ひっそりと静まり返った神殿の朝が、その日は、軍馬の蹄の音で破られた。
半里先からでもわかるその音に、神官達は揃って顔を見合わせる。

「何事か」
「さては、ミューズの侵攻が境界壁を破ったか」
「いやいや。確かにミューズ市長めの行動は迅速だが、まだ国境に至ってはいないはずだ。それに、敵軍が我らが領地に侵入したとなれば早馬が街にも来るだろう」
「そうだな。だが、避難の触れもなかった」
「情報が上手く伝わっていないのでは?」
「領主とて、今は戦々恐々としておるだろう。まさか敵軍を見逃すわけもない。それに、早馬がなくとも領民が騒ぐぞ」
「では──」
「では……?」

その頃には、誰が言わずとも場には答が出ていた。










『祈願』










ハイランド皇国と、同盟筆頭たるミューズ市は、仲の悪さと反比例するように広く接地している。

その間には山か、形ばかりの境界壁があるものの、境界壁の方は攻城兵器、兵の一軍を持ってすれば半日も掛からず突破出来た。また、山越えをするつもりであればそれも不可能ではない。

つまりは、ハイランドが同盟に攻め込むにも、同盟がハイランドに攻め込むにも、侵攻経路の限定をすることは難しかった。

国境には、領土を守る第三軍団が広く常駐しているものの、ひとつひとつの地を見れば充分な兵が居るとは言い難い。よって、第三軍団の任務は、敵の接近を後方に伝えること、そして「主戦力」の到着まで砦を維持すること、これに尽きた。

ハイランド皇国に言う主戦力とは、第四軍団のことである。
戦争において敵を蹴散らすことを念頭において作られた攻撃的な第四軍団は、有事の際には即座に最前線に召集され、戦火を撒き散らす。

ただ、このように相手から攻め込まれた場合、第四軍団も一致団結して行動するというわけにはいかない。軍の移動には膨大な手間と時間がかかるため、全軍を待っていては機に遅れるのである。

よって、前線に近い師団から順次到着し、衝突の時期を調整することになるが──

「──西の砦の第四軍は、確か、第十四師団であったな」
「さすれば第三大師団騎下……若き『火焔将軍』の采配に期待しなければなるまいな」

神官達の口ぶりには、揶揄の色が濃い。
将帥の地位についたばかりの者を、『火焔将軍』などと大層な名で呼んで持ち上げるのは、彼が失態を見せたときに転げ落ちる距離を伸ばす効果がある。

皇子の差配により、現在の第四軍の「将軍」はいずれも若輩だ。
第三大師団長はその中でも一番年若く、今春大師団長に昇進したばかりである。皇都から離れたサリカの地では余計に、平民での若者の大出世など眉唾物、疑って掛かる気持ちが先に立った。

神官のひとりは、相槌を打ちながら、『火焔将軍』がどんなものだったか思い返していた。
勿論、会ったことはない──ただし、皇都の式典の様子を描いた華やかな絵ならば年に一度サリカにも届く。娯楽の少ない地方では、領主館の前に飾られるその絵の前から人が失せることはないのだ。

だが、彼が考えるところ、絵に描かれていた筈の第三大師団長の姿は、あまり印象に残っていなかった。確か周囲に比べて・・・・・・小柄で、「なんだ、こんなものか」と思ったことは覚えているのだが。

座の一番上に座っている神官長が、重々しく言った。

「サリカ領は今、実りのとき。領地を荒らされぬためには、将軍殿には一刻も早く、兵を差し向ける決断をしてもらいたいと思っていた。数は期待出来ぬにしろ、もう来たとは喜ばしい」
「勝ち目が薄くとも?」
「それでも時間稼ぎにはなろう。充分な数の兵が集うまで……先兵達にはさぞかし無念なことだろうが、地の礎となってもらわねばなるまい」

ハイランドの兵は強兵だ。
だが、戦は勿論、数が多い方が圧倒的に有利である。同盟兵は準備をした上で、一定数をもって進軍してくる。せめて同程度の兵が揃っていなければ、無残な敗北を喫することになるだろう。

