それは、シードがついに第三大師団を任され、軍団長ソロン・ジーの下についた頃のこと。









『適材』








訓示式典からの帰り道、シードはふと、疑問に思ったことを訊いた。

「団長。ひとつ伺っても宜しいですか」
「何をだ?」

新兵への訓示のために数日前から長大な原稿を用意していたであろうソロンは、その発表がまあまあ上首尾に終わったためか、機嫌が良かった。
シードは演説するソロンの背後で飾り物になっているだけだったので、緊張も何もなかったのだが──その、飾り物の話である。

第四軍の現在の編成は、三大師団だ。

第四軍の軍団長を兼ねた第一大師団長は、ソロン・ジー。
第三大師団長は、当のシード。
残る第二大師団長は──

「……クルガン──少将の欠席の理由、ですが」
「ああ」

シードが何を言いたいのかわかったのだろう、ソロンは僅かに口元を緩めた。

「気を回す必要はないぞ。奴には他の仕事があってな……別に、俺の後ろに立っているのが面倒だから逃げたという訳じゃないし、俺との関係が冷え込んでいるという訳でもない」
「そうですか」
「そんな事をいちいちお前に心配されるというのも面白いがな。彼奴の方が歳は上だろうに」
「……確かに」

でも、そういうこともやりかねない気がするんですよ、と内心でシードは続けた。
ソロンは高貴な色をしたマントを優雅に捌きながら、半歩下がって歩くシードに視線を寄越した。

「クルガンのことをそんな風に言う奴は初めてだ。シード、お前はクルガンと仲が良いと聞いていたが、それは間違いではないようだな」
「俺はそのつもりですが、彼奴はきっぱり否定すると思いますね」
「ふむ。まあ何にしろ、お前がクルガンを怖じず、嫌わないというのは、とても良いことだ。バランスが取れる──」

後半は半ば独り言のように言い、ソロンは頷いた。

「知っているとは思うが、前第三大師団長のエドウィント・ディグナーシュはクルガンと折り合いが悪くてな」

それはそうだろうな、とシードは内心で大いに頷いた。

ディグナーシュ家は誇り高い一族で──貴族をして、己が誇り高くないと評する者はいないだろうが──しかも、ディグナーシュ家の六男がクルガンの上官だった事がある。
つまり、嫡子であるエドウィントにしてみれば、卑怯者の挙句、自らの予備の予備の予備の予備の予備(貴族の子弟の関係性は、シードには理解し難い構造になっている)の副官に過ぎなかった雑種と肩を並べることには、多大な抵抗があっただろう。しかも、エドウィントの方が「第三」だというのだからそれは面白くないに違いない。

そのエドウィントがどうしているかと言えば、今は墓の下だ。

勿論、クルガンが謀殺したわけではない──ないと思う──が、エドウィントが功を焦っていた事は確かで、それ故に小で大を破る無謀な作戦を組み立てたのだとは評されている。
そして、彼が手柄を立てたがった動機は何か、そんなつまらない話題の一番に挙がるのがクルガンの名前だ。ディグナーシュを継ぐ者が、雑種の成り上がりに武勲で負けるわけにはいかなかった、と、それが座りのいい推理である事は間違いない。

──まあ、全て、憶測に過ぎないことではある。

「あまり、統率が取れなかった。お前は上手くやってくれ」
「Yes,Sir」

シードが不安に思っているのは、実際のところ、クルガンとの関係性ではなかった。今更、相性が悪いと不平を言い出すつもりはない。
危惧するのは、第四軍団全体のことだ。

自分で言うのもなんだが、シードは若い。他国の者が聞けば漏れなく失笑される程、若い。
シードだけならまだしも──第四軍団は師団長の三人ともが、最年長のソロンでさえ、ようやく三十路の域に達したばかりである。

他軍にも若い将帥はいるが、それでもここまで将軍の平均年齢を下げた例はあるまい。
まさか皇子の采配に面と向かって文句を言う勇気のある者はいないが、政務の長老達の不満は大きかった。軍務については口を差し挟まないようにしている皇王も、いい顔はしなかった。そしてシードでさえ、辞令を下されたときは、もう少し穏便な方法があるのではないかと気を回したくらいだ。

