「っ」

呼気と共に、鋭い右手の突きを放つ。
ぱん、と手首を手の平で弾かれ、拳の軌道が逸れる。姿勢は崩さず更に踏み込もうとするが、僅かに体の軸がぶれた。
その隙を突かれ間合いが広がり、果たせない。

シードは舌打ちをすると、クルガンを挑発した。

「どうしたよ、逃げてばかりじゃつまんねぇだろ……」

答えはない。
シードは一度右手を引くと、僅かに開いた隙間を埋めるように再び地を蹴った。

左右の拳を囮にし、左足でクルガンの足首を狙う。
つま先を振り回すのではない、踏み込みの動作の延長線上の動きだ。試合で使うような派手な技を使っては、あっさり軸足を払われ転倒させられてしまう。
シードに油断は全くない。

「────」

クルガンは右肩をひいて体を四分の一回転させながら逆に距離を詰め、超接戦に持ち込んだ。左の拳はその動きでかわし、まだ中途半端に曲がったままのシードの右腕の肘の裏側を手首で弾く。

訓練された拳とは、相手に触れる瞬間に最も威力を発揮するように出来ているものだ。いくらシードの力が強いからといって、準備の出来ていない関節部分を狙われては押されただけでも形が崩れる。

「りゃっ」

シードは肘の曲がってしまった己の右腕は気にせず──かわされた左拳と合わせて近距離にいるクルガンの退路を塞ぎ、頭突きを試みた。絶対に外しようのない間合い──だが、クルガンの足首を狙って踏み出していたシードの左足の、丁度くるぶしの辺りに、クルガンの左のつま先が触れる。押された感触に上半身が斜めに泳いだ。

その脇をくぐり、クルガンは擦れ違って距離を取る。

「ちっ」

シードも、流れに逆らわず素早く一回転すると、敵の姿を真正面に捉えた。
そのときには勿論、クルガンも振り返って相対している。

約五歩の距離から、シードは疑問をぶつけた。
クルガンは積極的に攻勢に出て来ない。シードがぶつかってくるのを、間合いを調節していなすばかりだ。

「オイ、やる気あんのかよ」
「──それはこちらの台詞だ」

クルガンは灰色の視線を揺らさぬまま、シードに言った。

「加減は不要と言いました」
「……わかったよ」

シードは短く息を吸うと、地を強く蹴り、五歩の距離を一瞬で無に近くした。同時に、右腕を振りかぶっている。

「!」

このまま拳を突き出せば、シードの最速の一撃だ。という事は勿論、最大威力の一撃でもある。
何処に当たっても相手の骨を折る事は間違いなかった。急所に命中すれば致命傷になる可能性が高い。勿論、下手なやり方でぶつければシードも無事では済まない為、拳の位置と手首の角度、接触に使う部位は完璧に調整しなければならない。

このスピードで、外すという事は有り得ない。
クルガンの左鎖骨の上に吸い込まれるように、シードの拳が走る。シードの瞳孔が痙攣のようにぴくりと収縮し始め、し終わる前のその瞬間。

「!」

シードは気付いた。
いつの間にか、カウンター気味に突き出されたクルガンの右の突き、その尖らせたままの指先が顔面に迫っている。
シードの腕はクルガンよりも短い。更に、手の平の形が拳と手刀では、手の平分ほどクルガンの方がリーチが長くなる。

つまり、瞬きほどの差ではあるが、シードの拳が相手に当たるよりも、クルガンの指がシードの顔面にめり込む方が早い。

シードは自分の動きが最速で己の目玉を潰す為のものだと気付き、反射的に僅かに目を閉じかけながら首を横に倒した。神経の性能は驚異的といえるだろう。
クルガンの指が──

頬を掠めて、
過ぎ、る。

回避した!

