夕暮れと悪魔










夕闇の迫る窓辺に、少女は立っていた。
ガラスに遮られてはいるものの、まだ赤い色を残した光がその髪に反射し、同じ色に染めている。
人形のように綺麗な少女だ。色素の薄い肌もまた、夕日に晒されていつもより赤みが差して見える。染み一つ無い清潔な衣装は、いつもきっちり整えられている。
ショーウィンドーに飾られていれば、きっとマネキンと間違われたことだろう。

少女は透明な声で呟いた。まるで、陳腐な恋愛劇の台詞のようだった。

「どうして、貴方はそんなに無慈悲になれるのでしょう」

貴方―――その言葉が指すのは、少女の後ろに立つ青年だ。
窓から射し込む夕日は青年をも僅かに照らしていたが、その髪は染められるまでもなく元から赤い。
彼は情緒もなにもない、ただの事務報告と同じ声で、こう答えた。

「今更ですね、セラ」

セラと呼ばれた少女は微動だにせず窓の外を見つめていた。
何かの象徴のように落ちていく夕日を。誰もそれを防ぐことは出来ない。

………もう、止められないのだ。彼女には。

「―――貴方は充分すぎるほど有能でした。ハルモニア神聖国すら担ぎ出し、この広い地に戦乱を巻き起こしたのですから。それも、たった四人で………私は正直、ここまでこれるとは思っていなかったのに」
「それが私の役目ですよ」

さらりと返ってきた言葉に、セラは僅かに肩を落とした。
暗闇が、部屋の隅で領地を広げている。

「この儀式の失敗も、貴方の予定に入っている………そう、それならきっと、私達は失敗するのでしょうね」

苦い思いを噛みしめながら、これからの未来を確認する少女。
表情に乏しいその顔は、だからこそその美しさを引き立てている。

「ここまで私達に夢を見せただけ、寛容だったと言うべきなのですか?」

そこまで言うと、セラはゆるゆると身体ごと振り返った。
赤い髪の青年と向き合い、その目を見上げる。真摯に。
今度は答えは返ってこなかった。

少しの沈黙を挟んだ後、セラは首を振って言葉を続けた。

「でも貴方には、もっと他に方法があった筈なのです。ハルモニア神聖国での地位、そんなものを手に入れるだけなら」

アルベルトはまた答えなかった。
いつも通り、感情の伺えない視線を彼女の上に落としているだけ。

「貴方には、この戦を止めることが出来た筈。カラヤ、イクセ、チシャ、ルビーク………流れる必要の無かった血が、沢山流れました。それはルック様と私の我が儘の結果です、今更罪から逃れようとは思いませんけれど」

ぎゅ、と何かに耐えるように一度目を閉じ顔を背け、セラは身を震わせた。
逆光、しかもやや俯いているせいで、アルベルトから彼女の顔は見えない。

透明な声だけが、空気を震わせる。



「貴方は、夢物語を現実にしました」



セラは目を開き、再びアルベルトを見据えた。
その瞳に涙の膜が張っていないことは、彼女の強さだ。

「そしてそれを潰えさせました。本当に無慈悲です…………」

アルベルトは黙ったままだった。二度、同じ事を言うのが嫌なのだろう。

セラは拳を握りしめた。
それを振り上げ、目の前の男の胸に叩きつける。
胸の奥で燻っていた全てを、今吐き出してしまわなければならない。もう、彼女にはそうする時間がないから。

