「……ったく、だらしねーな」

襟首を掴まれて引き摺り上げられたと思ったら、突き飛ばされた。

「…………!!」

遠い筈だった痛みがいきなり最大値で全身至る所からクルガンの脳髄に襲い掛かり、本気で一瞬意識がとんだ。
衝撃と共に口腔に血が溢れ、その塊を吐き出す間もなく、赤毛の鬼は距離を詰めていた。
修羅の形相で、シードが拳を振り上げる。

ああ、殺されるな、と、冗談ではなくクルガンはそう思った。

「っ!」

衝突音。
そして、骨の折れる音。

「俺はな、手加減なしに殴ったら、人の頭蓋骨くらいは陥没させられる──けど残念ながら、俺の指も砕けるし、当然痛えよ。都合良くいかねえモンだろ?」

シードは腕を振り抜いたそのままの体勢で、押し殺した声で言った。

「なあ……アンタ、今さ」

シードの拳はクルガンの顔の脇──固い大地に、突き立っている。
夕暮れのせいか、それとも角度のせいか、シードの表情には陰影が付き、とても凄惨に見えた。

「俺に殴られたい?」
「…………」

クルガンは答えなかった。

「──アンタなんか殴ってやんないぜ、俺は」

シードは薄く冷えた音でそう言った。
砕けた拳を己の顔の顔の横まで引き、そして──

「!」

もう一度叩き付けた。
ばきばきと、更にいやな音がした。

「詰ってもやらない」

破れた皮膚には気付いていないのか、あるいは憤怒がそれを凌駕しているのか、シードの表情は苦痛ではないもので彩られている。

「罰があったほうが楽なんだろ、アンタ」
「────」
「惨めだな。見てるだけで吐き気がする──殴ってなんかやるものかよ!」

クルガンは、非常に苦しい息の中、それでも口を開いた。例え一瞬後に鼓動が停止しようと、言いたい事があった。

精々小憎らしく見えるように、唇の端だけ吊り上げる。
実際、彼は苛立っていたのだ──何故、この男は。

「ならば、見るな」

短く言葉を区切る。長くは話せない。
クルガンは思ったことだけを言った。

「触れるな。失せろ」
「────」
「俺も、お前を、見たくない」

シードは今度こそ、遠慮容赦なくクルガンの首を締め上げた。

「──お前、口には気をつけな、少将さん」

色のわからなくなっている瞳が、細められる。
何故か、どこか泣きそうな顔に見えた。

「俺は本気で怒ってるんだ。……本当に、殺してしまいそうなくらいなんだよ」














『死線』













吐き捨てると、シードは遠慮容赦なくクルガンの傷を調べた。折れた矢を引き抜き、血糊でがちがちに固まった包帯(というより、元は包帯だったもの)を引き剥がす。かなり痛いだろうが、シードにはどうでも良かった。

「っ……!」
「気合入れろよ、舌噛むな」

出来うる限りの処置を施すと、今度はシードは何度も何度も、流水の紋章を使った。
シードの技量では、怪我に対して何らかの役に立ったようには殆ど見えなかったけれども、それでも繰り返した。

しかし矢傷と火傷は何とか処置できても──左手のひらの大穴、そして何より、動いた為に広がった腹の傷は塞がる様子を見せない。
シードは苛立ちに舌打ちした。クルガンの顔色は依然として死体に近い。圧倒的に、血が足りないのだ。

クルガンはひび割れた声で呻いた。先程よりは楽そうな呼吸ではあったが、その分冷たさは増していた。

「触るな」
「言ってる場合か!」
「失せろと言っている」
「死んでも良いのかテメェはよ!?」

思わず言ってしまったそれに、返って来たのは予想通りの言葉で。
クルガンの顔は、全く平静だった。

「何故俺が、命を惜しむ事がある……?」

ことりと落とされた。

触れたら崩れそうな、そんなどこか脆い問いかけだった。
きっと皮肉ではなかった。どこまでも純粋な叫びなのだ。

「どうせ、全て夢物語だ」
「アンタは何でその歳で悟りなんか開いてんだよ……!」

勝手に見切っていくなと、そう思ってシードは手を伸ばした。勿論クルガンは何処にも行く事など出来ない状態だとわかっていたが、そう言った意味ではなかった。

クルガンはシードのその手を、音を立てて払い退けた。手当ての結果少しばかり出来たのだろうその力で、そうした。

「去れ」
「────!」

シードは立ち上がると、クルガンを置いて駆けた。

己の腰に吊った鞘から剣を抜き放つ。
そして、張り出した大地の影から丁度姿を現した敵兵を出会い頭に一息で斬り倒した。
人を呼ばれてはまずいと、沸騰しかけた頭でもそれくらいの判断は出来る。

「ぎゃっ」

肉と骨を断つ、重い感触と、人間の叫び。
──ひとり救おうと、躍起になるその傍らで、シードはこんなにも簡単にひとり殺す。

「──っ!!」

息を呑む音に、シードは咄嗟に仰のいた。
高低差のある大地のその上にも同盟兵がいた──目が合う。
兵士は一目散に反対方向へ逃げていった。まずいと思ったが、追い縋れる位置ではない。

クルガンの所へ戻ると、彼は上半身を起こして、大地の壁面に背を預けていた。
細く息を吐きながら、クルガンは淡々と言った。きっと、シードよりは余程多くのことを考え、判断しているのだろう。

「さっさと逃げろ。百倍に増えて戻って来るぞ」
「なら早く、」
「重傷者を連れて逃げられる距離では、ましてや戦える場面ではないな」

確かにそうだった。
地には傷のようにクレバスが縦横に走り、隆起した壁がいたるところにある。
数が違う今、逃げた所で簡単に袋小路に追い詰められる。

何より、クルガンがその逃亡や戦闘に耐えられるとは考えられなかった。そして、足手まといになる己を許容する事も。

灰色の目をした男は、既に落ち着いていた。
その眼差しは本当にシードを見ているのか、遠かった。

ずっと思っていたことだ。
この男は何を見ているのか。
風景を眺める視線で、何を見ているのか?