この短期間で、満足な出兵が出来るはずがない。
犠牲を考慮した上で、サリカを守るために時間稼ぎに出たか。それとも単に、考えが浅いだけか。

そんなところまで議論が至ったとき、場のひとりが、もっともな疑問を提出した。

「しかし、蹄の音がこちらに近付いてくるのは何故かな?」

今頃その発言が出てくるあたり、神官達はのんびりしているのである。

「──神官長、多数の軍馬が神殿前に!」

広間に神官見習いが駆け込んで来て、知らせを告げた。
そこでようやく神官達の重い腰が上がり、神殿の外へとぞろぞろと連なって出て行く。

最後尾の神官が石畳を踏んだ丁度そのとき、坂道を下ったところにある神殿の門の前に最初の騎馬が辿り着いたところだった。
騎馬はぐるりと門の前で円を描いて土煙と速度を収めてから、そのまま坂を登って来た。続いて、二騎、五騎、十五騎と先を争うように続く。軍馬の足と甲冑の立てる轟音が耳に煩い。普請した石畳が外れてしまうのではないかと思うくらいだった。

その音に負けじと、神官のひとりが金切り声を張り上げる。

「神殿に何用があるか……!」

その呼びかけは、軍馬の行進速度を少しも緩めなかった。

朝もやが冷たくけぶる坂道を駆け上がり、先頭の軍馬が本神殿の前に到達する。そこで馬の手綱が強く引かれ、前足が大きく宙を掻いて止まった。ぶるん、と馬が強く首を振るが、手綱を取る者は引き摺られることなく堂々としている。

居並ぶ神官達は、もしかして蹂躙されるのではないか、と無意識のうちに縮めていた背を伸ばし、ほっと一息つくことが出来た。彼らはあまり、荒事には慣れていないのだ。

兵の数は合わせて千、多くても千と数百、といったところだ。それでも当然、神殿の敷地内に入りきれるはずもなく、坂のふもとに大多数は残っている。足の遅い歩兵は、今ようやく森のずっと向こうに姿を見せたばかりだ。

となると、率いているのは大隊長だろう。神官達はさっと左右に分かれ、神官長に応対を任せることにした。

本神殿前まで辿りついた騎馬兵達は、次々に馬を降りた。
一番最後に降りたのは、一番最初に到着した男だった。一際派手な軍衣を着た統率者が、あたりを見回した後ひらりと着地する。少し、意外に思うくらい若い男だ。

身軽な動作に異議を申し立てるように、彼の着る甲冑が、がしゃり、と重々しく鳴る。それよりも良く通る声で、彼は口を開いた。

「先触れを立てぬ無礼を詫びよう。時間が惜しかったものでな」

男はこめかみにうっすらと浮いた汗を片袖でぐいと拭った。その動作にも金属の触れ合う音が伴った。
まさか、全身に鎧を着込んでいるのか? その重量はいかばかりか?

「第四軍第三大師団長、シードだ。サリカの土地神に戦勝祈願に参った……!」

まさかの名を聞き、ぎょ、と神官達が目を剥く。

「し、シード将軍殿でございましたか……!」

膝を折ろうとする神官達を、シードは片手で押し留めた。

小柄などとはとんでもない──何故、そう思ったのだろうか? 彼は、神官長が少し見上げなければならないくらいの長身だった。役者のように整った顔に、それを打ち消すほどに野性味の強い表情を浮かべ、軍人の形を見せている。惚れ惚れするような戦士ぶりだ。

無造作に晒されている髪は赤みが強く、軍衣の柄と相まって極めて人目を惹いた。『火焔将軍』とは、髪の色からついた名だろうか。

神官が彼の名を当てられなかったのは無理もない。
シードは、皇都ルルノイエに居る筈なのである。それが、最前線に一番に、直々に乗り込んでくるとは誰も思わない。しかも、たったこれだけの人数で。

