在るべき姿の追求。

















冷えている。

夕闇の色を濃くした風は崩れた壁の間から吹きすさび、容赦なく体温を奪う。
乾ききった血が張り付く口元をゆっくりと拭うと、ぱらぱらと赤い塊が剥落した。
アルベルトは、男が去った後の空間に、特に何をするわけでもなく留まっている。

ぬるり、と奇妙な感触の気配が、その首筋を撫でた。

「ふん、無様だな」

軽蔑の色を隠そうともしないままの声が響く。
静かに、滲み出すように姿を現すもの。瘴気のこびりついた黒い影が、実体をなしていく。
何も知らぬ常人ならば裸足で逃げ出すであろう現象に、軍師は全く反応しなかった。

「返す言葉もないか」

ユーバーは、いまだ地べたに尻餅をついたままのアルベルトに向かってそう吐き捨てた。
突然の出現と罵りにも全く驚きを表さず、アルベルトは微動だにしない。その目は虚空を見据えている。

「…………………………」

無反応に益々気を悪くし、ユーバーは大股で二歩進んだ。獣の接近に、アルベルトは何の策も講じないようだ。具体的には、その言葉で危険を退ける事を。
アルベルトの髪に当たる夕暮れの日差しを、ユーバーの長身が遮る。ぼんやりとした暗緑色のガラス玉は、風景とユーバーを混同しているようだ。
此方の顔を見もしない不遜な人間ふぜいを見下ろしながら、ユーバーは唸った。

「聞こえていないようなら、耳を引きちぎってやろうか」
「…………………………」

その言葉から本気を感じ取ったためかは知らないが、アルベルトはゆっくりとかぶりを振ってみせた。
そんな微かな、おざなりな反応でユーバーが満足するわけも無く、金髪の悪鬼は挑発を再度口にする。

「少々痛めつけられたくらいで、ろくに返事も出来ないほどに腑抜けるとは、貴様は余程甘やかされて育ったらしい」

アルベルトは反論しなかった。
切れた唇からは、特に何の感慨も沸かない言葉。

「何か不都合でも?」

泥に汚れたコートの裾を汚物でも見るかのように睨んで、ユーバーは目を細めた。
その赤い赤い唇を曲げ、左手で帽子の位置を直す。

「こんな汚いボロ小屋で、屑に張倒されるのが本当に貴様の趣味ならば、全く問題は無いがな」

アルベルトの答えを待たず、ユーバーは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
その足が割れた床材の隙間から覗く地面を蹴り上げ、空中に砂埃を舞い上がらせる。それは勿論座り込んだままのアルベルトにも容赦なく掛かったが、誰も気にはしない。
苛立ちを隠そうともせず、ユーバーはアルベルトを糾弾した。

「何故抵抗しなかった?貴様に体力が無いのは承知だが──ならば何故助けを呼ばない」
「特に理由はありません」

ぼんやりと中空に据えた視線を動かさないまま、アルベルトが言い放つ。
きっぱりと返った言葉に、ユーバーの眉が不機嫌そうに寄った。

侮蔑の響きが、軍師の耳を刺す。

「可愛くないぞ」

ふう、と珍しい事だがアルベルトが溜め息を吐いた。

土についていた手をゆっくりと持ち上げ、額に当ててやや俯く。赤の前髪が顔を隠す。
その顎を、何の予備動作も無くユーバーは蹴り上げた。



響く、鈍い音。



泥人形よりもあっけなく倒れ伏す体。
くだらない。

「…………………」

無論ユーバーが本気で蹴ればアルベルトの小さな頭など軽く弾け飛ぶ。
悲鳴すら上げず仰向けに倒れた軍師を冷えた目線で串刺して、ユーバーはまた帽子に手を添えた。
手加減はしたつもりだが、まず間違いなく脳震盪くらいは起こしているだろう。もっと酷ければ、気絶。更に言えば顎の骨くらいは砕けたかもしれなかった。

弾みで舌を噛み切ってでもいれば死んでしまうかもしれないが、そこまでの気遣いなどくれてやる気はない。

「つまらんな」

取り繕う気も無い明白なる蔑みを積み重ねて、とうとうユーバーはその言葉を口に出した。
ユーバーにしてみれば、見限りの言葉に等しい。彼に享楽を与えてくれるのでなければ、人間の存在など全くの塵芥だ。壊れた玩具に拘泥などしない。
一歩踏み出し、倒れたその体の横に立つ。

見れば、予想に反してその曇りガラスのような瞳は、閉ざされてはいなかった。
だが、どう考えてもアルベルトが喋れるようになるまでにはまだかなりの時間を要するだろう。口を封じられた軍師など、物笑いの種にしかならない。アルベルトがユーバーに対抗する手段など、何一つ無い。

