軍師育成。






『軍師育成』




初春のシルバーバーグ邸。
柔らかい日差しが、整った建物を照らし出していた。

敷地はまるで計算され尽くしたかのように『程々』の広さ。嫌味を感じさせない程度にこざっぱりした外観、庶民の反感を買う事はない控えめさだが、しかしさり気なく、その辺の上流家庭よりも二段階ほどレベルが上である。
それに気付く者は少ないだろうが、気付いたとしたらやや不快になるのではないだろうかと思う。成金趣味を堂々と晒している方が、可愛げと言う点では余程勝っている。

この屋敷の若様―――というのは大げさだが、取りあえず財産の相続権はあるであろう人物の一人、シーザー・シルバーバーグは、只今全力疾走の真っ最中だった。
勿論、趣味や気紛れでしているのではない。彼は身体を動かす事よりも昼寝の方が好きだったし、一般的に見てものぐさな性格だと自分で認めている。

ただ、今はそのようなことを言っている場合ではない。
鮮やかな赤毛は汗に濡れ、澄んだ緑の瞳は焦燥に翳っている。その背後には黒い影が見え隠れしていた。

追われているのだ。

息を切らせながら芝生を蹴立て、障害物を飛び越えて右へ曲がる。
シーザーは庭の中を逃げていた。
たまに振り返っては敵の影を確認し、彼我の距離を測る。耳を澄ませ、多方向からの襲撃に備える。
聞こえるのは、派手に土を蹴る自分の足音と、忙しない呼吸と―――

ああ、来る!!

シーザーはその小さな頭を振って、走り続けた。しかしどうにかして追っ手を撒き、家の中に逃げ込まなければ、やがて体力が尽き捕まってしまうだろう。
こと運動能力に関しては、相手の方が絶対的に上なのだ。
唯一の武器とも言える頭脳、その中に庭の地図を描き、最善の逃走経路を検討する。

このシルバーバーグ邸の庭は少し特殊だった。

小さな植え込み、レンガを使った舗道などは普通の家庭の庭でも珍しくない。だがここには小規模だが林や丘、池や川まであった。
その他にも切り株やベンチ、生け垣や薔薇のアーケードなど、この庭は非常に変化に富んでいる。しかも配置が複雑で、余程の手間がかかっていることは間違いない。

残念ながら、ほとんど迷路と化しているこの場所には、シーザーの望みである脱出口が一つしかないのだった。ただ、ここまで複雑でなければ今頃とっくに捕まっていることも確かなのだが。

自分を追い立てる足音を間近に捕らえたシーザーの顔には疲労と焦りの色が濃い。
しかし彼はまだ諦めてはいなかった―――諦念はすなわち終わりを意味するのだから。

身の回りにあるもの全てを利用し、計算し、自身を守らねばならない。

人生とは、戦いの連続である。シーザーはそれを知っていた。
救いの手は何処からも伸ばされない。そう、頼れるのは自らの才覚だけ。

細く喘ぎながら、なんとかして窮地から脱出しようと、シーザーは懸命に走り続けた。





庭を一望できる二階のテラスには、白いテーブルと椅子が備え付けられている。
そこには、落ち着いた葡萄酒色の髪を持つ青年が収まっていた。古びた厚い書物を開き、繊細な指先でページをめくっている。
柔らかな春風が、彼の前髪を軽く揺らした。

こちらもまた、この家の若様と呼んでも差し支えない身分―――七歳年上のシーザーの兄、アルベルト・シルバーバーグである。

ちら、と視線を庭に移したアルベルトは、神経質なまでの薄さを保持する陶器のカップを片手に、優雅に首を振った。それが湛えているのは、綺麗に澄んだ紅い液体。
立ち上る香気を充分に堪能してからカップの縁に唇を付け、一口ゆっくりと味わう。及第点だった。

彼のお気に召さないのは紅茶ではない。

「むやみやたらに衝突するのも愚かだが、焦って更なる窮地に飛び込むようでは話にならないな。シーザー、何故そこで左に避ける?」

彼の忠実な二つのユニット―――正確な動きで相手を追いつめるドーベルマンと、ほとんど気紛れにふらつき先の動きが読み難いミニチュアダックスフントとを操りながら、アルベルトは冷静にそう指摘した。

彼の声一つでドーベルマンは進行方向を変え、ボールを投げればダックスフントはそこに突進する。

「…………ビショップ、turn right。ルーク、go ahead」

移動する三点の動きを先読みしながら、アルベルトはページに視線を戻した。
あくまで彼の比重としては、読書七、弟の相手三である。

丁度そこから半ページほど読み進めた頃、つまり三秒ほど後―――屋敷中に響きわたる大きさで、罵声があがった。

「こんのクソ兄貴ィ~~~っっ!!!!」
「その発言は現状打開策として不適当だ」

アルベルトはティーカップをソーサーに戻した。
世界の終わりまで変わらないような、優雅な手つきで。

初春のシルバーバーグ邸。
柔らかい日差しが、整った建物を照らし出している。