神官達がシードに期待していたのは先兵を差し向ける決断であり、彼自身に駆けてきて貰おうと思っていた者はいなかった。


まさか、まさか、という思いが透けてみえる様子で、神官長は問いかけた。

「戦勝祈願とは……」

シードは呆れ返るくらい堂々と言った。

「言葉の通りだ。サリカの地で戦うのだから、土地神に勝利を祈るべきではないか? これから俺はミューズの阿呆どもを仕置かねばならんのでな」









+++ +++









神殿の裏手に周りこもうとしている見慣れない後姿を見咎め、神官見習は不審に思って声を掛けた。

「もし、そこの人……」
「え?」
「そこで何をしているのですか」
「ええっと……」

全身をすっぽりと包むマントを羽織り、大きな袋を担いだ男は、盗賊にも軍人にも見えない。強いて当てはめれば、野原で羊でも飼っていそうな顔である。
単なる旅人だろう、と神官見習は見当をつけた。

男は弱ったような口調でこういった。

「神殿を見学させて貰っていたんだが……皇国軍と鉢合わせだろう? なんだか、脇を通って帰るのも怖くてね。裏からぐるっと迂回しようかと」

なるほど、と神官見習は納得した。
別に、神殿の裏に宝物庫があるわけでなし、警戒する必要もない。

そこで、見習は男の後姿が神殿の裏手に消えていくのを見送ることもなく、そのまま通り過ぎた。
もし、ずっと凝視していたなら、男が担いだ袋の中身がもぞっと動いたことを、疑問に思ったかも知れないが。








+++ +++ +++








祈願の儀式は、厳粛な空気に満ちていた。
緑が強く香る森の神殿で、千以上の人間が物音を立てずに見守る中、神官長が祈りの言葉を締めくくろうとしたときだった。

シードが、ふと神殿の向こうを指差す。

「あれを見ろ」

彼の指の先で、一羽の白鳥がばさりばさりと天空の日に向けて羽ばたいていく。

空の青と鳥の白の対比は皇国の旗を彷彿とさせる。その場の全員が、しばらくの間その美しさに見とれた。
吉兆としか考えられなかった。この季節に白鳥は珍しい。

ははは、と静寂を破り、シードが笑い声を上げた。誇る様子だった。

「此度の戦は勝ちと決まった」

ざわ、と兵達がざわめく。呼応するように、木々も揺れた。
士気が上がるのが、手に取るように感じられた。

「サリカの神に感謝しようか。俺に、市長補佐の首をくれる」

そういうシードの姿にこそ、何か神がかったものがあった。長身はさらに大きく、笑む表情はさらに雄雄しく映った。彼の前に同盟軍指揮官の首が飛び、赤い血飛沫が舞う光景を誰もが思い浮かべた。

髪が赤い。衣が赤い。そして、敵兵を斬る血で赤い。まさに彼には、烈火の如く、という表現が相応しい。
彼が率いる軍が、負けを予定している捨石の筈がない。そう、彼は将軍であり、死ぬべき者ではないのだから。

「では往くぞ……!!」

戦の定石、そんなことは関係がない。
勝利は既に確定している。彼がそうする。烈火の如き勢いで、烈火の如き激しさで、敵の海を割っていく姿が見える──ああ、それはなんと見事なことだろうか!

ぞくぞく、と背筋が総毛立つ感覚。
応、応、と、兵が口々に剣を振り上げ、歓呼の声を上げた。鼓膜が破れるほど、空気が震えるほど、誰も彼もが吠えた。そこには、少数で多数に立ち向かう悲壮さなど欠片も見当たらない。
神官達でさえ、つられて腕を振り上げそうになった者が多かった。

必ず勝つ。
彼には戦神が憑いている!

再び馬上の人となったシードに、神官長が声を掛けた。

「神の加護が……貴方様にはあるかと存じます」
「神は確かにそうするだろうよ。それが正しいのだからな」

不遜、そして傲慢なまでの自信に満ちた台詞だった。
シードは手綱を絞りながら、馬の脇腹を蹴る。炎の残照を引いて坂道を駆け下りていくその男は、前しか見ていない。

「神に伝えてくれ。俺は期待は裏切らんとな!」







サリカの神殿に、戦勝の報が届いたのはまもなくのことだった。

シードは、山野を利用した先制奇襲攻撃によりミューズ市兵に甚大な被害を与え、国境を越えたばかりの同盟軍を押し戻すことに成功したらしかった。横っ面を張った、と言い換えてもいい。
こうなれば、同盟軍は第四軍が本格的に集う前に撤退するしかない。










