『死線』







──成る程、純粋な個人の戦闘能力を試すとすれば、これ以上の機会はないな、とクルガンは思った。

ぼんやりと霞む頭を置いて殆ど自動で体を動かしながら、クルガンは己の生命力に少しばかり感心している。
いつだってそうだ。この体は潔くすっぱりと終わってはくれない。自分の天分だとすればそれは何故なのだろう、上手い配剤とはとてもいえない。

けれど、こんなときにはそんな性質も少しは役に立ちそうだった。
敵の喉を貫く己の剣は、既に切れ味を失っていて斬撃には適さなくなっている。技で斬るなどといった芸当に費やす余力はない。
別に構わない。『華麗』、もしくは『優雅』などといった剣技は既に捨てていた。
腕や腹を狙うという回りくどい真似はしない。目か、もしくは喉が良い。混戦の中、足払いやぎりぎりの回避による同士討ちの誘発などはまだスマートな方で、時にはその指先で相手の眼窩を抉りぬき、関節を踏み抜いて膝を砕いた。形式にとらわれない徹底的して『野蛮』、もしくは『下賎』なやり方──そして実はそれこそが、クルガンが最も得意とする所だった。最後の瞬間には、誰かの喉首を噛み千切ってやろう。

「────」

学習能力には長けている、とクルガンは己をそう分析する。
幼少時には自分ひとりで立つ方法を、傭兵隊に居た頃には効率よく人を殺す方法を、皇国兵になってからはそれをオブラートに包む方法を身に着けてきた。
それはクルガンにとって大分役に立ったので、素直に考えれば感謝するべきなのだろう。

「────」

血の味がする。
それが胃の奥から上がってきたものか、それとも飛び込んできた返り血かは区別が付かない。おそらく両方だ。

クルガンは馬からは既に降りていた。予想通り、乗馬の振動は破滅的な不快感を齎したし、馬まで守る余力はとてもなかった。なおかつ落馬でもしようものなら士気に関わる上に、クルガン自身もそんな失態は回避したかった。自分の足で土を蹴った方がまだ体をコントロール出来る。
逃げる必要はないので、機動力はそもそも必要ない。

「────」

自分の身のうちで何かがちぎれる音が、何処か他人事のように耳の裏で響いた。
よろめく。だが、まだ倒れない。

「────」

限界と言うのは、それなりに遠いもののようだった。
予想通り、この体はしぶとい。それともこれは、空腹が過ぎれば体機能が壊れて食欲を感じなくなるように、ある種の一線を超えたからだろうか。

燃え尽きる寸前、炎がその勢いを一瞬増すように。

「────」

つい二日前、同じような経験をしただろう彼らの中で、最後まで残ったのは誰だったのか。
そんな事はクルガンは考えない。どうせ辿り着く所は一緒だ。

贖罪などといった美しいものについても、クルガンは全く考慮していなかった。馬鹿馬鹿しいとすら思っている。そんな感傷が、あるいは己の命ひとつが、実際彼らにとって何らかの役に立ち罪滅ぼしになるならばこれ程楽な事はない。悩む必要すらない。

あの赤髪の男が余程愚鈍でなければ、流石に本隊は撤退を完了しただろう──それならばもう力を抜いてしまってもいいのかも知れなかったが、クルガンは己に休息を許さなかった。皮膚の裂ける嫌な音を聞きながら、想像していたよりも痛くはないとそんな事を考えながら、執拗に抵抗し続けた。

この首をやるのはいい(実際、クルガンはそれを餌に同盟軍を誘導してきた──憎悪や怨恨すら、こんな時には役立つ)。だが折れたくはない。

我を張るなら、最後までだ。

今クルガンがあっさりと殺している(ように見えるだろう、実際はそうでもないのだが)同盟兵士にはとても迷惑な思い込みだろう──けれどクルガンは、己の命は諦めていても、己の役割を放棄する気はなかった。

美しくはない。
そんな事はわかっている。
この自分は勿論、役人も、軍人も、宮廷も、戦場も、忠誠を誓った国でさえ、美しくはない。

だが──この国は必死で生きようとしている。
正しくないからといって、背を向けられはしない。そんな勇気は持てない。目的を無くす事が何より怖い。

国益とは便利な言葉だ。それで全てを誤魔化せるものならば。
クルガンは知っている。
ここで刃を振るうのは、敵を殺すのは、部下まで殺すのは、全て──……己の我侭だ。


どん


「────!」

視界が違う赤で染め変えられた。血ではなく、炎によって。

どうやら相手の側にも合理主義者がいるらしい。
群がる兵士と一緒くたに、紋章で焼き尽くそうとは、非情なやり方だが効率は良い。そう、このまま獲物ひとつをしとめるのに十の人員を消費するより、一の犠牲で抑えた方がまし──立派な言い訳だ、クルガンとしては文句はない。自分が殺そうとしていた相手が殺された、それを非道いと責められるわけがない。クルガンが直接腕を振るわずに済んだだけだ。こんな風なやり方については?むしろ自分の常套手段だ。

