使い古された告白を、貴方に。
















「シーザー、今良いか?」
「ん、開いてるぜ」

扉の向こうから響いてきた声に、シーザーはすぐそう答えた。
鍵などかかっていないし、シーザーも気にしないことを知っているくせに、きちんと確認をとる生真面目さは嫌いではない。

シーザーは顔の上に伏せていた本を左手で取り上げて、机の上に放った。
生まれたときからこの大陸で暮らしていたならば、今更歴史や風俗の確認などしなくても良いのだが。

「どうした、ハドク?珍しいじゃないかこんな時間に。なんか問題でも起こったか?」
「いや、昼夜逆転の軍師様にはもしかしたらこの時間の方が都合が良いのじゃないかと思っただけで、他意はないさ」
「真剣な顔して言われると冗談なのか皮肉なのかわかんねえよ」

苦笑してシーザーはソファから上半身を起こした。
ぽんぽん、と無意味に肩を叩いて、へらりと笑ってみせる。

「んで?」
「ああ………まあ、たいした用事でもないんだが」

黒く長い、真っ直ぐな髪を首の後ろで一まとめに括った男───ハドクは、そう言って言葉を濁した。

「『たいした用事じゃない』って時程油断ならないんだよな。座れば?」
「いや、いい。すぐに済む話なんだ」
「言いにくそうだな」
「………そういう事は、普通わかっていても言わないものじゃないのか」
「俺、意地悪だから」

にこにこと笑ってそう言うその青年、二十歳を幾つも越えていないだろう青年。
それが、ハドクの所属する組織の頭脳なのだと、何者にも変えられない重要な役割を果たすのだと言えば、まず大抵の者が侮った顔をする。
いつもへらへらとした顔で居て、飄々とした態度を崩さない。人を食ったような返答をするときもある。ハドクとて、最初にシーザーと会った時には「こんな小僧に何が出来る」と言い放ったくらいだ。今となっては良い笑い話だが。

「言えよ」

それは命令する事に慣れた声であり、しかしハドクはその響きを傲慢だと感じた事は無かった。
シーザーの役割だからだ。
勿論シーザーは組織のリーダーではない。だが、彼の言う事を聞かないものなどいない。
リーダーが知っているのは目的地。シーザーが知っているのはそこへの到達方法。
わざわざ雇った道案内に逆らって、砂漠で干からびる旅人がいるだろうか。

それは、そうであることが必要だから、そこにあるのだ。

「皆が不安がってる。こう言えばわかるだろう」
「………………………」

シーザーは困ったように眉根を寄せた。口元は笑ったまま。
そういう表情が、彼を年よりも少し余計に幼く見せる。

「そうだな。もう遊びじゃないトコまで来ちまったからな。でも心配要らないさ、これまで通り───」
「違う」
「スパイの話か?それなら用心と調査はしてるよ、この前見つかった一人だけじゃないだろうけど、そこまで怯える事はもう」
「違う。そういう事じゃない」

ハドクはシーザーの言葉を二度遮ると溜め息を吐いた。

「無駄に話を逸らすな。もうわかってるんだろうから率直に言うぞ───何があった」
「うん?」
「一週間程前からお前はおかしい。昼に殆ど出歩かなくなった。モグラの生態調査をしているわけじゃないだろう」
「実はフクロウが夜どれだけ移動するかを、」
「…………シーザー」

ハドクは戯言の流れを断ち切るように、目を細めた。

「釈迦に説法だろうがな、軍師の変調は組織に影響する」
「………未熟者で、悪い」
「そうじゃない。問題があるなら、それを解決すれば良いだけの話だろう」
「正論だな」

