裏切られたと言わないならば。
「あんた、俺の事を知っているか?」
「いいえ」
唐突な質問に、アルベルトは静かに答えた。
だと思ったよ、とその男は唇を歪めて笑った。
+++ +++ +++
「俺に、弟がいた事は知っているか?」
「いいえ」
重ねられた質問に、アルベルトは静かに答えた。
知るわけがないな、と男は頬を歪めて笑った。
「その弟が死んだ事は知っているか?」
「いいえ」
冷え切った質問に、アルベルトは静かに答えた。
なあ予想してたんだろう、と男は眉を歪めて笑った。
この後に続く言葉も、予想してるんだろう。
「弟が利用されて捨てられた事は知っているか?」
アルベルトの、半分閉じられたその瞼の向こう側が薄く光る。
男の台詞は、まだ終わらない。
「弟が苦しんで死んだ事は知っているか?」
「それは酷い酷い酷い酷い死に様だった事は、知っているか?」
「───いいえ」
男は、瞳を歪めて笑った。
「ああ。それでこそあんただよ」
それでこそ、と男は繰り返す。
その手には、研ぎ澄まされて光る金属。
「あんた、お偉い軍師様なんだろう?」
「ええ」
「なんだって、こんなところにひとりでいるんだい?」
アルベルトが佇むのは、朽ちかけた廃墟。元々は教会だったのか、壁には十字架が打ち付けられている。それすら、風雨に晒され黒ずんでいたが。
穴の開いた天井から差し込む光が、アルベルトを照らしその影を伸ばす。
男は、薄暗がりからそれを見ていた。
「───音が聞こえたもので。この場所からだと思ったのですよ」
「もう壊れているよ此処は。人もいない」
そうですね、とアルベルトは肯いた。
「貴方は何故此処に?」
「あんたが見えたからね。あんたの顔は知っているよ、凱旋パレードで見たんだ。煌びやかな行列だったな。皆が拍手で出迎えて、兵士は泥で汚れた鎧に疲れを隠して笑っていた。でもあんたは、びっくりする程普通の顔でびっくりする程身奇麗だったから。だから覚えていたんだろう」
一息にそう言うと、男は声を出して小さく笑った。
アルベルトは無表情のまま、立ち尽くす姿勢も変えない。
「俺は『射光』の一員なんだ。まあ下っ端だけれどね」
「………革命軍ですか」
「きっとあんたの敵って事になるんだろうな」
「だから私を殺すのですか?」
アルベルトの問いに、男はゆっくりと、しかしきっぱりと首を振った。
「それは違うよ」
「では弟殿の仇討ちの為に?」
「………あんた、死にたがりなのかい?」
「いいえ、違うと思います」
男は体を揺らしながら、くつくつと笑った。
「俺の言った事に心当たりがあるのか」
「ありすぎてどれがどれだかわからないくらいには」
「そうかい。恨まれるのには慣れているって顔だな」
十字架の奥に吸い込まれるように、アルベルトの体を突き抜けて行く笑い声。
男は薄暗がりから、それを見ていたのだ。日差しを浴びる赤い髪、深い緑のガラス玉。
「でも違うんだ。あんたの心当たりは、全部外れている」
男は錆びた長柄のナイフを手にしたまま、肩を竦めた。
「俺の弟を殺した策を立てたのは、あんたじゃあないんだからね」
男の弟の死の原因は。
駒として利用され戦場に散った、彼の弟の死は、アルベルトの策によるものでは、なかった。
もはや役目を果たしていない、崩れ穴の開いた壁から吹き抜ける風が、足元の細かい砂や木屑を巻き上げる。
男は謡うように続けた。
「だから、あんたが俺の顔を知らないのは当たり前なんだよ」
「弟だって、あんたの命令を聞いたわけではないからね」
「あんたが起こした戦で死んだわけでもないさ」
「ジャニスの死の責任は、あんたにはこれっぱかりもないんだ」
男は、快活に、からからと哂った。
「だが、それが何だというんだろうと俺は思うよ」
さあ、っと日が翳る。途切れた赤外線による体感温度の低下、アルベルトの髪色は影を増す。
男は長い長い息を吐いた。
「あんたは俺の弟を殺したわけではないけれど」
「やっぱり俺の弟を殺してるんだ」
礼拝堂の、剥げた床の隙間から雑草が顔を出している。
アルベルトはなんとなくそれを見詰めながら、崩壊の音を聞いていた。
男の弟を殺した者も。
きっと、男の顔を知らなくて。
男に弟がいた事を知らなくて。
その弟が苦しんで死んだ事を知らなくて。
パレードを、平気な顔をして歩く。
「あんたは」
「あんたは」
「あんたは」
「何度も何度も何度も何度も」
「俺の、弟を、殺してるんだ」
そうだろう?