「!!」

しかし、最早障害はないはずのシードの拳は相手に届かなかった。
向こうが回避したわけではない──服には触れている。だがそれ程の距離で、しかし見えない壁にでも遮られたように拳は止まっていた。

「げ」

シードがその音で空気を振るわせるより、クルガンの行動の方が速かっただろう。

「!」

クルガンはシードの首の真横で拳を握り、手の平の中に服の襟を巻き込んでいた。
当然シードは襟首を引っ張られる事になり、クルガンの腕の長さ分以下は間合いを詰めることが出来ない。だから、拳も当たらない。
そう理解するより早く、クルガンの体が沈んだ。

「!?」

沈んだ、などというものではない。クルガンは完璧に、地面に腰を下ろしていた──シードの襟を掴んだまま。
がくん、とシードの上体が折れる。同時、シードは心の中でまた呻いた。

腰を下ろした動作の延長で、クルガンが片脚を振り上げている。
蹴り上げられる、とシードは腹筋に力を込めたが──勿論、一番守らねばならない箇所は他にある。
わかっているが、それはもう今更どうしようもない。

「うお、わっ!?」

だが、結果として言えば、シードは悶絶して血の涙を流さずには済んだ。クルガンは、シードの足の付け根、丁度腰を折ったら曲がる部分に軽く靴の裏を押し当てただけだったのだ。
勢いのまま、滑らかにシードの腰が宙に浮く。そのままクルガンの上空を通る間に一回転し、背中から地面に叩きつけられた。
強制飛び込み空中前転に、シードの視界がくるりと回る。

「っ!!」

頭から落ちて首の骨を折らないように調節はしてくれたらしい。
だが、シードは強かに尾骨をぶつけた。小石や小枝が皮膚にめり込む感触がはっきりとわかる。

「い」

痺れ。その一瞬後に脳天を直撃したのは、激烈な感覚。

「────ってぇええええええええええっ!!!」
「煩い」








『特別訓練』








「ちょ……、オイ、何だよ今の!何か酷ぇ!何かズリィ!」
「単純な投げ技です。迂遠な攻撃方法だが、相手の力を利用する分負担が少ないという利点がある」
「イヤそういう事じゃなくてな」
「負けた経験が少ないようですが、受身くらいは覚えておくといい」

シードが言い募る前に、クルガンはさっさと身を翻した。

「では」
「ああ、じゃあな……って言う訳ねぇだろ馬鹿!」

ばねでも仕込んであるのかという動きで、シードは飛び起きた。
投げつけた小石を、クルガンは横に一歩動いて避ける。

「帰るな!」
「今の組み手で充分でしょう、改善点はわかった筈だ」

これは厭味でやっているのか、それとも本気なのか、シードにはどうも判断がつきかねている。
シードは腰をさすりながら、半眼で呻いた。

「自慢じゃねぇが全然わかんねぇ。教えろよ」
「……その態度が一番の問題点です。本当に自慢ではない」

クルガンは肩越しに振り返ると、小さく溜息を吐いて言った。

「まず、考えなさい。私はもう教えました」
「────」

シードは一瞬だけ黙ったが、恨みがましい視線をクルガンに投げつけた。

「あのな、アンタのやり口はアレだぞ、猿に本を投げつけて、辞書があるから読めるでしょうって言ってる様なモンだ。俺に合わせたレベルで教えろ」
「…………」

それは非常に納得出来る例えだった為、クルガンの足は止まった。それを見越してそう発言したのなら、シードの頭の回転は相当速い。
直観力だけに頼らず、その回転を意識して戦術に組み込めば良いだけの話なのだが──そう思いながら、クルガンは振り返った。

憮然とした顔の子どもを眺め、数瞬考える。

「……貴方と私の動きの違いがわかりましたか?」
「俺は攻撃して、アンタは避けてた」
「…………」

クルガンは、想定していた所よりもう少し基準を下げる事にした。

確かにクルガンは回避に重点を置いていたが、それが問題なのではない。大体、怒らせたこの男の一撃を食らわないようにする為になら、どれ程の神経を使っても別に惜しくはないと思う。
自分から打って出れば、それだけ相手の攻撃を受ける危険性は増す。相手の勢いに逆らわず流すのが一番の安全策だっただけの話である。