いつも、諦めていただろう、何かを。

「……お前が物分りの悪い男だとは知っている。だが、上官として言わせて貰う」

知っている?本当に?

「俺を見捨てろ」

本当に、この男はシードを見ているのか。

「そして生き延びろ。命令だ」

反応のないシードに(あるいは多分、皇国兵の中の誰かひとりに)、クルガンは薄い唇を動かして確認した。

「理解したか?」
「ああわかったよ、アンタが最悪の人でなしってことはな」

少し頭を使えばわかることだ。
置いていけるくらいなら、そもそもこんな所に走って来ない。クルガンは、シードのことを全く理解していない。
だからこんな酷い言葉が吐ける。

ぎしり、と身のうちで何かが軋んだ。

殺してしまいそうなくらいだと、シードは既に言っただろう。


「──アンタさ、自殺志願者が命捨てたって、全然ウツクシクねぇのよ」


その瞬間、シードはとても怖いものになった。


俺の国を貶めるなよ、気違いが──テメェの自殺に勝手に使うんじゃねえよ」


クルガンは、いつも何か、何処か冷めているように見えた。
非道な男だと言われても、否定もせずに。
己自身の評価も、名前も、存在も──何もかも全て、腐った水の中に放り捨てているように見えた。

拘泥するのは、この国だけか。
──他には、何も望まないのかと。

だから、シードは己の舌に刃を乗せた。
苛立ちのままに、そうした。

「そんなどうでもいいような命をこの国に賭けられてもよ、俺が苛立つだけだ」

きっと、この男が愛し、
全て捧げたものを、
奪って、

──ぐしゃり、と。
何かを叩き潰した感触が、確かにした。

シードは拳を握り締めた。

クルガンにとって、とても容赦のないことを言っている自覚はある。
崖のふちに立っていた人影を、突き落とすような台詞だ。何処までも果てのない、奈落へと。

「────」

クルガンは目を閉じた。
怒りでもすれば良かったのに、ここまで来てもまだこの男は冷静だった。
冷静に──現実を享受し、そして、的確な判断をして見せた。

この死線、彼にとってはその向こう側に突き落とされても。
僅かに指先を震わせただけで。

「俺は、この国の為に……」
「────」
「死ぬのでは、ない、……ならば、」

何故、そんな顔でそんな事を言う。
何故だ。

血を吐いたほうがまだましだろう?
拠り所すら、捨てるのか。

「名は、穢れまい」

聞きたかったのは、そんな言葉ではなかった。


「……言えよ!!」


シードは激昂した。

そんな諦めた目で、
そんな冷たい声で、

でもいつも──お前は、逃げなかっただろう。



出来る事と出来ない事に、明確な線引きをしながら。
不可能と、見切ってしまった癖に、なお戦場に居た。

シードは叫んだ。

自分は見てきた。
この男はいつも、酷く合理的に
卑怯に、
あらゆる手を使い、
無駄と感傷を排除し、
敵からも味方からも恐れられるような人間味のなさで、

──それで。


「国の為に戦ったって言えよ!」



「自分に出来る事はやって来たって言えよ!」




「さっきだって、俺達を逃がす為に囮になったって、言えよ……!」







──この広い、世界で。

心のうちをひた隠して、血を流している。
死のうとしている。
何の為に?


シードは吠えた。




「俺は言える!」
「誰に憚ることも!」
「恥じることも!」
「ない!」


「俺はこの国が好きだ……!」





だから、戦うのだろう。
命を刃の上に。誇りを命の上に。

そうでなければ、生きられやしない。
獣の雄叫びを上げながら、同族殺しに奔走する、この戦場で──生きていく事は出来ない。
だから皆、旗を掲げ、軍歌を歌い、名誉を求め、後ろに家族を置いてくる。

それなのに。


「アンタは、言えねぇのかよ……!」


シードは必死に、耳を澄ませた。こたえてくれと。
クルガンは唇を動かした。


「……言え、るか」


音を立てて。
音を立てて──シードは、敵兵の血に塗れた己の剣を、地に突き立てた。

シードにはわかる。
誰にわからずとも、今、ここにいるシードには。

傲慢に見えるクルガンが、誰に何を言われようとも顔色すら変えない、不遜な男が──絶対に、口に出せないこと。


己を許すことだ。
どんな理由でも。



「馬鹿野郎が……!」


謝れもしなくて──好きとも言えない。
だから誤解されるんだ。

アンタが使い捨てた相手だって、アンタが斬った相手だって、アンタ、嫌いじゃなかったろ。
自分より余程、好きだったろ。

でも言えなかったんだよな。言えないんだよな。
その矛盾が、おこがましいから。

「──じゃあ、俺が代わりに言ってやる」

綺麗事は嫌いと言いながら、誰よりそれに憧れているのは、この男だ。
クルガンを突き崩すのに、最も効果的な言葉が、多分シードにはわかっている。



「俺は、アンタを助けにここに来た」



クルガンの表情が変わったのが、見ずともシードには感じ取れた。
この男が、一番言われたくないだろう台詞。

「アンタを守る為に」



「──『アンタの為に、敵を殺した』」



今、自分は憎まれた、とシードにはわかった。