所詮、軍を率いる者が考えるのは効果的に味方を殺す事──許せぬと思うならまずは広場に行って啓蒙運動から始めることだ、どうしたところで戦をすれば人は死ぬのだ。

「────」

たんぱく質が焼ける異臭──いや、この場に居る人間にとっては嗅ぎ慣れた臭いか、目の前の人型が妙な音を立てて倒れ付した。その斜め後ろもまた崩れていた。その横も最早動けないだろう。対してクルガンの方は、咄嗟にかざした右腕が半ば焼け焦げ、髪と服の裾が燃え始めただけだ。魔力耐性が高いことが幸いしている──まだ剣を扱えることを、幸運というのならば。

右手で炎を叩き、血で火を消す。
次の敵が距離を詰める前に、一息だけでも呼吸しておくべきだったが、熱い空気は肺に痛いだけに違いなかった。
それよりも、壁がなくなった以上──

己に向かう複数のやじりを、クルガンは何の感慨もなく見詰めた。むしろ彼の感覚では、これは既に試験に過ぎなかった。さて、何本まで叩き落せる?
切り抜ける褒美は次の試練、不合格の罰則は世界からの断絶。

ひゅっ

血に赤く、焦げて黒く、そして熱くなっていたクルガンの剣は、僅か一本しか矢を落とせなかった。なんというざまだ。
半身に回転した体を掠めて大半は過ぎた。だが、左の肩口に一本、左の太ももに二本。これは、運が良いのか悪いのか、判断のしようはないが。

衝撃に、とうとうクルガンは仰向けに倒れた。舌打ちをひとつ。
痛みがあまり伝達されてこないのは、きっとその神経が塞がっているからだろう。
比較的自由に動く右腕をじりじりと動かし、胸元を探る。歯がゆいほどの時間をかけて、ようやく目的の物を探り当てる。
こういったとき、誇り高く潔い者ならば自決の道具でも用意しているのだろうが、クルガンは違う。

「っ!!」

恐る恐る距離を詰めていたらしい敵兵が、クルガンがまだ生きているのを見て、恐怖の呼吸と共に刃を振り下ろす。

ぎゅつっ

「────」

右手は今は塞がっている。ならば左手しかない。
クルガンは降って来る刃を左の手のひらで受け止めた。貫通はしたそれごと腕を無理に横にやることで、切っ先はクルガンの眼窩ではなく地面にもぐりこむ。

ばちばちばちっ

「ぎゃあああああっ!?!」

びくんびくんと体を痙攣させ、兵士は喉を奮わせた。
剣から伝った雷がその身に纏い付き、締め上げる。
安心しかけたところへの一撃。動揺が、一呼吸の間、兵たちの動きを止める。

その一瞬でいい。

札を掴んで引き出した右手を、地面に当てる。正確に言えば、そんな筋力はもったいなかったので落下させる。

体力は使い切ったので、次は魔力で勝負してやろう。さて、何処までやれるだろうか──己の全てを、注ぎ込んでみたら?

クルガンが得意とする雷鳴の紋章は、威力は絶大だが攻撃範囲が狭い。こういった時には余り役立たない。
得意ではないが、戦術的には非常に役立つので準備していた。貴重なものだが、ここより後に使う当てはない。

クルガンは、息を使わずに呻いた。空気を吸っている時間はなかった。





「……『震え』、『る』、──『大地』

効果範囲は、地上の敵全体。





ぶるり、と大地が身じろぎした。
それを感じて、クルガンは僅かに息を吐いた。どうも分不相応なことをしている気になる。
頼む、とクルガンは、札を握った右拳で僅かに地面を擦った。

出来る限り巨大なクレーターを形成してやろう。味方はひとりもいないので何に遠慮する事もない。

耳の中には血が詰まっていて良く聞こえないが、振動は凄まじい。
当たり前だ──土地が、それそのものが隆起しているのだ。

「────」

馬に乗っていれば落馬は必至、踏み潰される可能性も低くない。亀裂に飲み込まれれば這い上がってはこられまい。
右手に握っていた札が燃え上がるのがわかった。負荷に耐え切れないのだろうか、こんな効果は初めて見る。

手のひらは元より焦げているので問題はなく、クルガンはそれを握り締め続けた。この札が無くなる前に、出来るだけ遠くまで、出来るだけ強く──注ぎ込む魔力が色を帯び、かすかに電光が弾けた。やはりあまり相性は良くないらしい。

浮遊感。そして失墜。
クルガンが背にした大地は、丁度左肩のところで真っ二つに割れた。反射的に寝返りを打って落下を避けてしまった自分に、クルガンは呆れた。

今更何の意味がある。本能というものは、どうにも御し難い。

敵兵の剣が刺さっていた大地は離れていった。力任せに引き寄せた手のひらは裂けていた。これだけ出血してもまだ吹き出るものがあるのか、総量の三分の一とは一体どれ程のものなのだろうか。

