「やった……!」

それは言葉になっていたかどうかわからないが、少なくともそう叫んだ気分で、レフトは茂みを潜り抜けた。途端に広く開ける視界。空の青。

緊張が切れたせいか、足が無様に縺れ、草の上に顔面から倒れこむ。
背負った背嚢に押しつぶされた肺から空気が逃げ出した。その苦痛も、今のレフトには喜ばしい。

首だけをようやく上向きにし、眼球を左右に動かす。
それだけのことで、レフトは最後の力を使い果たした。

己の体重と同じ重さにした荷を担いで、この山を登ることが課題だった。
勿論、山と言っても、練兵場からそう離れた場所にはなく、遭難するほど深くも険しくもない。だとしても、少年にとってこれは大層な偉業だった。

半日。ここまで来るのに半日かかった。
手足は鉛のように重く、疲労というのも馬鹿馬鹿しい状態だったが、レフトの気分は明るい。
何故かと言えば、この広場に、レフトの他に人影がないからである。

汗を振り絞って必死で歩いたのは、この瞬間の為だ。
広い空、澄んだ空気、苦痛からの解放、それよりも何よりも、この満足感!

(俺が一番だった)

面映い気持ちでその言葉を噛み締め、レフトは発作に近く暴れる心臓を落ち着かせようとした。
けれど、手足が動かない。肺だけが大きく伸縮して、生命活動を維持している。
汗ばんだ頬に、草の感触が心地よかった。濃密な緑の臭いに鼻が麻痺してから何刻経っただろうか、今はもう気にならないけれど。

目の奥がちかちかとするのは、汗を流しすぎたからだろうか。
何度も転びながら、レフトは他の者は敬遠するだろう険しい岩場を通過してきたのだ。早く、早く、と気ばかり急く中、少しでも近い道を探した。
楽をするためではない。

背嚢の重みに辟易し、レフトは仰向けになろうと四苦八苦した。
糸の切れた体は思うように動かず、大地が粘りついて手足にまとわりつく気がした。それでも何秒かの後、レフトは仰向けになることが出来た。

ひゅっ

「──」

それが、刃が空を切った音だったのか、自分の喉が鳴った音だったのか、レフトには判断がつかなかった。
木剣の先が喉に突きつけられ、ぴたりと静止する。

ごくり、とレフトはつばを飲んだ。
その動きで、喉と刃の先が触れ合った。

「……死んだな、レフト」

木剣を握った教官は、淡々とそう言った。

「不合格だ」

そんな、とレフトは言いかけたが、どうにかその言葉を飲み込んだ。
それよりも、立てと言われる前に立たなければならない。でなければ厳しい罰則が待っている。まず膝を突き、それから気合をこめて上半身を持ち上げた。背嚢を下ろすことなど勿論許されるわけがなかった。

「一時たりとも油断するな。目的を果たしたからと言って心を折るな。敵を殺せばそれで終わりか?次の瞬間に後ろから刺されるぞ」
「Yes.sir!」
「言われたことも出来ない奴は死ぬ。だが、言われたことしか出来ない奴もまた死ぬ」
「Yes.sir!」
「不服そうな顔だな」
「No,sir! ご教授ありがとうございます!」
「ならば腹の底から声を出せ!XXX野郎でないなら腑抜けるな!!」
「Sir-Yes.sir!!!!」

半ば自棄になりながらレフトは叫んだ。
教官はざくりと木剣を突き刺すと、その上に手を置いて頷いた。

「よし。ではその装備を背負ったまま匍匐前進で初期地点まで戻れ」
「──ぃ」
「返事は」
「Yes.sir……!!!」

口ごもった時点で張り倒されなかっただけ僥倖だった。
レフトは即座に這い蹲ると、肘でにじりだした。だが、やりおおせるとは自分でも思わなかった──もう限界だ、どうせ無駄だ、そう考えると今にも気絶してしまいたい程だった。

