喧嘩。
喧嘩。
「ルック様の馬鹿ぁっ」
ばんっ
とたとたとたとた。
やや荒っぽく扉が閉められ、精一杯急いでいるのであろう(勿論あの少女にしては、だが)足音が廊下を去っていく。
彼女の保護者的存在であるこの部屋の主は、大きく溜息を吐いた。
どうしたものか。
「失礼します」
直後、彼女の代わりに入ってきたのは、長身の男二人組。
アルベルトは丁寧に会釈をしつつノブを回し扉を開け、ユーバーは後ろ手、というより後ろ足で扉を蹴り閉めた。普段なら嫌味の一つでも言わずには済ませないルックだったが、今は精神力が足りないので不問にする。
まずいところを見られた。ルックは手のひらで軽くこめかみを押さえ、椅子に座ったまま二人を睨みあげる。
「珍しいな、あの女がお前を罵倒するとは。何をした」
「うるさいな、ユーバー。お前に関係ないだろう」
「関係なくはなかろう。オレ達は盟友だ。それでなくとも四人しかいないのだから、不和は出来るだけ迅速に取り除くべきだと思うが」
口元に笑みを浮かべ、ユーバーは自慢げに胸を張った。
「俺は最近新しい単語を覚えた。教えてやるぞ、『ちーむわーく』というヤツだ」
「……………正論だけど、お前にだけは言われたくなかったね」
からかいのネタを手に入れたユーバーをどうあしらうか。頭痛がしてきたルックは顔をしかめた。
この人外は人外の癖にいやにこういう事に興味を持ってくる。隣に立っているアルベルトのように、見て見ぬ振りくらい覚えられないものだろうか?
ふんふんと尻尾を振りつつ嗅ぎ回る犬のイメージをユーバーに重ね合わせながら、ルックは救いを求めてアルベルトの方を見た。ルックは一応アルベルトの雇い主なのだ。援護射撃くらいしてくれてしかるべきだろう。
彼は手元のファイルに視線を落とし、それをめくっていた。多分、報告書だとは思うが。
そのまま冷静な声で一言、
「浮気ですか」
前フリのない爆弾投下に、ルックは前述を撤回した。
「な」
「『うわき』?」
不意を突かれたルックが猛烈な反論しようと口を開く前に、『浮気』という単語に興味を持ったらしいユーバーがそれを遮った。
「うわきとは何だ」
アルベルトはまだ書類に目を落としたまま、ユーバーの問いに答えた。
ものすごい勢いで字を追っているようだが、教える台詞も淀みない。
「………①、心が浮ついていて、かわりやすいこと。移り気。②、愛情が一人に集中できず他にうつりやすいこと。特に、妻以外の女性、または夫以外の男性を愛すること。この場合は後者の意だ」
お前は国語辞典を暗記してるのか、というベタな突っ込みもできないまま、ルックは口をパクパクさせた。妻。夫。
ルックが白くなっている間に、ユーバーはふむふむと頷き、情報の整理を終えたようだった。嫌な予感がしたが、黙らせる暇がなかった。
「つまり、セラ以外とセックスしたんだな?」
がん。
ルックは机に額をぶつけた。それはもう盛大に。
大丈夫ですか、と表情も変えないままアルベルトが訊いてくる。勿論全然大丈夫ではない。
「なんでそうなるんだっ!!」
渾身の力を込めて頭を持ち上げ、ルックは叫んだ。
そのルックの言動に、ユーバーは不思議そうに首を傾げる。
「セラ以外の女を愛したんだろう?」
「そうか、お前の頭の中では『love』=『make love』なのか………」
そもそも『愛する』という概念が良く解らないのだろう。だから具体的な行為に直結するのか。
そんな人外の考察は後回しにし、ルックは当面の敵を睨み据えた。
「アルベルト。何を根拠にそんなことを………」
アルベルトはやっと紙面から目を上げた。
「いえ、セラがルック様に反抗するなら、理由はその辺りの事しかないだろうと推察したまでです」