「―――それなら最初からこんな計画など捨て置けば良かったのです!ルック様の手がここまで血に汚れる前に!この地がこんなにも傷つく前に!!」

セラは叫んだ。叫びながらアルベルトを糾弾した。
それは衝動だ。慣れない行為だった。

「ここまで来て、全てが無駄であったと!そんな事を思い知らせるくらいなら………!!」

彼女の一番大事な人間の絶望を。
この男は、食い物にしたのだ。平然と、まるで当然のような顔で。

「ルック様じゃない、貴方こそ………悪魔の名に相応しい人殺し…………」

呼び出した人間の心の隙間に付け込み、そそのかす。
力を貸し与えておいて、最後には裏切り破滅させる。

そしてそれは、さしたる理想も目的もなく、ただ無意味に行われるのだ。

「知らなかったわけではないでしょう?」

予想通りに冷たい声が降ってくる。
セラは握りしめた拳をゆっくりと降ろした。華奢な首が折れ、ゆっくりと彼女は頷いた。

そう、わかっていたのだ。

「ええ、私達が愚かだったのです…………どれ程叶えたい願いがあっても、悪魔を頼ってはいけなかった」

影が床を長く伸びている。
それを見つめながら、セラは宣言した。

「私達は破滅します。それは私達の責任です………でも」

白いコートの裾が視界を遮っている。
セラはいやいやをするように、首を振った。絹糸のような髪が、さらさらと流れて煌めいた。アルベルトが目を細める。

「貴方にとってすら必要のないシナリオで、どれだけの血と涙とが、流されたのか………」
「それが役目だと言ったでしょう」

幾千もの人々の苦鳴を、そんな風に一言で切り捨てる。
自分達の苦悩も、殊更に無視して弄ぶ。

「貴方は、本当に、そんな事など何一つ気にはしないのですか………」

疲れたように、セラはそう言った。
アルベルトは変わらずその場に立っている。去るわけでも、近づくわけでもなく。

「恥を知らない男ですね、貴方は」
「それが私に必要だと思いますか」

先程アルベルトを叩いた手とは逆の手、そこに握られているのは魔導士の杖だ。
持ち主と同じように、繊細な装飾を施されたそれの先に、ぼんやりと灯が浮かぶ。

「アルベルト―――」

息も絶え絶えな夕日を浸食し、蒼い光がその場を満たした。

「ここで、貴方を殺しておきましょうか」

人形のように無表情な少女はそう言った。
吹き付けるのは、確かに殺気だ。

高い少女の魔力なら、不遜なこの青年を跡も残さず黒こげにすることも容易い。
それに対して、青年が用意した対抗手段は、言葉一つだった。

「貴女はそんなことはしませんよ」

それは断定だった。
決定事項のように、アルベルトはそう断定した。

「貴女は裏切る私を見逃した―――ルック様もだ。とっくにわかっていたのでしょう?私がこの儀式を止めることなど。本心から協力してはいないことなど」

貴女達は全て解っていて私を利用していた。頃合いを見て、計画から外すつもりだった。
でも、私を殺せないくらいには、情が移ってしまったのでしょう?

「貴方達は、本当に、人間らしいですよ…………」

アルベルトは優しげにすら聞こえる声で、そう言った。

虚無が少女の全身を覆い、杖の先から光が消える。
そう、所詮本気ではなかった。そのようなものを向けるには、この男は値しない。

「夢を見たがったのは貴女達です。破滅主義の人間だけが、悪魔に惹かれるのですからね………」

アルベルトはそう言うと、ゆっくりとセラの腕を取った。
二の腕から肘、手首と順番に、丁寧に指を滑らせる。その動作は、愛撫に似ていた。セラの身体から力が抜ける。
指先を触れ合わせ、うやうやしく持ち上げ。

そしてその白く儚い、もうすぐ失われてしまう手に、そっと唇を寄せる。

羽のように軽い、柔らかい口づけ。セラは抗わなかった。
それは一瞬のこと。すぐに過ぎ去る一瞬のこと。

「でも私は、貴女達が好きでしたよ」

聞き慣れた声がそう告げる。
セラは諦めたようにその目を伏せた。

―――悪魔は嘘しか言わない。

この男は結局、最後までいつもの表情を崩さなかった。
そう、悪魔に何かを期待する方が、心を傾ける方が間違っているのだ。唾棄し背を向け、目に入れるのも拒否するのが正しい選択。

だが、それでも。


悪魔というのは、どれ程蔑むべき存在だとしても―――確かに魅力的なのだと。