どうしようもなく、見苦しい。

ユーバーは表情を変えないまま、みっともなく倒れている男を上から眺めた。
白さなど、薄汚れてしまえばその染みを際立たせるだけ。

無様を晒すのならば、むしろ居ない方が良い。

砂埃に塗れた体、腫れ上がった頬と切れた唇。
順にユーバーは辿って、アルベルトを見据えた。その口元が、一瞬歪んで、そして引き締められる。

視線が、交錯する。

永遠にも近いその一瞬。
耐えられず、ユーバーは右手を振り上げ、振り下ろした。
ガラス細工をテーブルから落下させるような───指先を走る、その感覚。ぞくり、と、恐怖か快感に近いそれ。

ひゅっ

袖から引き出された獲物を逆手に握り、突き刺す。
キングクリムゾンは隠された首筋を目指して走る。

ざくり

が、しかし、その鋭い刃はスカーフを切り裂いただけで切っ先は地面に食い込んだ。
金と赤の眼差しが、物理的圧力を持って人の身に降りかかる。

アルベルトは、微動だにしない。瞬きすら、しなかった。
じっと、只こちらを見詰めてくるその暗緑色にユーバーは歯噛みをする。
いつもの、曇ったガラス玉であるなら。波ひとつ立たない沼の表面のように光る、そうであるならばこんな不快感は覚えないのに。
ユーバーは唸った。

「………なんだ、その目は」

当然答えは返らない。
零れるように台詞が続いた。静かな廃堂に響き渡る、悪鬼の責め言葉。

「らしくない。止めろ、そんな目をするのは」

ユーバーは凶器の柄から手を離し、アルベルトへ差し伸べた。
地に膝をつき、コートの上へと身を乗り出す。

ぐい、とまるで無造作に、袋の口を絞るように、アルベルトの首を片手で掴む。ひゅっ、と細い息が鳴った。
一瞬で握り潰せるその脆弱さに、ユーバーは少しだけ手に力を込める。慎重に、慎重に。

せめて今その目を閉じれば許す気にもなるのだが。

「貴様はアルベルト・シルバーバーグだろう」

その矜持を捨てるのならば、縊り殺して惜しくない。

今更、そんな些細な糾弾ごときで。駒ひとつふぜいの哀惜で。
揺れ動くというのならば、貴様などに手を取らせたこの俺の始末はどうしてくれる。

「……………」

ふと、アルベルトの右手が上がった。
己の命を握りつぶそうとしている悪鬼の頬に滑らせる、その動きはあくまで優雅だった。
ゆっくりと、滑らかな皮膚を擦っていくその動きを、ユーバーは別段咎めだてはしない。

白い肌を伝ったその指先は、床に突き刺さったままの刃に落ちていく。
愛撫をするように、アルベルトはその鋭い凶器すら辿った。まるで、悪鬼本人にするように。

研ぎ澄まされたその鋼に薄い手袋はあっけなく切り裂かれ、つう、と赤い液体が滴る。
キングクリムゾンの刀身を伝って、地面に染み込んで行く。少し切った、では済まされない量だ。

ひそり、と空気を震わせない音がその唇から発される。
それがもし謝罪の言葉だったならば、きっとこの廃屋は拭い切れない程の血で染まっただろう。悪鬼の癇癪の結果として。
アルベルトは、役に立たない喉は捨て、唇の動きだけをユーバーに届けた。

咎はこの血で償おう。

「────────」

アルベルトは、何度も何度も刃を撫でた。
切り裂かれる手のひらは、アルベルトの表情も、ユーバーの情緒も動かしはしない。

無音の言葉が光を伝う。

だが、とアルベルトは続けた。
だが。それでも。

『俺とて───』

修羅の道を歩み省みない軍師。
戦場で咲き誇る徒花。
その事に後悔は覚えず、誇りならばある。
高貴なる血統。
迷いは無く、迷いは無く、迷いは無い。

それでも。




『俺とて、この肉を斬られれば痛みを感じるのだ』




だから、時には不合理な台詞に心を動かされてしまうことを責めないでくれないか。

手を離しはしないから。




そして数分。

「………………………」

ユーバーは、軽く鼻を鳴らすとアルベルトの首から手を退いて立ち上がった。
血に濡れたキングクリムゾンを地面から抜き取り、袖に仕舞う。
どうやら、アルベルトの死刑執行は先送りにされたようだ。

咳込みながらアルベルトは身を起こし、立ち上がった。
己の血と埃と泥土で汚れたコートを払い、首に残ったスカーフの残骸を払い落とす。
無事な左手で葡萄酒色の髪を撫でつけ、血まみれの手袋は放り捨てる。

アルベルトは可能な限りの身支度をすると、怜悧な容貌をユーバーに向けた。
その後ようやく、きちんと空気を震わせて放った第一声。それは、いまだ擦れてはいたけれども、明確に鼓膜を鳴らした。