この状態で第四軍が失態を侵したり、機能不全である様子を窺わせたりすれば、それ見たことかと非難が殺到するに違いない。
──シードの首が左右されるどころか、第四軍自体の再編(そして、そのついでのように規模縮減)が行われかねない。

平時であればそれもいいが、シードが生れ落ちたときから、ハイランドは『戦時』だった。そして、都市同盟との戦争はどちらかが滅びるまでは続くだろうとシードは考えている。
アガレスはやがて退位し、ルカの時代がやってくるからだ。ルカは、飴ではなく鞭、いや、剣によって君臨する王になる。

第四軍は、シードは、どう行動すべきか──そんな事を考えているときに、クルガンが、儀礼といえど年度の始まりとも言える式典に欠席していたから、余計に気になったのだ。何を考えている、と。
ただでさえ見縊られている軍団の、更にナンバーワンとナンバーツーの関係性が損なわれていれば、相当に都合が悪い──それは、杞憂だったようではあるが。

やや安心したシードは、会話の接ぎ穂を探した。

「式典を後回しにして、彼奴に何を?」
「俺の背景に白黒紅白を揃えているよりも、効果的なことをさせている」
「効果的、とは」
「ハルモニアから大使が来ているだろう。その相手に出したんだ」
「……はあ?」

思わず頓狂な声を上げてしまったシードを、ソロンはいぶかしげに見た。

「クルガンを?外交の場に?」
「そうだが……お前は何をそんなに驚いているんだ?外交使節に熊を派遣したとでも聞いたような顔をしている」

ソロンの表現はあながち的外れではなかった。シードにしてみれば、熊の方が可愛い。
しかし、上官の判断を頭から否定するわけには行かず、シードは言葉を濁した。

「いえ……別に」

実際のところは、別に、で済まされる問題ではない。
クルガンという男が外交に向いているとは、シードにはとても思えなかった。

まず、愛想が悪い。
更に、確固とした卑怯者として内外の風評が悪い。
威圧するならまだしも、ハルモニアからの要人のご機嫌取りに仕える人材ではあるまい。

「……今回の議題は関税で、軍務とは関係ない筈では?」
「だからこそ、だ。クルガンを貸してやれば、政務に恩が売れる──奴ら、今回は譲れないのだと泣きついて来たからな」

ソロンは口の端を吊り上げた。
ジー家の勢力は軍務に偏っており、当然、政務の有力貴族とはライバル関係にある。ジー家の男子として、政略の駆け引きに通じておかねばならないのは当然か。

「クルガンの礼儀作法とハルモニア古語の発音、それに聞き取りは完璧だ」
「つまり、通訳ですか?それなら、政務にも専門家が──」
「それだけではない。まあ、単純に……奴は印象が良いんだ。お前は知らなかったかもしれないが、第四軍の外交関係は、殆ど全てクルガンを出しているぞ」

咄嗟に反論しないために、シードはかなりの労力を費やした。
シードはクルガンが嫌いではないが、それでも「好感が持てる雰囲気」だとは口が裂けても言えない。クルガンという名前の別人が第四軍には存在するのだという展開の方がまだ信じられる。

その心境を察したのだろう、ソロンは腕組みをして頷いた。

「──取り合えず、実際に見てみるのがいいだろうな。相互理解は重要だ」








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「──Quid non auditis veritatem?」

古い古い時代から連綿と受け継がれてきた言葉は、その重みもあってか、非常に傲慢な響きを持っていた。
柔和な笑みを浮かべながら、ハルモニアの大使は磨き抜かれた黒檀の卓の上に肘を突いている。その背後にはやはりハルモニアの役人だか護衛だかがずらりと並び、こちらはにこりともせずに正面を向いていた。

机の上に広げている羊皮紙にも、同じくシードにはわからない言葉でなにやら書かれている。ハルモニアのお偉方はハルモニア古語しか読めないというわけではないだろうが、やはり儀礼的な問題があるのに違いない。

シードには彼らが交わしている言葉は全くわからなかった(自慢ではないが、十分に操れるのは皇国語と共通語くらいだ)が、雰囲気くらいは読み取れる。
──相手側に、妥協の意図はない。

