刃は、折れることすら恐れない。
『怯懦』
「シード。貴様を罰するには手が掛かるな」
腹を切り裂いて、胃の腑に凶器が差し込まれる感触。
けれど、それは実際には、ただの言葉だった。物理的なことだけを言うなら、鼓膜にしか影響を与えない。
名実共に王となった男は、その風聞とは違い、不必要に声を張り上げる真似はしなかった。
狂気というものは、本当は、激しくも、大げさでもないのだ。特に、それが既に身の一部になっているのであれば。
「────」
ルカは、圧倒的な強者だった。
国家の最高権力者。その地位は、彼の力のほんの一部、付録に過ぎない。ルカの恐ろしさは、もっと根源的なものだ。
彼を人だとするなら、その他の者は、人間ではない。
絶対的な、種族の差があると言ってしまっても良かった。屠殺するものと、されるものは、同じ場所には立てない。
ルカは空を見詰め、少し思案している。
彼が椅子の手すりに肘を乗せる、その動作がやけに大きく響いた。十数人の人間が居ても、この場には呼吸の音すらないので。
「────」
膝を突き、頭を垂れながら、シードは瞼を閉じていた。
ルカに首を刎ねられる者は、珍しくはない。シードもこの目で、幾度も、飽きるくらいに、見た。
そして、それをシードが止める事はなかった──非情と、暴虐とは、違うものだ。彼の行動には理由がある。
ルカは、無能者に容赦しない。
害虫を踏み潰すように処する。
ルカは、臆病を憎み、脆弱を嫌悪し、何処までも力を研ぎ澄ます。ただ一振りの刃として。
だから錆を払う。
だから──有益な道具を折る事はしない。
「──首を刎ねる程ではない」
好悪ではなく、それは至極冷静な価値判断だった。気に入るか気に入らないかで言えば、ルカの気に入るものなどこの世にはない。
「手足を落とせば使えない。降格させれば士気が下がる──だが、許す訳にもいかぬ。やはり殺すか?」
そう言ったときには、既に彼は決めていたようだった。
粛々と裁断を待つシードではなく、居並ぶ幕僚に目を向け、一点で止める。
「俺の言いたい事がわかるだろうな、クルガン」
「 是 」
クルガンは直立したまま、静かに即答した。
けして間違えてはならない応対を、僅かの動揺もなくこなす。仕組まれた機械のようだった。
「連帯責任を問うべきかと」
「そうだ」
ルカは、虚無を映した黒い目を細めてみせた。
軍は、それ自体一個として動くべきもの──だからこそ、傍観者など存在しない。
あるいはこれは、見せしめとも言うのだろう。
だが、無為ではない。
将には、確かにその責がある。シードの首を刎ねぬと言うなら、対価が必要なのだ。
「貴様の利点はその良く回る舌と観察眼、だ。腕は要るまい」
「是」
「抜刀を許可する」
気まぐれや、冗談ではなかった。ルカはけして遊ばない。
狂気と理性が相反しないことを、ルカは体現する。だからこそ、彼は強く、だからこそ、彼は恐れられる。
クルガンが己の剣の柄に手を掛ける前に、ルカは続けた。
「貴様にではない。その役立たずの手では、手間取るからな」
「────」
「シード」
名を呼ばれる。
そこで頭を上げることを許され、発言も許される。シードは目を開けた──ただ一振りの刃として、心は平静だった。シードは激昂しない。
覚悟は既に出来ていた。
シードは立ち上がると、慣れた動作ですらりと剣を抜いた。
クルガンに向き直れば、彼はこちらに歩み寄ってくるところだった。シードの斜め前に立ち、淀みなくその腕が持ち上がる。無駄を一切排除した動作。
「────」
勿論右腕だった。そうでなくては意味がない。
異議を差し挟む者は誰もいない。己の選択出来る行動の中で、これが最善だと、皆が理解しているからだ。ならば、止める必要がない。
首でないだけましだったな、とシードは思う。儀式に費やすには、クルガンの腕というのは別に最悪でもない選択だった。
足ではないから、まだ歩ける。馬にも乗れる。
剣が扱えなくなっても、指揮は出来る。
軍人としてはそれで充分だ。義手の扱いも慣れている。ただ──
──きっと、クルガンが食事風景を誰かに見せる事はなくなるな、とぼんやり思った。カップに指も回せないのは、あまりに無様だろうから。