シーザーは両腕をだらりとソファの後ろ側に倒して、眠たげな目をハドクに向けた。
そして、唐突に突拍子も無い質問を飛ばす。

「ハドク。アンタは自分の役割ってヤツがわかるかい?」
「………………」

唐突な質問にハドクは少し驚いたが、五秒後には至極真面目な答えを返した。

「それをお前がどういう意味で問っているのかわからないが………」

黒髪を無意識に片手で撫で付けながら、続ける。
シーザーは神妙な顔で言葉を待っていた。

「今の俺の役割は、この組織の維持と拡大を助ける事だな。それが改革に繋がる」
「………アンタの役割がそれだとしてさ」

シーザーがその緑色の瞳をやや伏せる。その動きは微かで、見た事もない深海魚の呼吸に似ていた。



「それを果たしたいと思うか?それを果たさなければと思うか?」

「………それを自分で決めたか…………?」




ハドクは眉を寄せる。

「………すまん。ますます理解し辛くなった」
「ごめん。言い方がマズイな」

シーザーはぱたぱたと手を振って、言い直した。
それは今度こそ至極わかりやすく、ありふれた問いだった。

「運命………いや、違うな。宿命。そういうモンを信じるか?」

役割。
運命。
宿命。
成る程、この青年には今そんな事に対する答えが必要なのか。

ハドクは十秒程黙した。

「………考えた事が無いな」

十秒考えて、出てきたのは結局そんなくだらない答えだった。
だがシーザーの目が先を促しているように思えたので、ハドクは続けた。

「それは例えば、俺が自分の役割だと思ってやろうとしているこの活動が、俺が生まれる前から俺がやるべく決まっていたのか、それとも俺が完全に自分の意思で選んだか、ということだろう?」
「多分近いと思う。………百八星とか、聞いたことあるか?」
「ないな。それはなんなんだ?」

聞き覚えの無い単語に、ハドクは怪訝な表情を浮かべる。

「百八つの星?何かの例えか?」
「………いや、まあなんでもない。それは今関係なかった、ごめん忘れて」
「そうか。じゃあ答えだ。俺はそんな事はどっちでもいいんだ。答えにならないか」
「どっちでも?」
「これが誰かに選ばされた道でも自分で進んでいる道でもいいさ」

ハドクは淡々と言い放った。

それは、そうであることが必要だから。
だから、そこにあるのだと。

「誰かに選ばされたなら今ここに居るんだろうし。自分で進んでいたなら今ここに居るんだろうさ。何処にも変わりは無い筈だろう」
「アンタは悟ってるな」

シーザーは首を振って肩をすくめた。
ハドクは少し笑ってこう言い足す。

「俺は目の前の、本当に目の先の物しか見えていないからな」
「それって皮肉か?」

憮然としたように鼻を鳴らすシーザーに構わず、ハドクは逸れた話題を元に戻そうとする。
緑の目の奥をじっと見詰める事は避けて、窓に視線を飛ばした。

「お前が何を考えているのかは知らないが」

この組織の維持の為に、シーザーは必要だし。
この革命の成功の為に、シーザーは必要だし。
この子どもが少しでも楽になることが、必要だし。

「お前の抱えている問題を言いたくないなら言わなくて良い。只、それを解決するために、誰が、何を、どうやったらいいのか。それだけ教えてくれ」
「………………………」

シーザーはぱたりと上半身をまた倒して、ソファに懐いた。
小さな声で呟く。

「アイツが、俺と、向き合うこと」
「………なんて言った?」

シーザーは曖昧に笑うと、今度ははっきりと言葉を紡いで見せた。

「皆が、俺に、少しだけ時間をくれる事。出来れば明日の朝まで」
「…………」
「そすれば元に戻る。確かに、ここ一週間俺は腑抜けてた」
「……無理する事はない」
「無理じゃない。気持ちの問題なんだ。心配してくれてサンキュな」

ソファのクッションに顎を乗せた、そんな自堕落な姿で軍師は結論を出した。
ハドクも、その言葉に従う事にする。
シーザーが、そういうなら、多分そういうことなのだろう。