ハイランドの外務官も微笑を浮かべているが、そこには余裕の色は全く見えなかった。苛立ちが顔に出ないかシードの方が心配になるくらいだ。まあ、シードに心配されるようではお終いだろうが。

「……Mihi soli credo」

答えたのは、黒衣を纏った銀髪の男だった。
──そう持って回った言い方をする必要もなく、単にクルガンである。通常通り、表情という概念が絶滅している鉄面皮だ。こちらは、苛立ちが顔に出る心配はないわけだが、それ以前の問題がある。

やっぱり、とシードは思った。
何を言ったのか知らないが、大使の気に入る発言でないことは間違いない。いつものあの、『正しいが腹立たしい』という類の受け応えだろう。

舌戦で負けないということは、交渉が上手いということではないと思うのだが。

「Quid──」

(あー、絶対参加したくねぇ会話……)

聞いているだけで肩が凝ってくる。シードはうんざりしながら、後頭部をがしがしとかき回した。

ソロンとシードが居るのは、応接の間の隣の小部屋である。
何のための部屋かといえば、その通り、応接の間の状況を覗き見するためのものだ。事態の成り行きを見守り、必要とあれば臨機応変な対応を合図するための部屋──今も、シードの横の机を囲んでいる文官達は、眉を顰めて筆談していた。

見たところ、大使の攻勢は更に激しくなっている。
知の将だとか呼ばれていい気になっている生意気な若造に、苦杯を舐めさせたい気持ちはわからなくもない。

そして、最後通牒のように、大使は何事かきっぱりと言った。

「──Aut etiam aut non ipse responde」

そこで──初めてクルガンの表情に、変化があった。

彼は指先を組みなおした。そして、僅かに、言い淀んだ。
灰色の目に浮かぶのは、隠そうとして隠しきれない焦燥と、屈辱の色。そして逡巡。

それからクルガンは、ゆっくりと答えた。

「Responsum tamen unum est……」

大使の口元が緩む。
彼の笑みはもう、儀礼だけのものではなかった。優越感から来る悦楽と、ようやく服従した獲物に対する慈愛。

その隙間を縫って、クルガンは再び口を開いた。








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たとえば──たとえば、の話だが。

高慢で有名な猫が居たとして、それが自分だけに懐いたら、とても気分がいいだろう。
そしてつまり──はっきりと冷徹で、有能で、負けたことなどありませんという顔をした男が、自分に膝を折ったとしたら。腹を見せ、慈悲を請ったとしたら。

それはまあ、多少、気前の良いところを見せたくなるのが人間というものではないか?

「──かくて、いつの間にやら関税の引き下げは条件付きになり、本国に帰って一年後によくよく計算してみれば彼らは勝っても負けてもいないという仕組みだ」
「負けさせないのはどういうわけです?」
「シード……国力の差を考えろ。これはあくまで『これからたまたま条件が相手に不利益な方向に作用していく』だけで、『我が国が一枚上手だった訳ではない』ぞ。ハルモニアに勝ってはならんのだ」

次の交渉にも差し障りがあるしな、とソロンは続けると、貴族らしい仕草で襟元を直した。

「だが……頭でわかっていても、俺には出来ん。媚びへつらう真似はな──クルガンは良くやってくれている」

確かにシードにしても衝撃的ではあった。面の皮が厚い厚いとは思っていたが、クルガンにあんな演技が出来るとは、シードは初めて知った──それだからこそ、最も効果的なのだろうが。
しかし、ハイランドに役者大賞があったら是非とも一票投じてやりたい気分ではある。というか率直に、詐欺師コンテストに出場させたい。

「彼奴はあの外面で、政務の圧力も上手く散らす。どういう技術なんだろうな、あれは」

──クルガンは、侮られることは平気なのだろう。
それは確かに、シードには務まらない役目だ。たったあれだけのことに、自分の方が腹立たしい有様では。

「後は、俺の前でもあれくらいの可愛げがあれば、文句はないんだが。お前もそう思うだろう?」

ソロンの軽口に、シードは少し笑った。

確かに、もしも──クルガンが、自分の為にあんな真似が出来るのなら、人望や名声は得たい放題で、もっと楽に生きられるだろう。
けれどクルガンがそんな小器用な男なら、シードはけして彼に背中を預けることはしない。