+++ +++ +++









「あー、疲れた疲れた」
「お疲れ様です。シード様」

ぐうっと伸びをするシードに声を掛けて、副官が後ろから近寄ってくる。

ここは、サリカ領神殿の本殿の奥部だ。
見事戦勝をサリカの土地神に捧げた形のシードは、勝利の礼のためにまた神殿に寄ったのである。駆け通しの強行軍が続いていたことと、戦死者を奉じたい希望もあり、今夜はこの場に留まることになった。

「ここの人に人参貰ったんですけど、食べます?」
「…………」

シードは無言で副官の手から生の人参を一本もぎ取ると、ばきりと音を立てて齧った。
橙の色が濃い野菜は甘みを持ち、口の中から土煙の味を洗い流した。がりごりと咀嚼して、十秒ほどで胃の腑に収める。

「お前、ここに住み着くつもりじゃねぇだろうな? 明日の朝には能天気な神官と見分けつかなくなりそうで恐ぇよ」
「あ、そんなに清純そうですか?」
「別に誉めてねぇよ」

凝った肩をばきばきと慣らしながら、シードは眼前の澄んだ泉を眺めていた。
戦場の熱気が醒めてしまえば、演技をする必要もない。

ハイランドの地では、地理に長じたハイランド軍の方が有利である。
シードは、勝ち目のない戦いに挑んだわけではない──サリカ領の複雑な地形を知る者にとって、勝機は充分にあった。しかし、奇襲の類の作戦で重要なのは、速度と勢いである。そのどちらも、兵の腰が引けていては備えられない。

滅多に見当たらない鳥をろくな時間も与えられず注文されたことなんかちっとも恨んでいませんよという声で、副官はのたまった。

「いやぁ、ご利益のある神様で本当良かったですよね」
「…………。そうですねぇ」

何か言おうかと思ったが、気の利いた言葉が思い浮かばなかった。適当な相槌を打って、シードは瞼を半眼に落とした。

「……何か、寄付とか増えそうだよな。神官長に言っときゃ国庫に上納するかな?」
「いいじゃないですか、神殿が立派になったらシード様の武勇も具体的に広まるでしょ。次の戦勝も祈っておきますか?」

副官は自分も人参をぽりぽりと齧りながら、楽しげに説明を始めた。

「祈願の作法を聞いたんですけどね、ここの御神体ってこの泉らしいんですよ。こうやって、花の枝を刺してですね、三度願いを唱えればいいんですって」

はー、と大きな溜息を吐いて、シードは馬鹿にするように言った。

「他力本願は嫌いなんだよ。自分の願いくらい自分で叶えるさ。……利用はさせて貰うがな、俺は神に祈る必要はない」
「格好いい台詞ですねぇ。さすが英雄」

感心したようにそう言いながら、副官は泉に枝を刺した。
そして胸の前で手を組むと、真摯に唱える。

「お金、お金、お金」
「……お前ね」
「すみませんね、凡人で。でも本当、結構、願いが叶うらしいんですよ?」

小さい家が欲しいんですよね、とのうのうと呟いて、副官は泉の前から身を引いた。
それから、篝火の焚いてある本神殿前の方に戻っていく。どうやら本当に、ただ人参を届けに来ただけのようだった。

「…………」

その背が角を曲がって見えなくなるのを見届けて、シードはゆっくり十秒待った。
花の咲いている枝をぼきりと折り、泉に向き直る。

裂帛の気合が篭った声が、水面の上に小さく響いた。


「身長! 身長! 身長……!」
















「大尉! シード様はどちらに?」

本神殿の前に戻ると、副官の元には兵士達がばらばらと駆け寄ってきた。
どうやら皆それなりに寛いだところで、シードの姿が見たくなったらしい。確かに、あれだけ劇的な勝利を収めたならば、シードを崇め奉りたくもなるだろうが。

「……泉の傍に居たよ」

篝火より暑い熱気に押されそうになりながら、副官は連隊をなして突撃していこうとする彼らを呼び止めた。

「ああ、ちょっと待ってくれ」



「ええとな。今シード様は皇国の永久の繁栄と安寧、それに何だ、皇家の御名のいと輝かしきことを一心不乱に祈っているから、邪魔はしない方がいいんじゃないかな……」












『祈願』:END.