もう、男は笑ってはいなかった。
アルベルトは、代わりに僅かに微笑んだ。
「ええ。私はきっと、貴方の弟を殺しました」
ぱん
乾いた音がして、アルベルトは吹き飛んだ。
ぼろぼろに風化した長椅子たちを巻き込んで床に転がる。
「……………………ああ。それでこそあんただよ」
男はアルベルトを張り倒した姿勢のまま、その光景を眺めていた。
ゆっくりとした動作で、アルベルトが身を起こす。僅かに裂けた唇から、血が滲んでいる。
「あんたのせいだ」
「ええ」
「あんたのせいだ」
「ええ」
「あんたのせいだ」
「ええ」
「あんたのせいだ」
「………ええ」
アルベルトは立ち上がると、汚れた服の裾を叩いた。
男はゆっくりと低い声で告げる。
「『射光』にも軍師がいるよ」
「知っています」
「シーザー・シルバーバーグと言うんだ。あんたの弟なのだろう?隠してもわかる。実際に見ればすぐわかる。シーザーとあんたは同じ炎だ」
アルベルトは答えなかった。
「凄い神経だと思うよ。血族同士で戦争をするなんてな」
「……………………」
「何も感じないんだろう、あんたは」
実の弟を、その策で落としいれようとも。
実の弟から、殺意を向けられようとも。
『だから何だ』、と平気で言うだろう?
なあ、そうなんだろう。
「………それでこそ、軍師だ」
男は、右手のナイフは振るわずに、左手の甲でアルベルトの頬を再度打った。
朽木よりも簡単に、あっけなく倒れる体。
「狡いじゃないか」
「………………」
「あんた、こうやって殴られたところで揺るぎもしない」
「………………」
「俺は立派な凶器を持っていて、気が向けばすぐあんたは死ぬと言うのにね」
「………………」
「それなのに俺はあんたに勝てないんだ。表情ひとつ変えさせられないんだよ」
ずるいじゃあないか。そう思わないか。
人間は、もっと卑小なところで生きるべきなんだよ。
「あんたは自分すら大切にはしていないんだろうから」
男は、低く喉を鳴らしながら一歩踏み出した。
アルベルトは、今度は立ち上がらずにそれを見上げるに留める。
「だから復讐の仕様がないんだよ」
男は、低く喉を鳴らしていた。
それは、嗚咽だった。
「なんで………!」
「なんで俺ばっかりが、こんなに辛い………っ!!」
アルベルトの唇は閉じたままで、眠たそうな半眼を気後れせずに真っ直ぐに向けて。
男は立ち尽くし、唸り続けた。
「───怒れ。喚け。逆らえ。取り乱し、お門違いだと罵れよ」
なあ。
「それくらいはしてくれてもいいだろう………!」
なんでお前は勝ち続けるんだ。
「……………………………………」
当然の如く答えは返らない。
男の叫びは廃屋に木霊し続ける。
アルベルトは、男が去った扉を見詰めながらこう言った。
「………貴方達が本当にそれを望んでいるのなら、そうして見せても構わないのですけれど」
叩けば折れる脆弱なものを、本気で殴れると言うのなら。
───更なる絶望を見る事もあるまいよ。
「それでこそ、と言ったでしょうに」
衰えていく光が夕暮れの到来を告げている。