彼にとっては、それは呼吸をするよりも簡単に肯定できる事実なのだろう。
しかしそのことこそを、自分は否定しなければならないのだ。








『死線』








クルガンはゆっくりと瞬きをした。
その視線はいつも通りに怜悧だった──シードの苛立ちを助長する、その様子。

情緒の薄い声音が、血の気の全くない唇から滑り出る。
触れたら本当に冷たいのではないかと、そう思わせる平静さだった。

「……貴方は、私ではない」

クルガンは優雅な動作で、水の入ったカップを寝台の脇のチェストの上に移動させた。
音も立てずに静かに。まるでそれが、高価で繊細な杯ででもあるかのような錯覚を起こさせる。

「貴方が感じることを、私も同じように感じると、何故言える。貴方は人で、だから私も人だと?」

今ここで言葉を交わしている相手が、自分と同じ生き物だという保証など何処にもない。
クルガンは細く息を吐いた。それは溜息ですらなく、ただの反復の動作だった。
揺れを見せないその姿に、シードの機嫌は更なる下降線を辿った。表現するならば垂直に近い角度だ。これ以上落ちる場所はないと思っても、その先はいつでもあるのだろう。

「──それはきっと、貴方の中での常識に過ぎない」

ならば、本当に何も感じない者がいてもいい筈だ。
クルガンはそう言った。

「私がそれを認める理由はないかと」
「──」

シードは目を眇めた。
それはむしろクルガンがよくやる癖だったが、今のシードには似合っていた。

「意固地になってる様にしか聞こえねぇな」
「甘い感傷を好まないだけだ。──ああ、勿論」

クルガンは体を四分の一回転させ、地面に足を下ろした。
その途中で、シードを見もせずにこう続ける。

「貴方がそう思い込みたければ、それを止める理由もない。納得したならば、大人しく動いてくれるのでしょう?」

クルガンは面白くもなさそうな様子だった。

「では早速、『人間味のある上官』からの命令ですが、本隊の状況を報告しなさい」
「……可愛くねぇ」

シードは憮然とした。
だが、クルガンにはもうこれ以上会話を続ける気はないようだった──平然と立ち上がると(その顔色は相変わらず悪く、シードから見れば白いを通り越して青かったが)、軍服の上着を羽織った。中身の汚れ──泥、そして血──には全く頓着する様子を見せなかった。

「オイ、クルガン──」
「中尉」

取り付く島のない声音に、シードは続く言葉をかみ殺した。
クルガンが指揮官として動けるようになった以上(無論、絶対にそんな状態ではないとはわかっているが少なくともそれを取り繕った以上)こんな話をしている場合ではない。まず自分の役目をこなし、全てはそれからだ。

「──Yes, Sir. 第一軍を主力とする本隊は既に同盟軍を撃破、要請を受け入れ全速でこちらに向かっております。先行しているのは第一軍選抜部隊約八千、二日後にはフラベルグ川を越える見込みであります。編成の遅れた部隊はその後に続く予定」
「結構」

クルガンは数瞬何事か思案したようだった。
そしてシードを振り返る。灰色の眼差しが、シードの姿を上から下まで軽く一撫でした。

「それは僥倖です。ルカ様は余程ご活躍したようだ──これで、我が部隊は壊滅を回避出来る可能性が高い」
「は」
「ただ、それには条件がひとつありますが」
「──は」

シードは非常に嫌な予感がした。
このパターンはあれだろう、つまり、体よく利用されて──

「部隊撤退の指揮を執ってください。中尉、貴方が」

使い倒される。

「…………」

この時点で、シードは模範的な皇国兵の礼儀を放り捨てた。結局一分ともたなかったが、未練は全くない。
半眼になり、問う。

「なんで」

クルガンは軽い溜息をついた。
その溜息には、大体こんなような意味が含まれているとシードは看破した──『そうでした、貴方は一から十まで手取り足取り説明されないと物事が理解出来ない頭の持ち主でしたね』。翻訳としてはかなり正確である自信がある。