悲鳴と混乱の声が遠く響いたが、やがて薄れていった。
だが、クルガンの意識は途切れなかった。

「────」

札が完全に炭化した頃、落ちかけた日は、まだぎりぎり地平線に留まっていた。目を開けて、クルガンは溜息を吐いた。
呆れたものだ──まだ、まだ死んでいないのか。害虫並の生命力だ。

威力は何処まで及んだだろうか。二百歩、いや、欲を言えば三百歩くらい──結果を見ることは出来ないが。いつから霞んでいたのかわからない、あれ程赤かった世界の全てが白くぼやけて見えた。

「……」

さて、新しい敵兵がこの場までこの首を捜しに来るのが先か、それともクルガンがまぶたを閉じるのが先か。
精々頭の回転が愚鈍なものが拾うといい。無能者が出世すればハイランドの益になる。

何者かが近寄ってくる気配がした。
クルガンが相対していた方向ではなく、何故か、後ろから。僅かに首を動かし、眼球を回転させる。

それは、敵兵などより余程目にしたくないものだった。赤い──血ではなく、炎ではなく、けれどそんなものより多分、戦場では恐ろしいのだと聞いている。
勘弁してくれ、とクルガンはぐらつく頭の中で思ったが、すぐにその提案を却下した。

「────」

首を持ち上げる、腕を持ち上げる、剣を探す。
土を引っかいて、手のひら全体で腕を支える。傷口に砂利が染みようが、知ったことか。
けれど、その先が続かない。足の先が冷えて動かない。腹筋は駄目だ。
肩を擦って転がり、うつ伏せになり、腕をつっかえ棒にし、背筋の力を借りて上半身を浮かせる。
起き上がれ役立たず、とクルガンは内心、己の体を痛罵した。

荒い呼吸音が聞こえる。
焦げた右腕が一番ましな働きをすると思ったが、肘から崩れ落ちた。

前のめりに顔面から泥に突っ込む。

左手を顔の脇につき、再度試みる。右膝を何とか折り曲げ、腹の下に差し込む。切り捨てたくなるほど鈍い動き。
右手は己の剣の柄を探り当てていた。

握ろうとしたが、脂に滑った。その瞬間にまた全てが崩れ、顎が地面に埋まる。
もう一度。

「────」

もう一度。

「────」

もう一度。

「────」

──もう一度だ。

土を噛んで、クルガンは呻いた。
懇願だけはしないつもりだった。
命令だ。



「俺を、見るな」



無様ななりを、晒せない。








+++ +++ +++








遠くに、黒衣が崩れ落ちるのが見えた。
それでもシードは走った。
雑兵が彼に群がるのが見えた。
それでもまだ走った。

いきなりの地震に馬が暴れ出し、落馬してもまだ走った。
というよりは、そんな事には今気付いたくらいだ。
諦めろという言葉は聞こえなかった。
土地は隆起し、あるいは陥没し、中規模の谷間を形成している所すらある。

構わず乗り越え、迂回し、記憶を元に大慌てで近寄ってみれば──これだ。

これは何か。狙ってやっているのか。
だとしたら大成功だ拍手をしてやれば満足か。

(なにみっともない事、してんだ)

ふざけるなよ、とシードは思った。

(今まであんだけ偉そうなこと言ってさ、俺にさんざ説教たれたくせに、なにアンタ、冗談じゃねぇよ)

良く考えて行動しろ、と、今まで言われたそんな言葉は叩き返してやりたい。
今までこんな男を将としてまつりあげていたとは、ハイランドの人材不足は深刻だ。

(いきなり情けねぇトコ見せて、そんなの許されるとでも思ってる?)

怒鳴りつけてやらねばやっていられない。
そう思い、シードは現在進行形で口を開こうとしている。

「──!」

痙攣する腕で自身を支えて、いつものお高くとまった優雅さなどまるで残っていない。
誰かと思う惨状。落ち窪んだ目だけ光らせて、こちらを殺意さえこめた瞳で見ている。
動物だな、とシードは思った。

──只の、男だ。

今なら、その奥の感情が見える。
負けたくないと、全身で叫んでいる。

がくがくと震えている体を、それでも強張らせて。
ひびの入った剣を地面に突き立て、懸命に起き上がろうとしている。

血と泥にまみれた髪は、かちかちに固まっていて、半分は焦げ、元が何色だと言っても問題ない気がした。
みすぼらしく、見苦しかった。

それでも、目だけがぎらぎらと尖っている。
刃だ。

錆びてぼろぼろの、刃の色をした目だ。

「……んで」

擦れた声がシードの口から漏れる。
とても、今の気持ちなんてちゃんと伝えられそうにない。

(何で?)

なんで今更立とうとすんの。
なんで今更虚勢張んの。

なんで今更。
今更──アンタが絶対折れないなんて、示そうとすんの。

まるで、粉々に砕け散ったガラスを、一生懸命一生懸命パズルみたいに、元通りにはめ込もうとして。
透明で、きらきらしていて、冷たくて硬い欠片。そんなのは──
綺麗だけど、痛いだろ。


(もう遅えよ。もう手遅れだ)


ごめんな。

俺はさ、アンタが強くなんかないって、見抜いちまった。