「よぉしよしよしよしよし!ジート、今日も絶好調だな!さっすがチャンプ!」
「あー……うん、まあ、サンキュ」

男が犬にするような掛け声と共に背中をばしばしと叩いてくるのを、シードは大人しく受け止めた。代わりに彼の持っている串焼き肉を奪い取り、即座に噛み付く。
いつの間にチャンプになったのか、シードは考えたがよくわからなかった。シードの目的はそんなところにはない為に、当然ではあるのだが。

「……はあ」
「何だよその溜息は。つまんなかったか?」

賭け試合はシードにとって鍛錬にはならなかった。軽い運動と金稼ぎである。
所詮、ルールを決めての素手の格闘では死ぬ事はない。そもそも痛みを感じるような鋭い攻撃を食らう事すら稀である。当然、スリルも興奮もない。

相手は一発でもシードの攻撃を受ければ大抵戦闘不能なので、少し手加減しているくらいだ。
観客を意識して、盛り上がりを考えなければいけないのが一番の労力とも言える。

肉を飲み込んでから、シードは唇を開いた。

「つーか、ファイトマネーどれくらい溜まった?」
「おお……スゲェぞ、この短期間に二万五千ポッチを越えてる。あ、だ、大丈夫大丈夫、俺は手ェつけてねェから」
「誰も聞いてねぇよ」

男が慌てふためくので、シードは半眼になった。

「だってお前、俺がネコババしたら怒るだろ?そしたら俺は死ぬだろ」
「そりゃ怒るけど、そんなんで人殺すか」

一体自分を何だと思っているのか、とシードは男を睨んだが、返ってくる視線に含まれていた答えは明確である。
愛想はいいが首輪をしていないキラードッグ、もしくは間違って人間社会に溶け込んでいるミノタウロスだ。

「ま、それは置いといてだ……今日、もう一戦いけるか?この次の次の次、いや、その次だっけ?」
「いーよ」

相手も確かめずシードは答えると(大体、男だって相手など確かめていないに違いない──シードの勝利を当たり前のものとしているからだ)、休憩所の隅に設置してある水甕から水を汲んだ。
柄杓に口をつけて呑む。その瞬間、試合をしている表が騒がしくなった。
観客の歓声だ、試合に決着がついたのだろう。

誰が勝ったのかなど、シードにとっては特に気にかけることではない。
そう判断すると、シードは柄杓を元の場所に戻した。

次の出番まではまだ時間がある。
少し通りに出てくるか──シードがそう考えた時だった。

「……」

休憩所を仮設の闘技場から遮断している簡易な衝立の向こうから、ひょいと若い男が顔を出した。

取り立てて特徴のない青年である。
こういった試合向きの派手な筋肉や、一見して隙のない眼差しなどは何も備えていない。服装も、飾り気のない地味なものである。
シードは賭け試合の運営手伝いの一人だろうと思った。反応したのは、シードではなかった。

「おい、お前はジャワンのトコの選手だろ?だったら反対側にいきな、そこにも休憩所があるから」
「ああ……そういうシステムになってるのか。すまない、まだ慣れていないものでね」

青年は軽く会釈すると、大人しく反対側に向かったようだった。
選手かという驚きはあったが、やはりあまり鍛えているようには見えず、シードはあっさりとその姿を記憶から流そうとした。

「……オイ、外見で油断すんなよジート」
「は?」
「今の奴、ジャワンが見付けて来た新入りなんだ。まだ数試合しかしてねぇがな、かなり強いぜ……多分」
「何だよ、多分って」

シードはその言い草に呆れた。強いか弱いかは試合をしてみればわかるだろう。

「いや、あいつな……登録名は『カカシ』ってんだが、なんか怪しいんだよ」
「怪しいって?」
「明らかに偽名ってのは全然構わねぇんだが、勝ち方がおかしいんだ」

シードは『カカシ』に僅かに興味を惹かれた。
勿論シードの選手名である『ジート』も手抜き具合では大差ないが、流石にもう少しセンスを気にした名前をつければいいと思う。
そして、今まで選手なら何人も見てきただろう男に、『おかしい』と評される試合とは?

