それは何か?
静謐にして不動、体温もなく硬く強張り、帯びるのは孤独と湿った土の臭い。あるいは血の臭い。
『死体』
「クルガン?悪ぃんだけど資料が足りねえからってソロン様が──」
ノックを省略して部屋に入る。
シードはクルガンは眠っていないだろうと予想していた。まだ、真夜中をほんの少し越えただけだ。
先程、シードの直接の上司であるところのソロンが憔悴した顔でシードのところに乗り込んで来た。というより、あの勢いは殴り込みに近かったか。
軍事行動に関わる要素は膨大で、単純に兵力だけでなく兵糧、物資、運搬など、その全てに事細かな計画と準備と確認が要求され、その最終責任を持つのだからソロンの気苦労もわからなくはない。瀬戸際になって、粗が見付かったのなら尚更だ──おそらくソロンは今夜眠る暇もないのではないかとシードは見当を付けている。まだそこまで切羽詰る必要もないと思うのだが、ソロンは余裕を持って行動したがる神経質な性なのだ。つまり、時間前行動厳守、という奴である。
何故わざわざシードを間に挟むのかと言えば、今のソロンには不機嫌なクルガンと相対する精神力が枯渇しているからだろう。
寝入りばなを叩き起こされて気分が良い筈がないのだが、同情を覚えなくもなかったのでシードは使い走りを引き受けている。
「──クルガン?」
踏み込んだ部屋には、彼の姿はなかった。暖炉の火も小さく落とされている。シードは、惰性で燭台を消そうとしていた手を止めた。
クルガンは寝室だろう。シードも流石にそこまで無遠慮に踏み込む気はないので、足を止めて声だけ投げつける。
就寝していたのなら気の毒だとは思うが、今更引き返すわけにもいかない。それに、例え熟睡していたとしてもシードの接近には気付くだろうから、今はもう目が覚めている筈だ。
現に、直ぐに反応が返って来る。
「……何だ」
「何だって、だから資料。900万食で計算してたんだけどぶっちゃけ期日までに間に合わないらしくって、トラスタ辺りで何か残ってないか調べたいんだってよ」
「何故俺の所に来る、管轄が違う。トラスタ領近辺の内情は政務省自治行政局調査課特務第七分室が把握している。表向きの数値なら地方税課が──」
「アンタそんなの良く覚えてるよな……つかそうじゃなくて、そういう風に調べなきゃなんねぇ事が芋蔓式に出て来るから、手伝って欲しいんだろ。察しろよ」
「俺は索引じゃない」
そうでないのに何故管轄の違う分野まで即答出来るのか、シードには全くわからなかった。この男は政務にまで首を突っ込んでいるのだろうか?
「……ちょっとはソロン様に優しくしてやれよ、部下の務めだろ」
「お前も立場は同じ筈だが」
「俺は癒しを振りまいて心労を減らす役だから。アンタは仕事量を減らしてやれ」
自惚れた台詞の的外れさに、何か痛烈な嫌味が返ってくると思ったのだが、扉の向こうには僅かな沈黙が落ちた。
どうかしたのかと聞き返す前に、ややうんざりしたような声音。
「……ソロン様には、俺は急な発熱で人事不省だとでも言っておけ」
もう少しまともな理由を考えろ、とその言葉を飲み込む為にシードは多少努力した。
駄々を捏ねる子どもではあるまいし、せめて珍しい動物を見たくなったから休暇をとるとか、それくらいの誠意を見せても良い筈である。
「あのなぁ──」
溜息混じりにシードは一歩足を踏み出した。煩く騒げば出て来るだろう──取り合えず、シードを黙らせる為にでも。
だが寝室の扉に近付いた途端、シードは動きを止め、僅かに眉を寄せた。
血臭。
シードの空気が変わったことに気付いたのだろう、クルガンが先手を打つように言った。
「……もういい。すぐに行く」
「ふうん。なあ、入って良いか?」
「駄目だ」
「わかったよ」
そう言いながらシードは無造作に扉を開けた。
咎める視線が即座に向けられたが、入室はしていないのだからシードとしては充分な譲歩だ。
クルガンは寝台に腰掛けていた。
顔色が悪い。それは、床まで濡れるくらいに出血していれば当然ではあるが、僅かな光源に照らされたその肌は死人のようにも思えた。
右肩の辺りに、適当にシーツを丸めて押し当てている。赤く濡れている筈のそれは、月光しか差さない部屋の中では色が抜け落ちて黒にしか見えない。
刺せば血が出る、という事が、確認しなければわからない風情を纏っているから、こんなざまになるのだ。シードは意地悪い気持ちでそう結論付けた。
「…………」
燭台をかざして、部屋の中を確認する。