「あの男を殺してきてくれ」

温度の無い声。
あまりにもあっさりと、アルベルトは他人の運命を決める。

ユーバーは数秒の後、ゆっくりと嘲笑った。
アルベルトは、己が屈辱の腹いせになどは動かない。それならば理由は只ひとつ。

「………そんなに弟が可愛いか」

この男でさえも、血の絆が捨てられぬか。
ユーバーは虚無感をひた隠し、声を上げて笑った。放っておけば敵の軍師を屠ってくれるかもしれぬ駒を排除するなど。
肉親の情が策に勝るか。

敵を見るようなユーバーの瞳。
アルベルトは臆することなくそれを見据えた。一言軽く言い放つ。

「否。これは名の呪いだ」
「名の呪い?」
「くだらん、とは言わせん。ユーバー、お前も知っているだろう」

軍師は、己と世界を嘲笑うように唇を曲げた。

「俺は言葉によって世界を統べる。なれば言葉によって規定されるが道理」

生れ落ちたとき、物心ついたとき、己の名を解したとき───そして、忘れもしないあの時から。
アルベルトは修羅の道を知っていた。それが行き着く先すらも全て。

「俺はアルベルト・シルバーバーグだからな」

身の程を知る。アルベルトにとってそれは易き事だった。
彼の弟が生まれた時も、アルベルトはすぐにその程度を知った。

この血とその名の呪い。
それだけが、アルベルトの身を形成する。

「───彼奴が俺の王だ」

起点。道程。悲願を果たす終極へと至る幾つかの布石。
ユーバーは暫くの間黙していたが、やがて瞠目し、吐息のようにこう言った。

「それが貴様の宿命か」

アルベルトは揶揄う様に肩を竦め、ユーバーに背を向ける。
崩れた祭壇の背後に掲げられる、傾いだ十字を見上げて、軍師は何を思うのか。

「惜しいと思ってくれるか?」
「───人間ふぜいが、潔さを気取るなど。泣き喚けばまだ可愛げがあるものを」

ユーバーは軽く地面を蹴った。
次の瞬間には、身を屈めた体制でアルベルトの頭上を易々と飛び越えている。

ひゅん、と微かな電光が走り、アルベルトが瞬きをした次の瞬間には、祭壇は完膚なきまでに破壊されていた。
重々しい十字架は真っ二つに断ち割られ、ごとりと床に落ちる。細かなひびがそれを覆っていく。

「不敬だな」
「貴様は神を畏れるのか?」
「否」

アルベルトは首を振った。
ゆっくりと歩み寄り、ユーバーの隣に立つ。

「俺は神を畏れない」

アルベルトは跪き、血に染まった左手で崩れた十字に触れた。

「だが俺は神を信じているよ。その存在をな」
「…………無神論者だと思っていたが」
「意外か?」
「慈悲を求める性質には見えん」

一方的な判断に、アルベルトはくすりと笑った。
そう。慈悲を求めてはいない。

「そんな紛い物など要らないよ」
「紛い物?」
「自身の安寧を求めてヒトが作り上げるモノとは違う。ヒトが身勝手にその無能を罵り、責任を被せる為のモノとは違う」

執拗に固い石を弄るその指先が、血の跡を描く。
ユーバーは無言でその様を見守った。

「ヒトの為に、創られた神とは違う」

アルベルトは哂う。己と世界を。
悲劇喜劇を繰り返し、紡ぐ歴史の流れを手中にするのは、神ではない。

「この世界を創った神を、俺は信じているよ」

アルベルトの思考を、ユーバーは解さないだろう。
知りはしても理解はしない。だからこそアルベルトはこのような事を語れる。

「全知」
「全能」

神に必要なのはそれだけだ。
正しくなくとも、人格者でなくとも、公明正大でなくとも、慈悲深くなくとも。人間臭かろうとも私情が入ろうとも構わない。
むしろ、愚かでいいのだ、神というのは。こちらに無関心ならばなおいい。

短い嘆息が頭上から聞こえ、ユーバーの呆れをアルベルトに伝えた。
人外にしてみれば、どうでもいい話題だ。勿論アルベルトにとっても、世間話の域は出ない。

「神か。永の月日を生きてきたが、未だにお目にかかった事は無いな」
「永遠に存在を証明出来ぬ、それこそ神の証さ」

お前は神を見ることなどあるまいよ、アルベルトはそう断言した。
望む望まないにかかわらず、それをなしうる物などいない。

「それこそ五千年が経とうとも、神は姿を現さないだろう」

アルベルトがそういうなら、そういうものなのだろう。それを鵜呑みにする事はユーバーにとって簡単だった。
だが悪鬼は邪気無く、容赦無い問いを放った。傷つけようと思っていたわけではなく。

「ではそれを信じる事に何の意味がある?」


アルベルトは長らく答えなかった。






朽ちる、その響き。
乾いた唇が無感動に言葉を零す。それは誰の耳にも届かない。

「───許されぬ事か」

軍師が、意味なき事をなすなどと。