重要なのは、何故クルガンがシードの攻撃を避けられるのか、という事だ。

「もう少し丁寧に考えなさい。貴方に何が足りないか位は、わかって良い筈だ」
「…………。必殺技か!」
「違います」

三秒を費やしたシードの答えを、クルガンはコンマ一秒も待たずに切り捨てた。

「最後の一手は気にしなくていい。終わらせようと思っただけで、別に奥の手でも何でもない」
「…………」

シードは今度は先程よりも僅かに長い間考えたが、やはり十秒にも満たなかった。

「妙な技に対する対策を練る!」
「……技の事は気にするなと言ったでしょう。もう少し基本的な事です」

確かに、シードの話を聞く限り、その『カカシ』という男はある種の格闘術を専門的に習得しているのだろう。超近距離からの掌打が決定打だった事から鑑みて、極東の古武術の可能性が高い。
だが、問題はそこにはない。
シードの能力からすれば、例えその男が、あるいはクルガンが、どのような小手先の技を披露しようとも負ける事はない筈なのだ。

「基本的……?あ、さっきアンタが言ってた弓の例えか」

ようやく思いついたか、とクルガンは内心安堵したが、シードはやはり何処かずれていた。

「地道に鍛錬しろって事だよな。わかった、基本技から順に洗い直すから、変なトコ指摘してくれ」
「…………」

クルガンは無言でシードに近寄ると、その頭をはたいた。脳の代わりに一体何が入っているのか、一度割って調べてみたい所だ。
技の話ではないと、何度言えばわかるのだろう?

「な、何だよ、才能に頼らず精進しろって、そういう事だろうが」
「ええ。……しかしそれは付け焼刃の技術を身につけろという意味ではない。動きの根本から昇華させろと言っているのです」

例えば、速射の技術。連射の技術。
それだけを形だけ覚えても、基本の射形が歪んでいれば、真に極める事は不可能。

そう続けようとしたが、シードの不満が爆発する方が早かった。

「じゃどういう意味だよ!わかりやすく言えよ!皇国語喋れよ!」
「…………」
「ごめんなさい!教えて下さい!帰るな!」

既に、手取り足取り一から十まで説明した方が結果として一番短時間で目的を達成出来るのは確かだった。
クルガンはわずかに肩を落とすと、言語を解する生物なら誰でも理解出来る程度とはどういったものかを検索した。

「……例えば、生身の体に真剣を持って敵と斬り合うとする」
「はあ」
「貴方も私も、いつもやっている事だ。どうすれば勝てると思いますか」
「え」

シードの反応を待たず、クルガンは言った。

「斬られぬうちに斬ればいい」

突き詰めてみればそれだけだとクルガンは考えている。全く単純で明快な目的。

剣は凶器だ。
相手を捉える事が出来れば、後は勝手に傷付けてくれる。

通常、一度でもまともに攻撃を受ければ、戦闘はまず続行不可能である。痛みは集中力を奪う。失血は体力を奪う。どちらが欠けても、待つのは敗北だ。
殴られる前に殴る。殺される前に殺す。勿論、言うほど易いことではないが。

「よって、反射神経と筋力を鍛え上げ、より早く反応しより速く剣を振る──これが第一」

素人に最初から剣を持たせる必要はない。まず筋力を鍛え、運動神経を鍛えるのが基本だ。
腕力だけではどうにもならなくなった時、初めて工夫が必要とされる。

「身体能力を極限まで鍛え上げたとして、更に速くなる余地はないか──これが技術であり、第二」
「いや、だから俺、基礎から鍛錬しようかって言ったじゃん」
「……その、基礎と言うのはどの程度のことを指して言っているのですか?」

シードは、クルガンの予想通りの返答をした。

「え?そりゃ……構えとか、突きとか蹴りとか?」
「そういった細かな事はどうでも良い。……身体能力と技術を備え、更に速く動くにはどうしたら良いか、考えてみなさい」
「無駄を省く」
「他には?」
「……相手より先に動き出す?」
「その為には?」

そこからシードはしばらく考え、ようやくクルガンの望む返事を吐き出した。

「相手の動きを読む!」
「……それが、第三です。貴方は現在この部分を、身体能力に任せた勘とやらでしか行っていない」

シードの才能は素晴らしい。
優れた反射神経により、常人相手ならば攻撃を見てから動いても全く問題がない。外見からは信じられないような性能を持つ筋肉は、人類の限界あたりに位置するだろう運動を可能にする。五感の性能が優れている為に、普通はわからないような死角からの攻撃でも『気配』を感じ取れる。

