。別大陸からの渡航者。
自分の生まれた地の事ではないのに、自分達と共に戦っている。それを優しさや信念と捉えてきた。
だがそれは、言い換えれば──所詮余所者の癖に何故、という疑問も生む事になるのだ。
何故?
お前に何の得がある?
───冷静に考えれば、シーザーがそんな裏切りを働く意味などないとわかるのだ。
事実今までシーザーは幾つもの作戦を成功させてきた。シーザーがいなければ射光のここまでの成功も無かったと言って良い。
潰すために育てたとでも言うのだろうか。シーザーと直に触れ合う機会の多い幹部達には、噂の影響は少ない。
(その筈だ……)
しかし、ハドクの心は晴れない。
否定と肯定とを繰り返す真理。それには理由がある。
シーザーが裏切る理由が──全く無いとは言い切れない。そしてそれは、論理的な理由ではない。
彼には甘いところがある。
ハドクはそれを知っていた。
あの魔術師に言及するときのシーザーの態度。
年若い軍師が仮面の間から零す僅かな情報が、その時は得られ易くなる。
自分達に対する仲間意識と、あの男との繋がり。
それを天秤にかけたら、どちらに傾く……?
だから、心の隅で囁く声が消えないのだ。
最初は決別する意志だったとて、今更になって揺さ振られたとしたら?
シーザーとて、軍師といえども人間。人間味のある人間だと思っている。
不安定な心というものは誰しも持っているものだ。時には思いがけない結果に転ぶ。
シーザーの事は信頼している。
だが。もしも、と考えてしまうのだ。
だからシーザー本人に、はっきりと聞きたかった。
「ああ……少しも疑っていないと言ったら、嘘になる」
だからハドクは正直に言った。
青年の瞳が、完全に見えなくなる前に、素早く言葉を接ぐ。
「だから本当の事をお前から聞きたい」
誰しも迷いはある。
だがシーザー自身の人格を信頼する気持ちは本物の筈だ。
「お前の口から出た言葉に俺は従う」
多分、とハドクは考える。
軍師というのは、誠実に信頼するのが難しい人種だ。
だが、使う側が信頼することがなければ、彼らは能力を存分に発揮できないのだ。
「この大地と空と命に誓う。お前の言葉を俺は信じよう」
沈黙は、今度は数瞬だった。
「……あの男に俺は何も言っていない」
「ああ」
「あの男とはもう長い間会っていない」
「ああ」
「───あれはもう、俺に何の関係も無い男なんだ」
シーザーは、吐息のようにそう吐き出した。
だが、それはハドクの耳に届かないということはなかった。
ごとり、と。
抱えていた、完成した新型武器の最重要パーツをシーザーの机の上に置いて、ハドクは肩の力を抜いた。
「それを聞いて安心した」
まだ少し余韻を引いて強張ってはいたが、充分許容範囲といえる笑みを浮かべる。
用事はもう終わった、とハドクは退出の気配を醸し出す。軍師が久しぶりに休める夜が訪れると良いと願いながら。
「皆には俺から言っておく」
そんなことで、射光のシーザーに対する信頼に落ちる陰りを食い止められる筈が無い。
ハドクもシーザーもそれは知っていたが、シーザーは礼を言った。
部屋を去る黒髪の男の後姿を、見送る。
扉が閉まってすぐ、シーザーは表情を消した。彼の兄のように、感情を読み取れない能面。
薄暗い部屋に、ランプの明かりから伸びる影と光。
寒いな、と、シーザーは僅かに身を震わせた。
「そう……何の、関係も」
ない筈だけれど。
──真実全てを伝えられないことを許してくれ。
自分にも、よくわからないことが多すぎるんだ。
全てのことが正しく、全く確実に理解できる、と。
そのふりをしなければならないのが、俺達というものなんだ。
+++ +++ +++
「それで、次は何処だ?」
「帰ってきたばかりだと言うのに、もうそれか。せめて後一週間は待て」
全くもって子どもをあやす口ぶりで、アルベルトはユーバーを宥めた。
そう立て続けに事を起こすことに意味は無い。派手に動けばそれだけ何か不自然さが零れ落ちる。それはアルベルトの本意ではないのだ。
『射光』の重要な拠点の場所は未だわからない。
間者の話では、『射光』は何かの量産工場を建設したらしいというので、その手がかりも欲しかった。
「それで、何か掴めたものはあったか?」
「別に──それ程気になるものはなかったな」
ユーバーは馬鹿ではない。気分を損ねない限りそこそこに仕事はこなせる。
壊滅させたアジトの軽い探索くらい、何程の事でもない。そもそも一人で、短時間に人殺しをさせることにおいては、この男ほど有能な駒はないとも言えた。
「そうか……」
アルベルトは目を伏せ、葡萄酒色の髪を掻き上げる。
組織というものは、大きくなればなる程、粗が目立ってくるものだ。下部に異物を紛れ込ませるのは然程難しくない。
当然、アルベルトも幾人かの手先を『射光』に潜り込ませることに苦もなく成功していた。
それをそこからどう動かすか。それが肝心なのである。
革命派組織というものは得てしてそうなりがちなのだが、全てが一定以上の幹部の集まりに集中している。だから、本当に重要な情報というものが降りてこないし、広まらない。
リーダーやその側近が直接、内密に独断でする行動が多いのだ。
新興組織には国や公的機関と違いしがらみというものが無い。
形式や血筋、伝統から取り払われ全く自由に動ける為か、そもそも革命などを志す人物は自己過信、自分が全てを背負う意識が強い為なのか、自分勝手とも取れる行動を、してしまいがちだししても許されるのだ。初期に構成されたメンバーと、その他の違いが歴然とする、これが新興組織──それも短期間に成長したものの特徴のひとつだろう。
それに対するアルベルトの常套手段は、組織の中の不和を広げる事だった。
容易い事だ。何故か?