「おかしいって?」
「アイツは、お前みたいに無敗ってワケじゃねえ。最初に当たった相手なんか体重三倍くらいの巨漢でよ、かなり派手に吹っ飛ばされて負けた。その次の相手にも、負けた」
「?……弱いんじゃねーか」
「違う。多分」

男はナマズでも呑んだような顔で、首を振った。

「吹っ飛ばされた筈なんだよ。でもあいつ、平気な顔して同じ日の次の試合に出やがった。そん時、ちょっと変だな、と思ったんだ」
「タフって事か?」
「いや、元々怪我をしてねぇんだ。どんなに派手な技食らって気絶したように見せても、そりゃ演技なんだよ多分」
「お前、さっきから多分多分って。面倒臭ぇから省けよ」
「正確な表現を心がけてるんだ。……んでまあ、あいつの勝率はかなり低いんだがな、昨日の一回だけ、まぐれみたいな様子で勝ってる。相手は前チャンプのモーガンで、つまり大穴だ」

シードは目を瞬かせると、どかりと椅子に腰掛けた。考えて、言う。

「狙ってやってるって事かよ」
「俺の勘ではな」
「当てにならねぇなァ……」

がしがしと髪の毛をかき混ぜて、シードは溜息をついた。
何にしろ、強いか弱いかは戦ってみればわかる。

「で、今日当たるの?次の奴?」
「へ?やりたいのか?」
「オイ、今までの話は何だったんだよ」
「いや世間話」

シードの視線の温度が下がったのに気が付いたのか、男は愛想笑いをしてみせた。

「まあ……どうだろな、アンタはチャンプだから、親方は弱いのとは組ませねぇと思うけど」
「俺がやりたいっつったら?」
「……何とか調整してみるよ……」

がくりと首を落とした男を置いて、シードは次の試合に出場した。
相手は『ルルノイエの銀の鷹』モーガンだった。以前反則で肋骨を折ってしまった手前、シードは十分程度は付き合った。








『特別訓練』








そして次の休日、シードの第一試合目。

「…………」

相対した男は、やはり強そうには見えなかった。

年はシードと同じか、二、三歳は上でもおかしくないだろうか。朽ちた麦藁色の髪と、同色の目。
ぎりぎりで長身痩躯と表現出来るが、鋭い雰囲気はなかった。表情に緊張はないが、その代わりに凄みもない。事務職が似合う類の男である。

無駄にテンションの高い紹介と歓声に包まれながら、シードは舞台に上った。
こきこきと、首と手首、そして足首を捻る。
シードが選ぶのはいつも、素手の格闘だった。武器使用ルールでは色々と危険過ぎるからである。

油断はしないが、負ける気もない。
シードは気負い無く相手に問いかけた。

「カカシっての、本名?」
「まさか」

首を振る男。
シードは気にせず問いかけた。

「……で、今日は勝つ気かい?倍率は大体、二十を超えてるみたいだが」
「まあ、出来る限り頑張るつもりだ」

僅かな苦笑を口元に刻んで、男は奇妙な構えを取った。
片脚を前に出し、半身になるのは定石だが──背骨と膝が軽く曲がっている。

「────」

シードは気にしなかった。考えてわかるわけもなし、ぶつかるだけである。
軽く息を吸うと、地を蹴ってシードは飛び出した。歓声が唸りを上げ、空気を震わせる。

「っ!」

ひゅっ
がっ

「!!」

突き出したシードの右拳が、相手のガードを弾き頬へめり込んだ。
よろめいた男が、二、三歩後退する。

畳み掛けようと、シードは更に踏み込んだ。
ガードの下がった脇腹めがけ、シードの左のつま先が飛んだ。

肉体同士がぶつかる、衝撃。





+++ +++ +++





彼の立つ先にあるものは、巻き藁。
その胴には無数の穴が開き、ぼろぼろにささくれている。皇国兵の弓の練習台として、当然の姿だ。

ひゅうん、と僅かに風が鳴る。

日もすっかり落ちた演習場、それも外れの一角はひそりと静まり返り、風切音が良く響く。
星明りと月明かりのみが落ちかかる薄闇の中で、弓を引く者は彼以外にいない。狙うべき的は輪郭すら判然とせず、傍から見れば愚行としか表現できない光景だった。