「増援が予想よりも早い。向こうとしてはこうなる前にヒースバレイの砦は落としたかったでしょう。同盟軍の本隊も敗れた以上、この場に留まるのは得策ではない筈だ」
「じゃあ退くだろ」
「……何の土産もなく撤退する前に、目の前の瀕死の敵部隊くらいは叩き潰したい所でしょうね。増援と合流する前に、ですが」

げ、とシードはうめいた。

「本隊の接近は向こうも敏感に察知しようとしている筈です。貴方は確かに驚くべき速度で伝令の役割を果たしましたが、一日以上の差を開けられたとは考えらない。今日中、少なくとも明日の朝には敵もその事実を知るでしょう」
「って事は速攻仕掛けて来る?じゃさっさと逃げ──」
「ただし」

クルガンはシードの言葉を遮って続けた。
名誉のために言っておくと、別にシードは自分の頭の回転が遅いとは思っていない。ただ、こういったチェスゲームのような読み合いといったものが少々苦手なのだ。どうせクルガンが説明するだろうという甘えもある。

「再編成は殆ど済んでいるので動けることは動けますが、我が部隊が急いで退却など始めようものなら、同盟側はすぐさま勘付き、これ幸いと掃討戦に持ち込むでしょうね。少々早すぎる──本隊が駆けつける前にこちらが全滅する時間は十分あります。それでなくとも後背を突かれるのですから、立場は相当に不利だ」
「じゃこっそり逃げる?」
「──夜まで待てば、被害なく逃げ切れる可能性がある。朝まで相手が気付かなければの話ですが」
「夜逃げね」
「それ以前に攻めて来る可能性の方が高いですが──そうなれば仕方ない、相手がそう出てきた瞬間に全力で逃げます。夕方まで撤退を引き伸ばせれば、全滅する前に本隊との合流が可能でしょう。それがわかれば敵もそれなりのところで退きます。そう──フラベルグを渡れば安全だと思って良いでしょう」

シードは三秒黙ると、事態を簡単に整理した。
川の向こうまで退却する。
しかしこちらから動くのに今では早すぎるので夜まで待つ。
その前に敵が攻めてきたら仕方ないので逃げる。

成る程、被害を最小限に部隊の壊滅を防ぎつつ撤退しようという意図はわかった。
けれども、もっとも重要な部分がわからない。

「……で、何でそれが俺に指揮を任せるって話になるわけ?大体俺アンタの管轄じゃねーし、むしろ部外者だし、無理っつーか、駄目だろ、駄目っつーかやっぱり無理だろ」
「私が喜んでそれを推奨しているとは思わないように」

クルガンは僅かに眉根を寄せて、自らの立場と現状を振り返ったようだった。
勿論、彼の気に入るような状態ではない事は明らかだ。

「──残念ながら、今の私の状態では馬を乗り回して声を張り上げるなどという芸当は不可能に近い。先程の刃傷沙汰で兵の動揺もある」
「いやだから、他に」
「今動ける中尉以上の仕官は存在しません。更に言えば、部隊長経験があり、かつ兵を上手く動かす事の出来る者も──」

一瞬だけ目を閉じて、クルガンは言葉を続けた。

「もう、いない」

シードは口をパクパクさせると、脳みそをフル回転させて次の台詞をひねり出した。

「いや、つーかこう言うときこそ副官の出番だろうが──って……」

そしてそう言いかけて、止まった。

「あ」
「土下座してもやってくれるかどうか微妙な所だ。ついでに肋骨も何本か折れている筈なので、その気があっても無理でしょう」
「何で他人事みたくいうかな……!」

シードはそう吐き捨てると額に手を当ててうつむいた。頭が痛い。
ついでに苛立ちにどすどすと足を踏み鳴らしたが、それによってクルガンの意見を覆す事は出来なかった。そして、シードも確かに認めていた──消去法によってでしかない事はたしかだが、他に人材が居ないのなら確かにシードがそうするのが一番良い。ここまでの人数を扱ったことはないが、全く指揮経験のないものや部隊長になったことのないものよりは余程上手くやれるだろう。