新興組織は、しがらみが少ない反面、伝統に裏打ちされた強固な位置や、形というものがないのだ。
組織は、大きくなれば成る程、立場というものの弁えが必要になる。しかし、『理想』を掲げる集団においての特別意識は反発の対象になる。
国ならば、一平卒は一平卒だ。何の疑問もなくそれである。
だが、『射光』は違う。同士だ。先天的な立場というものに変わりがないのに、上と下とが一対一の関係にない──矛盾。
組織としてある以上、権力の構造は出来上がっていく。意識して差を無くそうとしても、中々上手くいくものではない。
だから新興組織はカリスマのあるリーダーを絶対的に必要とする。そうでなくては勝手に内部分裂してしまうのだ。
しかし、それだけでは繕いえない脆さが必ず生まれる。
アルベルトが狙うのはまさにそれだった。組織の中の、少しの違い、少しの意思の不疎通を取り上げる。
今回の例ならば、正にシーザーは格好の標的だった。
この国の者ではない──それだけで他との差異が生まれるはず。
その癖に幹部である。尚且つ若すぎるほどに若い。反発の原因には事欠かない。
上から情報が降りてこないというのは、アルベルトにとってはデメリットのはずである。
だが、それは逆手にも取れる。上部と下部の差が歴然としているならば、下部に渦巻く噂を上部が上手く統制出来る筈がない。
知りえるアジトをじわじわと潰して行き、シーザーがスパイだと噂の種をまく。
よく考えれば有り得ない事だ。だが、人間はそれ程頭が良くない。事実に思い至ることは少ない。
実際、アルベルトとシーザーは繋がりがある、事実無根というわけでもない。
どんなに強固な意志だろうが、主体が人である限り綻びは生じる。
少しも揺らがない信頼など、それこそ夢想だ。
シーザーの傍にいるものなら、惑わされはしないかもしれない。
だが、それだけの人数、軍師が直接捌けるものではないだろう?
(さあ、大きくなった組織をどう扱うんだ?)
策というものは戦場でだけ扱われるものではない。
相手の戦力を殺ぎ、信頼関係を損なわせる戦略。真新しさの無い方法だが、それだけに堅実だ。
勿論こちらの間者が発覚する可能性も大きくなる。
しかし決戦はそう遠くない──まず有効な使い方だ。
シーザーは蜂起を急がねばならなくなるだろうから。影響が深部まで浸透する前に。
準備というものは、時間をかけた方が確実であることは言うまでもない。
「──そんなに急かしてまで、弟に逢いたいのか?」
降る視線を、アルベルトは見返さない。
気の無い様子で短く答える。
「勘繰るな、ユーバー」
「もう、貴様に相対するだけの力をつけたとでも……?」
しかしユーバーは勝手に台詞を続けた。
それに反応してアルベルトが顔を上げる。
「そうだな……彼奴はもう、それなりの事はやれるだろう」
少しだけ間を取ってから、アルベルトはそう言った。
何か裏があるのではないかと、そういった目つきで見てくる悪鬼に肩を竦めて見せる。
もう、彼は子どもという年齢ではない。自分が彼の傍にいたのは、二十年も昔の事だ。
「いずれ、世界を見渡せるようになる」
ある事さえ出来れば。
アルベルトは淡々とそう言い添えて、暗緑色の瞳を瞬かせた。
決別は、とっくの昔に済ませてある。
「……もう、彼奴と直接言葉を交わす事などないのだろうな」
ぽつりと落ちたその台詞。感傷ではない。
アルベルトの言う事は、殆どすべて実現する事だ。
ユーバーは其れを知っていたし、其れについて疑問を抱いたこともない。
「貴様はそれで良いのか?」
それで良い?赤毛の青年は薄く笑んだ。
アルベルトが、都合の良くない事などするわけがないだろうに。
「愚問だよ、ユーバー」
全てとはいわないまでも、お前は知っているだろう?
アルベルトという人間の性質を。
葡萄酒色の髪の軍師は、いつものように唇を開いた。
「俺は迷ったことはない」
「嘘だな」
あまりにも早く、あまりにもきっぱりとユーバーは返した。
それに少しだけ虚を突かれ、アルベルトはふと視線を上げる。
「迷わぬ人間はいない」
「………………………」
「誰一人として、いない」
それだけを言い残し、ユーバーはベッドを離れた。
床が金色に波打ち、黒衣の人影は滑らかにその中に飲まれていく。
その体の全てが見えなくなり、唐突に金の光は消える。
速やかに床は元に戻り、硬い存在を取り戻す。
取り残されたような感覚は、気のせいだろう。
「参ったな……」
珍しいことだが、アルベルトはくしゃくしゃと己の髪を掻き雑ぜた。
それが彼の弟と近しい仕草だと、自覚しているかはわからない。
「俺としたことが、言い返しそびれた」