それから資料の挟まったファイルとは別に、ピンクやらクリーム色やらのやたらとちんまりした封筒を差し出してくる。致命的に似合わない。
「それに『仮面の神官将』様宛に、恋文らしきものがこの頃頻繁に」
「……………………」
ルックは肩を落としてそれを受け取った。無造作に机の脇に寄せる。
「アルベルト、『こいぶみ』とは―――」
「そして先程中庭で、貴族のご令嬢と腕を組んでいたのを見かけましたので」
ユーバーに見本を一つ放り(勿論ルックの机から取り上げたものを)、アルベルトは言葉を続けた。
決定的瞬間を目撃されていたルックは、だんっと椅子を引いて立ち上がった。ユーバーによって遠慮容赦なく引き裂かれているハートマーク付きの封筒には、一瞥もくれない。
別人のように顔を赤くしながら、ルックはばんばんと机を叩き始めた。
「あれは彼女が勝手にっ!!っていうか僕とセラとの関係はそもそもそんなんじゃなくてええと父娘っていうのが適切なのか勿論血の繋がりはないけど僕はセラを愛してるし、いやでもこの愛してるってのはそういう愛じゃなくてだからコレは浮気じゃないしそもそもそういう意味でも浮気じゃないし、セラがそれを見て勘違いしたってのはあるけどそれもお父さんを取られるのはイヤだってカンジの心理によるんだろうしそもそも僕はあの娘なんか相手にしてないってのにセラは信じてくれないし挙げ句の果てに馬鹿とか言われるしああもうなんなんだよユーバーは僕とセラがそういう関係だとか誤解してたみたいだしあの娘には飛びつかれただけなのにそうだよ何もしてないのにアレが浮気なのかそうなのか僕が全部悪いってのかっ!?」
「落ち着いてください、ルック様」
元凶である筈の男に諭され、ルックは荒い息をついた。とすんと椅子に腰を下ろす。ユーバーは封筒と中の手紙の見聞を終えていた。
興味を失ったそれを彼が床に落とすのを、ルックは半眼で睨んだ。
「つまり、痴話喧嘩なのだろう?」
「なんで『痴話喧嘩』はお前の語彙に入ってるんだよ」
「ウィンディ様の最期がそれのもつれだったからな」
ルックは復讐にぎらりと目を光らせた。からかわれっ放しでは破壊者リーダーの面子が廃る。
「………何だ、僕はまたお前にもそういう経験があるのかと思ったよ」
「痴話喧嘩か?」
ユーバーは記憶を検索しているようだ。全く、妙なところで素直な人外だと思う。
この人外が痴話喧嘩など経験したことがあるのか、ルックは単純に興味を持った。
しかしアルベルトが口を挟んでくる。
「ルック様、この書類を見ていただきたいのですが」
す、と机の上に提示された紙。
それに視線を向ける前に、ルックはニヤリ、とでも擬音がつきそうな笑みを浮かべてアルベルトを見上げた。
「アルベルトは?」
「痴話喧嘩、ですか?あまりそのようなことは経験が―――」
突然ユーバーが顔をあげた。情報検索が終わったようだ。
「そうだ、一昨日の夜―――」
がたっ
アルベルトの左手が、ルックの机の上にあったペン立てを掠めた。
派手に倒れたペン立てから尖った羽ペンが何本か落ち、アルベルトが空中でそれを掴む。
そこまでは良かったのだが、その後何故かアルベルトが大きく手首を振った。
ぶすぶすぶすっ
彼の手から飛び出た羽ペンが、ユーバーの太股に突き刺さる。
何の脈絡もないので、ルックはきょとんとした。
「いきなりどうしたの?」
「いえ、指にペン先が刺さったので思わず驚いて………済まないユーバー、悪気はなかったのだが」
足を押さえてぎゃんぎゃんと悪態をつきかけたユーバーを、アルベルトはコートのポケットから取り出した飴を与えることで素早く黙らせた。黒づくめの人外の興味は、新しく貰った玩具に移る。
