盲目の憧憬。
夢を見ている。
男は自分と真正面から向き合っている。その不自然さだけで、これが夢だとシーザーは容易く看破した。
夢なら何度でも見ていた。短い夢を。
このところシーザーは熟睡というものからさっぱりと縁を切られていたので、自然夢を見ることも多かった。
概ね目を覚まして顔でも洗っている頃には忘れてしまうのだが、だからといって夢を見ているその時点では喜怒哀楽も深刻なものなのである。
呼びかける言葉も無いまま、シーザーは立っていた。そこに至る経緯は不明、忘れてしまったのか、それとも無かったのか。
目線を落とすと、靴の下にはくすんだ緑。それは枯れかけているのではなく、照らされ染められているのだ。その間にぽつぽつと咲いている花も、多分真実の色は白いのだろう。確認するすべは今のところ無いけれども。
オレンジと赤の中間の光。朝日なのか夕日なのかもシーザーは区別しなかった。どうせ夢だ。何程の違いもない。
逆光に輪郭だけを浮き上がらせている目の前の男に、シーザーは目線を戻した。
彼の色彩は判別できなかった。顔は影になり暗く、見えるところもすべて日差しが赤く染めている。
「───アルベルト?」
それはシーザーの兄に酷似していた。少なくとも、そのシルエットは。
渇いた喉から搾り出した名は、シーザーの胸に軽い痛みを走らせる。
ああ、あの場所だ、此処は。
実際にあったその時は、シーザーは彼の腰程にしか届かない身長であった。
遠い遠い記憶。馬鹿げた行為の取り繕いに、自分は無邪気に笑って見せた。
その時も、見上げた彼の顔は翳っていて見えなかった───本当にそうなのか?違う。
それはもう幻に近い思い込みなのかもしれない、けれどあの時。
微笑ってくれたと、思ったのだ。
「アルベルト───」
言うべき言葉も見つけられず、シーザーはただその名を繰り返した。
兄の事を、兄と呼んだ記憶は無い。いつもその名を使った。
アルベルトは「アルベルト」であり、「シーザーの兄」ではない。
目の前の影は微動だにせぬまま、時間だけが過ぎる。
何か言わねば、と、それは半ば脅迫観念にも近く、シーザーは震えた。
「あ、あの」
「………………」
「あのさ」
何が言いたいのか、わからない。
どもりながら、シーザーはいらいらと足踏みをした。再び俯いて兄の影を見詰める。
「お前は、お前はさ、一体何処まで行く気なんだ───?」
(それは、俺がついて行ける所か?)
馬鹿げている、とシーザーは思った。
これは己の意識が作り上げた幻。ならば返ってくる答えも己が作り上げた───己が望んだ答えに過ぎない。
自慰と変わりが無いではないか。
そんな思考を他所に、影はぽつりと言った。
「………どれほど長い旅の果てにも」
安心しろ、と。
「俺はお前の元へと帰る」
我が君、と、確かにその言葉はそう続いたように聞こえた。それをゆっくりと理解する。
は、と弾かれたようにシーザーは顔を上げた。
「………………………」
そしてその瞬間、もう夢は褪めていた。
+++ +++ +++
記憶にも残らない夢で気分が左右されるなんてのは、随分と不条理なんじゃないか。
そう考えても現実は変わらない。シーザーは溜め息をついた。
その溜め息を聞き逃さず、目の前の男は眉を顰める。
「俺にはわからない」
ハドクはそう言い、シーザーもそれはその通りだろうと頷く。
軽い頭痛が酷く鬱陶しい。ハドクは同じ言葉を繰り返した。
「俺にはわからない………」
シーザーは言葉を返さない。机の上の地図の書き込みを完成させるべく、一心に筆を動かしている。
目の下には隈が濃く、ハドクはそれが無いシーザーの顔を思い出せなくなっていた。
あれだけ昼寝を繰り返していた筈の軍師の寝ている姿を見かけない。頬は線が細くなり、体重もかなり減少しているだろう。
自室に篭り、昼夜を問わず文献を漁っては策のシミュレーションを繰り返している軍師。憑かれたよう、というのはこれを指して言う言葉だ。
明らかにオーバーワーク。
今日も、作戦が終わるや否や、一秒も惜しまず次の作戦の準備へと取り掛かっている。
勝利の宴も放り出して。元からそれ程酒や馬鹿騒ぎを好まぬ事は知っているが、いくらなんでも顔くらいは出していた筈なのに。
「………お前は何故そんなにも憔悴している?」
何故そんなに焦るのか。
ようやく場面は大きな舞台へと移ったのだ。もう、簡単に叩き潰せる目障りな虫としては扱われない。この『射光』は。
新型の武器の本完成も間近。数日中には量産へと移れる。全てが順調だ。
ハドクにはやはりわからなかった。
「勝っているんだぞ?」
「そんな筈は無い」
シーザーはあまりにもきっぱりと断言した。
「そんな筈は無い………!」
きつく爪を立てられた羊皮紙がぐしゃりと歪む。
ハドクは表情には出さず、驚いた。シーザーの取り乱した姿など、記憶にない。