銀髪の男は、紙より白い顔色の他はあまりに普段と変わらなかった。けれども、腹が破れたのだ──血も流れた。明らかに、指揮がとれる状態ではない。
それこそ、機械でもなければまともに走ることすら不可能だろう。

「負傷者の移送だけは既に始めていますが、残りは手付かずです。現在の部隊編成の現状を一番把握しているのはイレイ大尉──」
「って、もしかしてアレか」
「代名詞としては間違っているが、多分『それ』です。確か簡易な報告書も携帯していた筈だ……まさか、殺してはいないでしょうね?」
「──そうしてもおかしくない場面だったがな」

シードはがりがりと後頭部を掻いた。

「アンタの処置の方で手一杯だったよ」

上官に刃を向けたのだ。
軍法会議の手間をかけずとも、処断されていて当然ともいえる。

かなり激昂した状態にあったのでシードは彼をとり合えず大人しくさせて──方法については上品とはいえないが──周囲の兵に指示し拘束した。報告書については確かに血と泥の上に何か散らばっていた気がするが、とり合えずシードがぐちゃぐちゃに踏みにじった事は間違いないだろう。
仕方がない。そんな事にまで気を使っていられる状況ではなかった。

シードの体は真剣に睡眠を欲していたが、やるべきことが出来た以上、それが他の全てに優先する。
イレイに会いに行く為に身を翻しかけ、けれどシードは足を止めた。

クルガンとイレイの間に具体的にどんな確執があったのかはわからない。
勿論、周囲の兵からの断片的な情報によって描ける情景が少しはあるにしろ、それはけして真実とはならない。

イレイについてシードは良く知るわけではなかったが、よくもこの男の副官をやっていられると遠目に感心した事くらいはある。
それがこんなことになるとは思いも寄らなかった──シードが口を出す問題ではないが、もう少し違う道はなかったのかと思う。クルガンにしろ、イレイにしろ、やることが極端すぎる──いくら上司と部下だとて、いやむしろ、上司と部下だからこそ、そんなところは似なくても良いのだ。

「……協力してくれんのか?」
「しないわけがない」

クルガンの返答は迅速だった。

「私の為に兵を動かすのではない。勝利の為でもない。ただ、兵が生きる為の軍事行動だ──彼が貴方に協力を惜しむ事はあり得ない」

その筈だ、とクルガンは続けた。
次の台詞は小さすぎて、シードには聞こえなかったが。

「──俺の副官だ」






+++ +++ +++






そして、そのクルガンの言葉通り、シードが会いに行ったときにはイレイは既に落ち着いた様子で覚醒しており、淡々とした反応であっさりとシードに協力した。
複数の部隊の編成などはシードには全く未知の分野に等しかったので、彼の手助けはかなり貴重だった──拘束を解かれたイレイに、兵士達の反応は微妙なものだった。意識してはいるが、質問や異論を挟む事はない。
クルガンからシードに全体指揮が任されたと知っても、驚きはしても逆らう事はない。

つまり、『模範的な皇国兵』だ。
指揮官の命令に一部の隙もなく従う。その通りに動く。使いやすいことは間違いない。

イレイも剣を振り回したり走ったりなどと言う戦闘は勿論不可能な状態であるので、シードへの伝達が済んだ後は負傷兵の最終グループに加わってもらった。彼にとっての問題は、帰還後だろう──彼にどんな処置が待っているのかは予想がつかなかった。

シードは指揮の伝達速度を上げる為、部隊の様子を知る為、そこかしこを走り回った。なんてよく働くと、自分でも少し感心した。走りながら焼きしめたパンを噛み、水を飲んでまた走った。時間の進み方はやけにゆっくりと感じられた。願わくば、このまま日が落ちて欲しいものだが──