本当は、山の上から見渡せば皇都が遠くにうかがえるのではないかと期待していたのだが、そんな事すら出来そうにもない。

「おいレフト」
「Yes.sir!申し訳ありません!」
「……まだ何も言ってないだろうが」

教官は苦笑いしながら、見上げるレフトにこう言った。

「不合格は不合格だが、良くやったな。喜べ、ここに着いたのはお前で二人目だ」
「────」

見込みがあるぞ、そういう教官の声が遠かった。

「……ありがとうございます」

レフトはそれだけ言うと、また前を向いて肘でにじり始めた。
噛み締めた唇が苦かった。









『少年兵』









げえげえと木の裏で胃の内容物を吐き出しながら、目元を拭う。
日が落ちても、まだ訓練場に残って課題を続けている者の方が多い。レフトもその一人だった。

水飲み場で口をすすぐと、笑顔を作って仲間の元に戻る。

「あ、後何回残ってたか忘れちまった」
「うわ馬鹿だなー、やり直しじゃん」
「え!?お前覚えてくれてたんじゃねーのかよ!」
「何で他人の分まで」
「友達だろー!」
「それとこれとは別問題ですなぁ、レフト将軍」
「そうですなぁ、貴殿は兵の模範とならねばなりませんからなぁ」

気取ってそんな事をいう一人の頭を叩きながら、レフトは仕方なく素振りを初めからやりなおし始めた。
少年兵用の木剣といえども、中には鉛が仕込んであってそれなりの重さになっている。全力で五十も振れば握力がなくなる代物だ。

「おら、上体泳いでんぞー」
「うるせー外野!お前らも回数増やせよ!」
「それとこれとは全く別問題ですなぁ」
「そうですなぁ」
「そのキャラも止めろぶぁーか!!」

そう怒鳴った途端、汗まみれの手のひらから木剣がすり抜けた。
あ、と思う間もなく、木剣はそのまま飛んで行き、離れた場所にいた少年にぶつかっていく。

「!」

けれど、少年は軽々と木剣を受け止めると、そのままくるりと回して地面に突き立てた。
しん、と静寂が落ち、空間が張り詰める。

「……」

レフトは、自分が謝らねばならない立場だとはわかっていた。
けれど、この相手にはそうしたくなかった。

「俺の剣に、触るな」

蔑むような声が出た。
馬鹿、と慌てて袖を引っ張る友人の手には気付いていたが、撤回する気はなかった。

「……俺だってお前の剣になんか触りたくねぇよ」

シードは声を荒げずにそう言った。
そしてその端正な顔を睨みつけるレフトの視線を振り切るように、背を向け離れていく。それだけ確認して、レフトも目を逸らした。

代わりに慌ててレフトの剣を取りに言った一人が、早口でまくし立ててくる。

「お前勇気あんなー、シードに突っかかるなんて」
「知らねーよ、あんな野郎」
「あ、そうか、お前ら前は同室だったっけ──」
「関係ねーよ!」

そういうと、レフトは仲間の手から自分の木剣を奪った。

「でもよ、あんまシードを怒らせない方が良いと思うぜ?ホラ、組み手で誰かがいきなり腕折られたって噂──」

それは俺だ、とはレフトは言わなかった。
代わりに、他の一人が反応する。

「マジで!?いっつもスカした顔で外れてると思ったけど、もしかしてそれが原因な訳?」
「いや違うだろ、俺話しかけたことあんだけど、普通に追っ払われた」
「──『志』が違うんだろ」

思ったより冷たい声が出て、レフトは慌てて取り繕った。
笑みを浮かべながら、肩を竦めて見せる。

「あんな野郎のことより、俺また回数忘れちまったんだけど!」
「……お前馬鹿だろ、レフト」
「こりゃー将軍は無理だな」
「うっせーー!!」

そう叫びながら、レフトは半年程前のことを思い返していた。






+++ +++ +++






みしり、と。
初めて折った骨は、偽物のような音を出した。

一瞬のことだった。
まさかそんな、と、レフトはそう思った。

ただの最初の組み手、それも、受身をとって起き上がる、ただそれだけの訓練だった。
けれど、シードに投げられた途端──おそらく地面に叩きつけられる前に、レフトの肩は外れていた。