成る程こうやってあしらうのか、とルックは素直に感心した。
「まあ、痴話喧嘩以前にアルベルトは喧嘩に縁がなさそうだよね…………」
ルックは憮然として呟いた。喧嘩とは、対等な相手とするものだ。一方的にこき下ろしたり理屈で叩き伏せたりするのは、喧嘩とは言うまい。弱い者いじめだ。
そして、ある程度親しくなければ成り立たないものでもあることだし。
「そんな事もありませんが」
「え?アルベルトに喧嘩相手なんかいるの?」
聞きようによってはかなり失礼だが、ルックは他意はなくそう問った。
アルベルトは一つ頷き、
「実家に帰ると弟が煩くて」
アルベルトの弟。
ルックが想像したのは単純にミニアルベルトだった。
―――この鉄面皮が二つ並び、最大限に頭脳を駆使して舌戦を開始したら。
「それはかなりドロドロした喧嘩になりそうだね…………」
これは聞きようによらずとも失礼な台詞だろうが、アルベルトは気にしなかったようだった。
「いや、そんなことも無いぞ」
にゅ、と飴を食べ終わったらしいユーバーがいきなり首を突っ込んでくる。
そう言えばこの人外はレオンとも一緒にいた。シルバーバーグ家と縁があるのだろうか?
ルックは視線をユーバーに移した。
「見ていて楽しいな」
「楽しい?」
アルベルトが心なしか、イヤそうな顔をした気がした。
ルックは首を捻る。どう考えても、ユーバーに理解できるレベルの発言が飛び交うとは思えないのだが。
「コイツの弟は意外と賢くてな、普通に喧嘩をすると自分だけイヤな気分になることがわかってるので」
ふんふん、とルックは頷いた。
「まず殴るんだ」
は?とルックが目を瞬かせる。
ユーバーは身振りをつけて説明した。しゅ、と右ストレートを出す。
「何も言わずに殴りつける。噛むときもあるな」
アルベルトを指して、
「するとコイツが殴り返すんだ」
「…………………はあ」
「その後は乱闘だな、蹴ったり引っ掻いたり、論理的な台詞など一言も出ないぞ。まあ、二人とも体力がないから十分もすれば静かになるんだが。何せのび太君VSのび太君だからして」
ルックはその光景を想像しようと努める。
殴るアルベルト。蹴るアルベルト。引っ掻くアルベルト。
冷静沈着が売り物の軍師が。
「この男が床の上を転げ回っているのを見るのは面白いぞ」
「……………ユーバー」
流石に制止しようと声を上げたアルベルトを無視し、ユーバーは結論付ける。
「あえて得意分野を避けることで、負けをダブルノックダウンにまで持ち込む。賢いヤツだと思わんか?」
「彼奴は小賢しいだけだ」
少しばかり苦々しげに呟くアルベルトに、ルックはいつも通りの澄ました顔を向けた。
「………君の所は頭脳が売り物なんじゃなかったの?」
「………あの愚弟にはそういう自覚がないので………恥ずかしい限りです」
その台詞に、ユーバーが邪気無くアルベルトに問う。
こてん、と首を四十五度横に傾けて、
「七歳下と体力差がないというのは、恥ずかしいと思わんのか?」
アルベルトは悪びれずに言った。
「それがシルバーバーグだ」
いや違うだろ、と突っ込む人物はその場にいなかった。
騒々しい二人組が去った後、ルックは思わず机の上に突っ伏した。
あれだけ騒いで人の神経を磨耗させ、人の不幸で遊んだくせに、何の解決策も提示せずに帰っていくとは。
「結局、セラの機嫌を直すにはどうすればいいんだ…………」
そして流石にルックも、今この場を去った二人組が今度はセラの所に直行し、益々話をこじらせるような行動を取るとは予想していない。
「スタッフサービスの電話番号、なんだっけ…………」
それは正しい選択である。