床には、女が仰向けに倒れていた。暗い色の髪が乱れ、瞼が開き切っている。死んでいることは間違いないが、外傷は見当たらなかった。おそらく毒でも飲んだのだろう。
誰か、とシードは聞かなかった。その死体が、例えクルガンに個人的な恨みを持った人間だろうが愛憎を抱いた女だろうが、それとも──職業的暗殺者だろうが、今はもう気にすることではない。
クルガンの足元には血に滑った短刀が落ちている。
おそらく、それを抜いたところでシードがやって来たのだ。良くないタイミングだったな、とふと思う。
クルガンが何事か低く呟いた。
青い光が肩口に集まり、幻が滴る音が響く。
「……俺がしてやろうか?」
勿論了承などしないだろう、そう思いながらシードは一応提案してみた。返ってきたのは拒絶より酷い沈黙だった。
予想通りの対応に、少し笑い出したい気分になる。自分の水魔法の威力に期待などされていないのは知っているが、例えそうでなくともクルガンがシードに癒しを求めるかどうかは微妙なところだ。
クルガンは無言で立ち上がると、衣装棚を開けた。
血に濡れた布を死体の脇に落とし、上着を取り出す。その様は重傷の存在など全く感じさせないが、それが今更何の役に立つのかはシードには良くわからない。
「何か問題があるなら、早目に言っとけよ」
「ない」
短く愛想のない答。何故予想を外してくれないのか、面白味のない男だ。
シードは、足元の女の死体を目線で指して、肩をすくめてみせた。
「何もないってことねえだろ。この有様じゃあな」
「────」
クルガンは言を費やしての弁解を望まないようだった。
すう、と一瞬呼吸を整えたのは、シードに言い訳する為ではない。
「『天雷』」
きゅぼっ
肌すら灼く閃光が、至近距離で炸裂した。雷気に総毛立つ。
鼓膜が破れる寸前の不快感。コルクでガラスを擦ったような音。
咄嗟に瞼を閉じ腕をかざし、網膜を守る事には成功した──シードはゆっくりと目を開く。
闇のわだかまる室内は、何も変わらない。壁にも家具にも一筋たりとも傷はつかず、空気も揺れず大人しい。シード自身にも何も問題はなかった。
ただ、クルガンの足元には、灰色がかった白い塵が一塊。
「──何もない」
そしてやはり彼自身にも何の変化もなく、クルガンはそう言った。冷静さを示す、完璧な破壊制御を見せた後で。
シードとしても元から何の期待もしていなかったので、驚くこともない。
おそらく、死体に対する感傷などというものはクルガンにはない。踏み砕こうが蹴散らそうが、肉の焦げる臭いすら残さず消し飛ばそうが、抵抗もない。
例え自分が死んだ後(あるいは心臓は止まっていなくとも?)、躯を腐るまで道端に晒されて辱められたとて何とも思わないような男だ。
「……了解、了解」
シードはひらひらと手を振った。
別に自分も、特に意味もないのにわざわざ同僚の領分に干渉してまで構いたがるほどお節介な性分ではない。
ふと溜息を吐く。
クルガンを眺めれば、彼は出仕の支度を終えようとしていた。紋章魔法で簡単に表面を塞ぎ、衣服を整えれば何も見えない。内側が腐っていようが溶けていようが、あるいは傷付いて血が流れていようが?もう誰にもわからない。
陰影の深い横顔と、色素の薄い髪。冷たそうな皮膚と無機質な呼吸。それがクルガンという男で、何処か完結した印象を与える。
既に終わってしまったような。
「アンタのね、そのいつでも何でも取り繕って自分で片付ける見栄っ張りな所、格好良いと思うよ。気障過ぎてムカつくくらい」
シードは己の後頭部をがりがりと掻いた。
「その内自分の墓穴まで自分でちゃんと用意しちまいそうだ」
「……他の誰に任せるつもりもない」
ああ、その可愛くない返答。だからアンタは、トップに向いてないんだよ。
シードは内心そう呟くと、呆れたように首を振った。クルガンは、何でも自分で始末をつけたがる。人に馴れないのは致命的な欠陥だ。
シードは少し笑って見せた。
無駄な事は嫌い。なんてシンプルな行動原理。クルガンに美しさなどというものがあるとしたら、それは機能美だろう。
──別に、わかり難いという男ではない。見え難いだけだ。
「……まあこんな話は良いさ」
アンタの機嫌が悪くなるばっかりで、時間の無駄だしな。
そう続けて、シードはこきりこきりと首を鳴らした。急に肩が凝って来たのは、おそらく、本日の仕事量が増加するのを予想した肉体が、先手を打って抗議活動を始めたからだろう。
「ソロン様は執務室か?」
「……つーか、さぁ。その前に」
シードは灰を蹴飛ばしながら大またでクルガンとの距離を詰めると、有無を言わせず殴り倒した。
「寝とけ」
『死体』:END.