「……団長に媚び売ってどうすんですか」

ソロン・ジーという貴族に対して、シードは少しばかり感心していた。
少なくとも彼は、クルガンやシードを蔑んではいない。この気質を見抜いて、取り立てて目立った武勲もなく年若いソロンを第四軍団長に据えたのであれば、ルカの慧眼には恐れ入る。

やや砕けたシードの返答に、ソロンは比較的、『貴族的ではない』動作で肩を竦めた。

「俺の機嫌が良くなるだろうが」
「いや、逆に鳥肌立つと思いますよ」
「……それはそうだな……」

想像してしまったのか、ソロンは嫌そうに唇を曲げた。
渡り廊下を吹き抜ける風が、シードの前髪をゆっくりと揺らす。斜め後ろから、シードは前を行く将軍の背をじっと観た。

シードはソロンより強く、クルガンはソロンより賢しい筈だ。
だから第四軍の勝利のためには、シードが、そしてクルガンが、名も無き無数の兵士達が、いくらでも役に立って見せよう。

──だが、第四軍の安定のためには、シードより、クルガンより、ソロンの方が軍団長に相応しいだろう。

シードはそう思って、ぐるぐると肩を回した。

「俺も──」

ひゅっ

ソロンの首筋を狙って脇から飛来した投げナイフを、シードは手を伸ばしてひょいと掴んだ。
殺気の隠し方、角度、速度、どれを取っても、及第点とは言えない。

「──若造だと思って舐められないように頑張りますよ。まさか、俺が傍に居て団長を暗殺出来るなんて、考えられないくらいにはね」

小さな刃だ。一応毒物は塗ってあるらしいが、シードは手甲を嵌めているので問題はない。
皇宮に許可無く持ち込める武器といったら、この程度の玩具だけだ──弓や剣を相手にしても、遅れを取るつもりはないが。

この、敵が多く、若過ぎる有様になった軍団を強く育てるのに、シードだけが何の役にも立たないなどという真似が許される筈がない。

視線をやれば、十歩ほど離れた植え込みの中から、どさりと音がする。
暗殺者が事切れたのだろう──たとえ成功しても、失敗しても、徹底して証拠を残さない。それが彼らの掟だ。

「……まさか皇宮内で、とはな。それ程俺が邪魔か──」

心当たりはあり、想定内の出来事だっただろうに、それでもソロンは沈痛な顔をしている。
そんな軍団長を慰めようと思ったわけではないが、シードは唇を吊り上げた。

「認めさせればいいだけのことです」

ソロンの代わりはいくらでもいる、この暗殺者を遣わした馬鹿はそう思ったのだろうか?確かに、武家の子弟ならその辺りに沢山転がっているが。
だが、シードの見立ては違う。

第四軍にとって、彼は都合のいい人材だ──貴族であり、その割に素直である。そしてそう、少なくとも、ソロンはクルガンを信頼している──ソロンには出来ない事をする男だと。

後は、シードを信じればいい。

獰猛と呼ばれる笑みを、シードは隠す事はしなかった。

ここまで来た、しかしまだ先がある。

クルガンが、誇りを捨てて実利を取ってみせるなら──シードのなすべきこと、シードに出来ることは。



「──俺はこの第四軍を、ハイランドで一番勇猛果敢な軍だと呼ばせてやるつもりです。俺は常に剣の切っ先となり、盾となり、兵の後ろに隠れはしない。最前線で、誰よりも多く敵を倒してみせる」



「俺はけして負けません。だから、俺を将に据えたことを、この国の誰もが誉れとするでしょう」

少しの沈黙の後、大言壮語だな、とソロンは呟いた。

「……それは、誓いか?」
「これから先の現実ですよ、団長」

シードは断言し、中断していた歩みを再開した。

進む道は、既に決まっていた。














皇国歴二百二十三年一月 人事発令
第四軍第三師団シード准将 大師団長任命






材』:END