シードはおそらく、戦闘者としておよそ人が望む最高の素質を備えているといえるだろう。
だが、それだけでは負けることもある。

「観察し、予測しようとしない。だから、体力的に劣っている筈の私の動作の方が速いなどという事態が起こり得る」

反射神経が同程度なら、速度は本来シードに分があって当然だ。体を動かす性能は、基本的に筋力に依存しているのだから。
けれども、今の状態では、シードの拳は逃げに徹するクルガンを捉えることは出来ない。

「…………」

無駄な筋肉を背負い過ぎ、自重で素早く動けなくなる場合もあるが、シードは明らかにそれからは外れている。
クルガンの見立てでは、おそらく反射神経ですら僅かにシードの方が優れている。シードには全く予想出来ていない筈のクルガンの攻撃を回避する事が出来るのはその為で、普通ならとっくに砂袋の代わりである。

そう考えているクルガンを他所に、シードは非常に嫌そうな顔で呻いた。

「……だってよ、そんな色々ごちゃごちゃやってたら即座に動けねぇじゃん」
「隙になる程考え込めとは言っていない。判断は一瞬で行う──体が先に動くくらいでいい」
「難し過ぎるだろ!」
「確かに一朝一夕では身につかないが、戦闘術を極めるには重要な事だ。これからは意識しなさい」

無情なクルガンの言葉に、シードはがっくりと肩を落とした。

「……それじゃアイツに勝つまで何年かかるかわかんねぇじゃねえかよ……」

クルガンは首を振った。
シードはもっと簡単に、劇的な変化を遂げる事が出来る。必要なものは全て揃えているのだから。

「まだ結論を言っていない。……前段階として貴方がまず習得するべきは、先読み『させない』動きです。多分それだけで、その男に勝つには充分以上だ」
「マジ?」
「ええ」

シードが第二段階までしか到達していないのならば、相手を第三段階に進ませなければ良いだけの話である。
大体、シードの攻撃といったらわかり易過ぎるのだ。性格を反映しているのかは知らないが、それなりの反射神経があれば予測して避けるのは難しくない。

「例えるなら、今の貴方は『斬るぞ』と宣言してから剣を振っているようなものです」
「そんなに間抜けか俺は」
「今更気にすることでもないでしょう」

さらりと酷な事を良いながら、クルガンは纏めに入った。
要するに、シードには『これ以上の何か』は必要ない。『余計な何か』が多すぎるのである。

「……俺ってそんな無駄に動いてるか?」

あらゆる観点から無駄の塊だ、とクルガンは言いかけたが、また妙な方向に話が逸れると気付いて取り止めた。
クルガンには関係の無いことだ。

「予備動作を消しなさい。あらゆる場面において──全て」

クルガンはそう言うと、真っ直ぐその場に立ったまま、視線でシードを自らの方に招いた。

「?」

素直に、しかしクルガンの性格を考えてやや警戒しながらシードが近付く。
約三歩の距離まで接近したが、次の指示は何もない。大体、クルガンはシードをぼんやりと眺めているだけで、まるで風景画扱いだ。
シードは考え、もう一歩踏み出──

ひゅっ

「──!!」

空を割く音と、眼前にクルガンの指先が出現したのは、シードからしてみれば殆ど同じ瞬間だった。
反射的に上げた腕が、それを払いのける。もとより力は込めていなかったのだろう、簡単にクルガンは手を引いた。

ど、とシードの背中に汗が吹き出、滑り落ちていく。
これが実戦であり、あともう少しでも遅ければ──つまり、警戒していなければ──クルガンの爪先はシードの喉に突き刺さっていた。

「やはり反射神経は良い」
「あ、あ、危ねえだろが!」

相手にせず、クルガンはまたシードから距離を取ると、呟いた。

「狙う箇所を見据える。動く前に息を吸う。踏み込む前に体重を移動させる。地を蹴る前に膝を曲げる。拳を繰り出す前に、腕を後ろに退く──どれも攻撃を予測する手がかりになり、速度を鈍らせる」

人体を構成するパーツの一つ一つ、その動きは意思と意図を示す。
相手の軌跡の上に罠を設置すれば、こちらから懸命に動く必要はない。
逆に、こちらの不要な部分を削ぎ落としていけば、それは完璧なる不意打ちに近付いていく。