微風。
さらりと動く夜気が、頬を撫でる。

きりきりと引き絞られた弓は、変形して円に近付く。
限界まで研ぎ澄まされた静寂の中、最高点に達する緊張。

指が離れ、弦が弾かれ、矢が空を切り裂き、飛ぶ。
闇を裂くような一閃は──七十歩離れた位置にある巻き藁の上端を掠め、通り過ぎた。

「────」

彼が何度弓を引いたのかはわからないが、巻き藁に矢は一本も刺さっていない。
それでも弓の持ち主は、新しい矢をつがえると、また的に相対した。

引き絞る。
集中したとも思われぬ間の後、弦を開放する。

──また、矢は巻き藁の後ろに抜けた。

静かに立つ彼の斜め後ろから、呆れたような声が掛かる。

「……アンタ、そんなやり方してっと丸っきり阿呆に見えるぜ?」
「貴方には関係のない事だ」

声をかけられた時点で諦めたのだろう、彼は弓を降ろした。
こちらを見もせぬまま、矢を回収しようと的に近寄る男の背を追って、シードは歩を進める。

「──何か用事でも?」
「アンタいっつもソレだよな、用事がなきゃ駄目なのかよ」
「ええ」

クルガンは乱立する巻き藁の間をすり抜ける。
その後ろには雑木林があり、訓練場との境界線には柵が立っていた。

「────」

クルガンは、その柵に刺さった矢を一本ずつ抜き始めた。

シードが見たところ、ここから先程のクルガンの立ち位置までは約百歩ある。
柵に使われている杭は人差し指の長さ程の幅をして、三歩間隔で地面に突き立っている。横に渡されているのは古びたロープだ。
杭が三本、それ以上でもそれ以下でもなく、針鼠になっている。明るい内に更によく観察すれば、そこに立っている杭は全てどれも穴だらけである事がわかるだろう。
振り返ってみれば、前後に乱立する巻き藁にはやはり、一本の矢も刺さっていない。

「…………」

その事実を総合して判明するのは、クルガンという男がやはり厭味な人間だという事だ。

「訓練の相手はお断りします。私はもう休む」
「──」

愛想の欠如した声が鼓膜を震わせた時点で、シードは我に返った。
クルガンは矢を全て回収したのだろう、すたすたと元の場所へ戻っていく。

「……つーかアンタ応じてくれた事ねえじゃん」
「疲れますから」
「────」

いつものやり取りだが、シードはその次に返す筈の、いつもの返答をしなかった。
遠ざかる背中に向かい、押し殺した声を投げつける。

「……頼む」

異変を感じたのか、クルガンが歩みを止めた。
雑木林の影から、シードはゆっくりと進み出る。その顔は月光のせいではなく青褪めていた。

「……剣じゃなくていい。格闘で」
「────」
「……本気で、だ」

クルガンは再び歩き出した。

弓を置いた場所に戻ると、矢を籠に収め始める。その背中に向かって、シードはもう一度懇願した。
振り向かず、作業の手も止めず、クルガンは冷めた声で返した。

「只の喧嘩に全力を出すつもりはない。貴方の八つ当たりの対象になる気もない」
「……真剣勝負だ」

闇に混じる、軽い溜息。

「関節、局部破壊がお好みですか。眼球は変に潰れると回復出来ませんよ」
「げ」
「貴方は力は強くとも、骨や粘膜の強度は常人と変わらないでしょう。命のやり取りは戦場でなさい」

クルガンは撤退の準備を終えたのか、ようやく振り返った。シードと視線が合う。
三秒後、クルガンは先程と同じ調子で淡々と告げた。

「情けない顔は止めなさい」

シードは唇を歪めた。

「どんな顔だよ」
「例えるなら、木から落ちた山猿です」
「アンタそれホントに例えのつもりで言ってるか……?」

いつもなら喚く所だが、シードはそんな気分ではなかった。陰鬱な表情で舌打ちをする。
クルガンは僅かに眉を顰めると、完全にシードに向き直った。

「八つ当たりの理由を伺っても?」
「八つ当たりじゃねえよ。……多分な」

シードは即座に返したが、その後は沈黙した。
十秒だけは待つつもりだった──それでも破格の対応だ、クルガンは手取り足とり親身になって誰かの世話をする性格ではない。それ程の時間があっても決断できないような事に関わるつもりもない。

野生の勘というべきか、九秒目でシードは口を開いた。







「…………」

シードの今日の一日を初めから終わりまで細かく説明されたクルガンは、頭痛のしてきたこめかみに手を当てた。シードの話は九割近くが無駄な情報で構成されていたが、大体のところは理解したつもりである。
全く、呆れたものだ。