そのことに混乱する間もないまま、次の瞬間には腕の骨が。
呆然としたまま、レフトは医務室に運ばれた。脱臼亀裂骨折という診断だった──骨折としては単純なもので、後に残るような問題もなかった。

少年隊の予備訓練組織である幼年隊に編入したばかりのレフトは、こんな事で泣いたり、シードを責めたりするのは男らしくないと思っていた。たとえ、この怪我のせいでスタート地点から出遅れたとしても、不自由な生活をする羽目になったとしても、痛み止めが切れて眠れない日が続くとしても。

そこで──固定した腕を抱きかかえて自室に戻ったとき、出迎えたシードにレフトはこう言った。気まずい空気をとりなす必要があると思った。
レフトは村から出てきたばかりで、こんな事で友人を失いたくなかった。同じ年頃の少年と比べて、既にシードが頭抜けて強いことはわかっていた。今となっては認めたくないことだが、多少の憧れもあった。

気にすんなよ、何でもないから。
そう言おうとした一瞬前、シードの方からこう言った。

「……悪かったな」

良いよ、とそう返そうとした機先をまた制して、シードは続けて言った。
独りごちるように。

「これから……もっと気をつけるから」

その瞬間、レフトはシードが大嫌いになった。






シードは近寄りがたい雰囲気の少年だったが、レフトが話しかければ答を返したし、幼い夢をぽつりと語り合ったりもした。新しい地で出来た最初の友だと思っていた。レフトが周りを明るくし、レフトを通して他の少年とも交流することで、シードも多少たりとも喜んでいるような気がしていた。
何故その時、シードがレフトにとって、いかにも耐え難いものになったのか──

そう考えざるを得ないことは理解できた。
レフトはきっと、シードが傷付けないように注意しなければならないもので。
踏み潰さないように、怪我をさせないように。

そうか、お前は。お前は──


「……他とは違うって?」


お前が怪物なのか。
それとも、俺が家畜なのか?

レフトが、シードを負かそうと躍起になるときに──シードは、レフトをいかに傷つけないかを考えている。
そうか、それは仕方がないな。だってまさか、ストーンゴーレムが兎相手に本気を出すわけにはいかないものな。そうだ、仕方ない。シードのせいではない。勿論自分のせいでもない。それはそういうものだから、それなりに対処していくしかないだろう?
傲慢だなんて、非難してはいけないだろう?シードにはその気はない。絶対にない。ただ呼吸でもするような自然さで──

レフトに気を使っているだけなのだろう。まるで、若芽を踏み潰さないように迂回する子供のように。


踏んだらかわいそうだから?


「凄いな」


レフトが昨日までしてきた努力?そんなものは純然たる事実の前には紙切れ一枚の重みもない。
そもそも違うだろう?少し見ればわかる、シードは逸材だ。果ては准尉にもなれるかも知れない。野心もある。

たいした理由もなく村を出た自分とは違うか。
口が減らせる、仕送りも出来るかもしれない、それなら他に選択肢はなかっただけのありふれた話だ。レフトにあるのはそれだけだ。けれどシードは己で己の道と生を選び、ここに来た。
──まさしく、軍人の鑑として立てる人間だ。

素直に凄いと思う。素晴らしい。何も非難するところはない。
それなのにレフトはシードが許せそうにもなかった。シードは、レフトと対等の友人になどなれはしない。


「お前、それって本当に──俺を気遣ってるつもりだったのか?」


それが欺瞞でないと、何故言える。

レフトは部屋替えを申請し、シードと距離を置いた。
感情のままに、くだらないとも思える嫌がらせをすることもあった。シードとの関係は悪化し、彼の方もレフトを嫌ったようだった。友人どころか、出来るなら相手の顔を見たくないと思うのはどちらも同じだろう。



一人で剣を振るシードの横を、レフトは仲間と笑い合いながら通り過ぎる。

それでも、レフトはまだ一度も、シードには勝てていない。
どれ程の努力をしても。