「────」
片手で抜いた剣を持ち上げる。
傷の鋭利さと痛みの強さとの因果関係をシードは知らない。だが、時間は掛からない方が良いに違いなかった。
シードなら、瞬きする間に落とせる。骨も、肉も、神経も。その技術と力がある。そんな風に大仰に言わなくとも、かなり容易いことの範疇だった。
シードにとって人間の首を刎ねる事は、大体、料理長が大根を切る手間と似ていた。ならば腕など胡瓜程度か。
「────」
シードは口の中で、悪いな、と一言小さく呟いた。
聞こえたかどうかは知らないが、クルガンは勿論、表情を変えなかった。腕の切断という運命を、なんでもないことのようにしていた。きっと、苦鳴も上げまい。
残念なことに──そんなことにも、この男は耐えられてしまう。そのように見せてしまうのだった。
思う。
これは本当に、シードへの罰だ。
真上にしっかりと定められた剣が、陽光を反射しながら美しい軌跡を描く。
真っ直ぐに、正確に振り下ろされる刃。
ひゅっ
ぶつっ
筋を切る音が、剣を伝わってシードの耳に届く。
何度も聞いた音だ。血管や神経の感触は肉に紛れる。
そして次は骨。
髄。
「──止めろ」
その命が聞こえた瞬間、シードは驚異的な膂力で剣を制御してみせた。
咄嗟に、空いていた方の手が刃を止めようと走ったが、それは全く間に合わなかった──結果的に、片手の力だけでシードは剣の手綱を取った。
慣性に真っ向から逆らい、刃を停止させる。
ルカの言葉の最後の文字の子音が消えた。
刃の切っ先をゆっくりと伝った血が、ぽたりと落ちた。
見る。
クルガンの腕は、切断されてはいなかった。
正確に言えば、刃は骨にぶつかり、それに食い込んだところで停止していた。三分の一よりは多く、二分の一よりは少ない。
「…………」
流れるような動作でシードは剣を引き、血糊を払い落とした。
鋭利な傷口は、溢れ出る血で覆われてすぐに姿を消す。その血の余った分は、どくどくと白い手袋へと流れ込み、指先に溜まってから地面に垂れ落ちていた。
ルカは目を閉じ、静かに呟いた。
「試しただけだ。──剣どころか書類も扱えぬ屑を作るつもりはないわ」
「──」
「……つまらんな」
ルカは、シードの反抗を──そんな愚かさを望んでいた訳ではないだろう。
だが、シードを躾ける為に効果的だと思っていたには違いない。当てが外れたか。
「懲りたなら、精々役に立て」
「はい」
御慈悲に感謝します、とは、シードは言わなかった。
彼の制止が、甘さから出たものではないことを知っていたし、それなのにそんな言葉を口にすればルカの機嫌を損ねるだけだとも理解していた。次はないことも。
四方から突き刺さる、呆れのような怯えのような視線を感じながら、シードは剣を布で拭うと鞘に仕舞った。
興味を失った王に追い払われ、背を伸ばして退出する。
軍靴が、硬い音を立てた。
一直線に、己の幕舎へと帰る。
ばさりと布を捲り、首を突っ込んで──薄暗いその中で一息吐こうと思った。二歩、三歩、進む。
寝台が見えた。
その瞬間、足元に、がしゃん、と何かが音を立てて落ちた。
何が?
「…………」
視線をゆっくりと地に下げる。
剣が落ちたのだ、とシードは客観的に分析した。そんな大層なものではなく、見たままだ。
剣──己が握っていた、剣。そして鞘。
「────」
かたかたと、小鳥のようにか細く震えている己の指を、シードは未知の生物でも見るかのように眺めた。
「……あー」
納得した風に、そんな音を漏らす。
ぎゅっと拳を握り締めると、シードはそれを目の上に当てた。
肉なんて、もう何度でも斬って来た。
だから嫌だなんて今更言えはしないし、慣れているのも確かで。恐れる事はない。──そう思って、いて。
そして本当に、斬れてしまうのに。
膝まで崩すわけにはいかなかった。歯を食いしばる。
立ち尽くしたまま、意識して笑い顔を作りながら、シードは呻いた。
呻いた。
「俺も結構、可愛いトコあんじゃん……」
なあ、これは救いなのか。
『怯懦』:END.
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