昼過ぎて二刻、太陽の傾きを感じ始める頃、敵軍に動きがあったとの情報が入る。






+++ +++ +++






幕舎などはそのまま置いていく。
シードは全速全力で撤退に徹した。まあ現状を率直に表す言葉で言えば、わき目も振らずに逃げた。

撤退戦ほど難しいものはないとよく言われる。
考えずとも当たり前だ。後ろからの攻撃をどうやって上手く防げというのか。

一番の負担は殿──追ってくる敵に一番近い部隊にかかる。
部隊の半数が壊滅することも珍しいとまでは言えない。酷い状況になると、そのままそこに留まり抗戦、抵抗することが役目の場合もあった──その場合、殿部隊はわかりやすいようにいえば捨石だ。
シードにはそのつもりはなかったが、一番危険であることには変わりない。
けれども、同盟軍の猛追は途中で勢いを減じた。
多分、本隊の動きが予想よりも更に速かったのか、もしくは指揮官が慎重な性格なのだろうとシードは分析した。
こちらにとっては幸運というほかにない。

当たり前だがこちらの方が地理に詳しい事もあり、負傷者の移送は半ば終わっていた事もあり──二千に満たない皇国軍は無事フラベルグ川を渡った。
同盟軍は名残惜しげに、やや距離を置いた後方に留まっている。だが、それも日が落ちる前にはいなくなるだろう。もう──ルカの率いる本隊は、すぐ傍まで来ているはずなのだから。

終わってみれば、やけにあっさりと退却出来た、というのが感想だった。

このまま目を閉じれば立ったまま眠る事も可能なくらいに、シードは疲れ果てていた。この上部隊の再編成などはやっていられない。
それくらいはクルガンとて出来る筈だ──指揮権を返上しようと、そこまで考えた所でシードははたと気付いた。

そういえば──何処だ?

普通に考えれば、イレイと同じように先に川を渡った筈だ。だが。
だが、とシードは、回転速度が今極端に落ちている頭を揺すぶって思った。

多分、あの男は普通といったような可愛らしい性格をしていない。






+++ +++ +++






「殿ですよ」

あの人にとって、他に選択肢があるわけがない、と、そこまでイレイは言った。指揮官ではないのならば、『クルガン』を生かす理由はない。
この次の言葉を聞きたくない、とシードは思った。

貴方には言わなかった。あの人も、私も」
「──」
「当然だ。貴方ならば、止めようとする。それは──不都合だ」

イレイの黒い目には、何の感情も見受けられなかった。喜びも、あるいは爽快感も、もしくは悲哀や、憎しみといったものも。ただ、当たり前のことを当たり前のように言っただけに見えた。

「もっとはっきり言えば、邪魔だ」

その台詞に憤るより先に、シードは嫌な予感に吐き気を覚えた。何故、殿の部隊はああも簡単に帰ってこれた──?
背筋が冷える。けれど予感に怯えている場合ではないので、シードはイレイに言葉も返さず、疲労の色を見せる兵士達の間を縫って走った。

待て。慌てるな。まだ、そうと決まったわけではない──

「おい!」

殿部隊の面子を見つけ出し、シードは具足を派手にがちゃつかせながら駆け寄った。
彼らは一様に疲れた顔をしている。それは当然だろう、一番体を張って戦う場所に居たのだ。
ねぎらう所だがその前に、シードには確認すべき事があった。

「……は、シード中尉、連絡は既に上官の方に回しておりますので──」
「クルガンは!?」

一秒、間が開いた。
そしてその兵士は、クルガン、という言葉が誰を指すかにようやく思い至ったようだった。
少将は、と口篭る。

「何処に居るんだよ」
「しょ、少将は、その、残りました」
「は?」

思わずシードはそんな声を出した。
残る?それは違うだろう。そういった場合、それは残るとは言わない。

「つまり……やるべきことがある、と」

がん、と後頭部に何かが落ちて来た。何だこれは。どういう事なんだそれは。
とうとうシードは相手を怒鳴りつけた。

「そんでのこのこ置いて来たってのか!?」
「め、命令ですから……」

いい加減、ここまで虚仮にされて黙っていられない。
誰も彼も、シードを怒らせたくてやっているようにしか思えない。

「やっぱり上から下まで馬鹿ばっかりじゃねえかこの部隊は……!!」

ふざけるんじゃねぇよ。

シードは叫んだ。
叫びながら駆け出した。


何故こうも、いつだって一分一秒が惜しいのだろう。
何故こうも、思い出したくもない記憶が掘り返されてしまうのだろう。