シーザーは羽ペンを放り出し、肘をついて俯いたまま両手を額に当てた。
その肩は僅かに震えていて、まさか泣いてはいないまでも非常な自制をしているのだと推察できる。
「何故だ。今日も勝利した。明日は確かに未確定だが、それに今更怯えはすまい?」
シーザーはぶるぶると首を振った。明るい色の前髪が軽い音を立てる。
「確定してる」
「確定している、とは」
「今日の勝利は、明日の敗北への布石だよ」
「何を弱気になっている」
「弱気になってるわけじゃない!でもそれが事実なんだ!!」
癇癪を起こしたように喚き散らす軍師。
ハドクは、シーザーの懊悩を知っていた。精神的な変調をきたした原因を。
「それは呪いだ」
ハドクは静かに言った。
手駒をやって調べさせた彼の関係者は、まさに魔術師そのものだった。
既に近隣諸国にも名の届く、他大陸から来た軍師。単純な推察を混ぜて考えれば、二人に何らかの因縁がある事を知るのはさほど難しくない。
国側の最高軍師。聞こえは良いが、一度裏から彼を調べれば黒い噂には事欠かなかった。
そんな男なら、自分の知り合いに刷り込みをするのも容易いだろう。
ハドクは震えるシーザーの肩に手をやり、言い聞かせた。
「その男に対する苦手意識。それがお前自身に呪いをかけている」
いやいやをする様に首を振るシーザー。
宥めるようにハドクは言葉を続けた。この年若き軍師を、今失うわけにはいかない。
「信じろ、お前の能力は決して劣っていない。むしろ、呪いさえなければお前はとっくに彼奴の上に立てている筈───」
「違う!違う!違う!俺を買いかぶるな………奴を見縊るな!」
(あんたは、知らないから、簡単にそんな事が言える………!あの男を!)
シーザーはハドクの手を振り払い、乱暴にデスクから立ち上がった。
背を向け、積み上げられた本を崩しながら二、三歩進む。
「ダメだ………ダメなんだ…………!」
何度思考を繰り返してみても。
あらゆる状況を想定してみても。
相手があの男だというだけで、結果は同じになる。
「奴には、勝てない!!」
自身の荒い呼吸が耳障りで、シーザーはそれを消すように足踏みを繰り返した。
こんな醜態を見られた事がプライドに酷く傷をつける。冷静な自分が上空から此方を嘲笑っていた。
ハドクは、シーザーが思いもよらない解決策を持っていた。それも、酷く簡単な。
冷静に、何の気も無く、ハドクはその答えをシーザーに放ってやった。
原因と、結果。簡単な公式。
「───ならばその男を消してしまえばいい事だ。そうすれば呪いは消える」
そうだろう?
その言葉に、シーザーの視界が一瞬白くなる。
「な…………」
ばっ、と慌てて口元をおさえた。
何を馬鹿なことを。
そう、怒鳴りつけて仕舞うところだった。
震える拳をもう片方の手で押さえ、シーザーは呻いた。
背後のハドクから表情は見えないであろうことが救いだ。
二、三度、気付かれぬように小さく深呼吸する。
声が震えないように。
「出て行ってくれ」
シーザーは自身を抑えて言った。
ハドクはまだ納得してはいなかった。だが、これ以上の進言は役立たずだと悟り、低く了承する。
「………わかった」
扉に手をかけ、そのまま出て行くかと思えたが、ハドクは一度振り返った。
シーザーはまだハドクに背を向けていたので、その背中に向かって告げる。
「これだけはわかって欲しい。我等が望む国の為、我等の不幸をなくす為には、お前を失うわけには行かないんだ」
真摯な台詞。
ハドクは返事を数秒だけ待ったが、やがて諦めて去った。
「…………………い」
僅かに零れ落ちた言葉は、扉の閉まる音に掻き消されただろう。
シーザーはそれに安堵し、僅かに唇を吊り上げた。まるで、彼の兄のような笑い方。
理想の為?平和の為?
大仰な理念。
『射光』、革命、そんなものがどうなろうが。
どうでもいい。
………もう誤魔化せなかった。
力の抜けた膝は体を支えきれず、シーザーは倒れこんだ。
羊皮紙の束に頭から突っ込み、それに頬擦りをする。
「俺が」
冷たい床に奪われる体温。
「俺がアイツを追いかけるのは」
温もりがいつも傍にあると思っていたのは遠い昔の話だ。
白い、白い花の咲く丘が。
「ホントは世界のためなんかじゃない………!」
引き止めたいんじゃない。
引き止めたいんじゃないんだ。
「アイツが欲しいって言うなら、そうしたいって言うなら」
世界なんてくれてやろう。
歴史なんて。運命なんて。
お前が囚われるものを壊してもいいから。
だから。
(おれをおいていかないで)
綺麗なものじゃないんだ。
ご大層な使命感なんかじゃ、ないんだ。
一皮めくれば、只それだけが望みだったんだ。
でもお前は多分、知らないんだろう。知らないでいるんだろう?
知っていて受け流しているなら、俺は泣く事さえ出来ない。