シードが口を閉ざして三秒後、クルガンは相手の気を最も的確に逆撫でする言葉を選んだ。

「つまり──のされたんですか」

怒気が膨れ上がったが、反論はなかった。
どうも、彼にとっては深刻な問題らしい。クルガンには全く理解出来なかったが。

僅かに思案した後、クルガンは言った。

「修行を積んで、再戦を?」
「……そうだよ。あの野郎に名乗らせてやる」

シードは喉の奥で唸った。
試合後、相手が案山子では格好がつかないと詰め寄ったシードに男は言ったのだ──『なら、名乗らせてみればいい』、と。

「男の名前に、よくそのような情熱を傾けられますね」
「煩ェ!」

シードは鋭く吠えた。今は軽口に付き合う余裕はない。
一対一の殴り合いで、シードは無様に地面に沈んだのだ。初めて味わった敗北の苦い味。

クルガンは氷点下の視線でシードを撫でた。

「──敗因ははっきりしていますが」
「何だと」
「貴方は才に頼り過ぎている。だから、それ程の素質がありながら試合に負け、私程度を稽古の相手に選ぶしかない」

クルガンは小さく溜息を吐いた。
シードのような男にそのように落ち込んでいられると、普段より更に鬱陶しいことは判明した。全く持って余計な知識だが。

「……少々、付き合いましょう」
「え、マジで!?」
「ええ。ただし、本当に今日限りです」

クルガンにとっては、これ以上シードを鍛えるなど気の進む作業ではなかった──これから素手の殴り合いをするのが危険になるからだ。この力に技まで加えてしまえば、それはつまり凶器である。

クルガンは考えて、言った。

「貴方は、弓を引くのは苦手でしょう」
「え、ああ、まあな。何でわかる?」

唐突な質問に、シードはそれでも即座に答える。
こちらの意図も何も考えていないな、とクルガンはあっさりその内心を看破した。その気質は長所でもあるが、短所でもある──ある種の敵に対しては、その短所は致命的だろう。

シードは眉根を寄せて後頭部に手をやると、そのまま髪の毛をかき混ぜた。

「でもま、剣技に比べればって話で、普通並には使えると思うけど?」

そのまま、こてん、と首を倒して、諦めたように続ける。

「多分アレ、性格的要素が強いと思うんだよな。何つーか、繊細っていうか」
「──射術には基本となる射形があります。しかし、射形を整えいついかなる時も崩さぬようにする実力は、堅実な修練を積まねばいつまで経っても身につかない。訓練時間に形だけ真似ても、高みには辿り着けず終わる」
「……」
「例えば、矢を敵に中てる事は出来ても、急所を狙う事は出来ない。逆に、不殺を考えても上手くいくとは限らない──私は、そのような技術は頼りないと考える」

シードはクルガンの言葉を解釈する為に三秒を費やすと、長い息と共に言葉を吐き出した。

「……つまり、俺は鍛錬不足って説教してんのかよ」
「ポジティヴ」

クルガンは僅かに目を眇めると、足を肩幅に開いた。
そしてシードを挑発する。

「好きにかかって来なさい。──制限も加減も不要」
「──『何でもあり』はいいけどさ……でも俺が殴ると、」
「御託も良い」

侮る言い方に、シードの目の色味が増した。

クルガンは体を半身に、体の中心線を隠した。手加減なしのシードの馬鹿力で殴られれば、一撃で戦闘不能になってもおかしくない。
そう考えながら、無表情で告げる。

「ああ、安心して下さい。こちらからは、深刻なダメージを負う攻撃はしない」
「──言ってくれるね、後悔すんなよ?」

シードの視線が険しくなる。
クルガンが察するに──シードはまずクルガンの余裕をなくして、本気にさせる事を第一の目的とするだろう。『喧嘩』に対する態度だ。

苛烈な空気を、クルガンは冷静に受け流した。
通常、彼は戦いにおいて『無意識』という感覚を殆ど使わない──よって、頭の隅はいつも冴えている。

逆に言えばそれが限界でもあるのだが、己の性質にはあっている。自分の才能を限界まで効率よく行使出来ればクルガンとしてはそれでいいのだ。
例えば、我を忘れて放った一撃が偶然とてつもない威力を持ったとしても、常時それを操る事が出来ぬのなら無意味である。

燃えるような眼差しを観察しながら、クルガンは再び考えた。

人間を凶器として鍛え上げるのは、リスクが伴う。その力が、どのように行使されるのかわからないからだ。
──しかしまあ、皇国兵だと思えば消える程度の危惧ではあったが。

「ではどうぞ……後悔させてみて下さい」