まだ年若い軍師は、ハドクに向かっていつものように笑った。

「気持ちの整理がついたら、相談するかも」

そんな日が来る事はない。
シーザーもハドクもそれはわかっていたが、まさかそれを口に出すわけにはいかないのだろう。
代わりにハドクは少しだけ違うことを言った。

「俺はお前に感謝している」
「………なんだよ突然」
「あんなちっぽけだったグループ………只の血気にはやった若造達に、よくも力を貸してくれたものだ」

国を憂いてはいたが、大義を成すだけの力も、知恵も何もなかったあのとき。
あのときシーザーを仲間に引き入れたことで、この組織の運命は変わった。

「本当にお前には感謝しているんだ。俺だけじゃない」
「いや照れるから」
「お前がいれば、きっとこの戦争は止めることができる」
「…………だといいけどな」

溜め息を吐くようにそういったシーザーを、ハドクは嗜めた。過信は不必要だが、自信は必要だ。

「何故自分を過小評価する?身一つで海を越え、希望に向かって俺達を導いているお前が」
「希望………」
「生国でもないこの地のために、体を張って協力してくれているお前に、皆感謝している」

ハドクの生まれたこの国から、貧困と差別を無くすため。
自国を省みず対外侵略に精を出す王の目を覚まさせるため。

シーザーは、皮肉げに笑って肩をすくめた。

「買いかぶり過ぎだ。俺にゃそんなご大層な理念はないさ」
「照れるな」
「だから違うんだって」

ハドクは笑ってシーザーの台詞を流すと、この土地での就寝の挨拶をした。
左足をかかと一個分下げ、右拳で左肩を軽くぽんぽんと叩く。

「すぐ済ませるつもりだったのに、思いの他長居した。悪いな」
「いやそりゃ別に構わないけど」
「暇があったら工場にあれの試作品を見に来てくれ。思った以上の出来だぞ」
「そうか。そりゃ良かった」
「ではまた、明日の朝」
「……………ああ。わざわざ悪かったな」

ハドクはもう一度笑んで見せて、シーザーの部屋を出て行った。
ぱたり、と微かな音を立てて扉が閉まる。

「………………………………」

再び静寂の戻った空間。
ソファの上でシーザーは寝返りを打ち、仰向けになった。

一週間。
この一週間というもの、シーザーは満足に寝ていなかった。

傍らに積んだ本を手を伸ばして取り上げる。
一週間前、個人的に雇っていた密偵からの定期報告が入った。
この地の情勢と勢力分布、軍部の考えと宮廷内の人事異動、そしてこれから来る季節には───

そう。シーザーは、わかってしまったのだ。

もうすぐ、あの男が自分の目の前に現れると。
いや違う。もうすぐ、自分があの男に争いを仕掛けるのだと。

それからは夜、眠れなかった。
幾つもの文献をあさり、古今東西あらゆる戦での策と言うものを見返し、地図の上は黒くなるほど書き込みで埋まった。
焦っているのか、焦がれているのか。

机の上で光るランプの芯をじっと見上げる。
ゆらゆらと燃える炎。それに自ら飛び込む、飛び込むしかない羽虫の気持ちが、シーザーには今なら理解出来る気がした。

ハドクたちの目的は、とても美しい。
血と涙で汚されない世界。子どもが飢えない世界。皆が幸せになれる世界。

これは裏切りだろうか?
シーザーはくつくつと笑った。もう自分は十七歳ではなかった。

国。歴史。戦。誰かの嘆き。
そんな、ものは。


「俺はもう、そんなものはどうでもいいのかもしれないよ」


孤独な部屋に独り言が落ちた。

手紙を書こう。
何十通目かの手紙を書いて、丁寧に封をして、宛名を記して。そして引き出しに仕舞うのだ。


きっとあの男はこんな無駄な事はしない。
だからこの想いがどんなものか、あの男には永遠にわからないだろう。



あんたにあいたいよ。

あの、白い花の咲く丘で。



たったそれだけの事が、いつからこんなに大それた望みになったんだろうか。

いつからこんなにも自分の全てになってしまったんだろうか。