より速く、より早く──影から繰り出すような、影が繰り出したような、一撃。
気付いたときには既に、目の前にある。

「──兆しの消失」

例えば、求めるのはただ拳を握り前に突き出すという一動作。
他の全ては、害悪。

「それが、私と貴方の動き方の違いだ。あらゆる体術の真髄であり、基礎でもある」

効率を重視するクルガンにとって、それはとても馴染み深い挙動。
シードは眉根を寄せて、呻いた。言いたい事は何となくわかってきたのだが──

「それって基礎か……?」
「初めから完璧でなくとも良い、意識して訓練なさい。それと、相手を怒らせ呼気を読み易くするのは常套手段ですから、注意するように」

これ程自信のなさそうなシードは滅多に見られないのではないか、とクルガンは興味深く観察した。

しかし、早めに切り上げるつもりだったのに随分と無駄な時間を過ごしてしまった。四半刻とまではいかないにしろ、その半分ほどは経過しているだろう。
クルガンは最後に一応、尋ねることにした。もしも否と返って来た場合でも、これ以上は付き合いきれないが。

「理解しましたか」
「……わかった」

シードは、こくりと頷いた。
神妙に続ける。

「アンタの説明はやっぱ回りくどいって事がわかった」
「…………」

シードは正直な感想の対価として、技をもうひとつ見る機会を得た。






+++ +++ +++






「凄いな、見違えた。俺の負けだ」
「て、てめええええっ!」

シードは『カカシ』の胸倉を掴むと、がっくんがっくん揺す振った。
無理に逆らわず、男はなされるがままだ。半端な笑みが浮いているが、顔色はやや悪い。

両手で中途半端に相手をハンギングすると、シードは下から睨み上げた。
シードの方が身長が低い為それ程苦しくはない筈だが、かなり暴力的な光景である。

「何の真似だ……!」
「いや、痛い目にあうのは嫌だろう。あんたの正拳食らったモーガンさんなんか、顔面腫れ上がってもう別人で、」
「だあああっ、惜しむような顔かっ!」
「それなりに悲しむ女の子も居るんだが……それに、チャンプのあんたに二回も勝っちゃ不自然だから、どうせ今回は負けるつもりだったし」
「だからって一発でダウンはねえだろ!修行してきた俺の立場は!?」

突き飛ばされ、苦笑しながら、『カカシ』は椅子に腰を下ろした。

「あんたは強い。まともにやっても、あんたの勝ちだったよ」
「うわあ……全然すっきりしねぇ……!」

シードはだんだんと足を踏み鳴らした。
十秒後、呼吸を整え、びしりと人差し指を突きつける。

「それで!名前は!」
「ダージェンだ」

乱れ切った朽ちた麦藁色の髪を軽く撫で付けて整えながら、彼はあっさりと答えた。
あまりの呆気なさにシードの気力がごそりと減退する。何の面白みもない。

「隠す程大層な名前かよ……」
「失敬だな」

気を害した様子もなく、ダージェンはまた笑った。

「下っ端だが一応公務員なんでね。本名は不味いんだ」
「へ?」

言われた事実に、シードの脳がゆっくりと回転する。
それは──つまり──シードと同じ──

「皇国兵か!」
「いや文官」

喜びも露に自分の素性も話そうとした途中で、シードの表情筋は固まった。

「何っでテメェが書類整理なんかやってんだ……!相当強い癖に、宝の持ち腐れじゃねーか!」
「文官の方が安定してるじゃないか。平民だから出世は出来ないが、食べていけるくらいの給料は貰える」
「せこい!みみっちい!浪漫と度胸と根性がねえ!」
「性分なんだよ」

びゅっ

ダージェンの顔面に向けて、目を据わらせたシードが拳を繰り出す。

間一髪、ダージェンは椅子からずり下がってその一撃を避けた。
かなり間抜けな光景だが、シードは真剣だった。

「……俺が出世したら権限で皇国兵に変えてやる……名前覚えたかんな」
「え。……え?」

冗談だと思ったのだろう、ダージェンはその時もやはり苦笑するだけだった。




勿論、シードは冗談ではなく完全に本気だったので、後にダージェンを迎えに行った。
その時初めてダージェンの顔が崩れたのを見、シードは大分満足した。










『特別訓』:END.