『死線』









目覚めは無理やりに引き摺り上げられる感覚で、不快としか言いようがない気持ちだった。
そして最初に目に入ったのが仏頂面の赤猿では、機嫌が良くなりようがない。

シードは敏感にクルガンの覚醒を察知すると、開口一番に恩を着せた。

「あーあー、俺が丁度流水の紋章貰ったばかりで良かったね。全く、スゲェ疲れるんだからな!?」
「……道理で、完治していない」

クルガンは溜息を付いて、ゆっくりと腕を動かすと、傷口の上に手を当てた。痛む。

「知らないようなら教えておきますが、『母なる海』の効果は完全回復だ」
「泣かすぞこの野郎」

自分の幕舎の寝台の上、どうやらそれ程時間は経過していないようだ。
そう把握して、クルガンは上半身を起こした。シードは止めなかった。

「…………」

クルガンも左手に流水の紋章を宿してはいるが、どういうわけかこの紋章はクルガン自身を回復するときには酷く役に立たない代物に成り下がる。
大体が、紋章に頼って傷を治そうとするのが間違いなのだろうとは思うが──しかし、腹を刺されてなお生きていると言う事は、余程処置が早かったのだろうか。
心当たりは全くなかったので、クルガンはその思考を早々と打ち切った。

そして即座に、次にやるべきこと──次に言うべき言葉を探す。
確認すべきこと、考えるべきこと、やるべきことはありすぎるが、優先順位をつけるのはそれほど難しくない。まずは状況の再把握である。

クルガンは身を起こしたままシードに問いかけた。

「──随分と早い到着だ。吉報だと思って良いのですか」
「あのなァ……」

シードは何か言い掛けたが、思い直したように口を閉じた。
けれどやっぱり思い切れなかったようで、一秒後にはまた口を開いた。

「──そりゃ最速でいかせて頂きましたよ」

シードは目を細めると、怒涛の勢いで喋りだした。
相当ストレスがたまっているようだ。

「おかげで俺は不眠不休だ、俺の馬はとっくに潰れた、ついでにそりゃ一頭だけのことじゃねぇ。死ぬ思いで走り通して来たら予想通りアンタはまたひとりで馬鹿みたいなことになってるし、回りの奴らはちっとも役に立たねぇで口あけて唖然だし、何か喚きながら錯乱してる奴はいるし、俺はここに辿りついたら即倒れ込みたかったくらいなのに誰も動かねーから一人で何か手当したり叱咤したり取り押さえたりもう大活躍だよ。自分が救世主かなんかなんじゃねえかっつー気分が味わえたよ全く、指揮官以下全員揃ってホント役立たずじゃねえのかこの部隊!」

シードの言葉を右から左へ流しながら、クルガンはとり合えず頷いた。
聞きたい事はまだ出てこないのでさっさと切り上げさせて促したいが、ただ、この極度の貧血状態で、シードを更に怒らせるのは賢明ではない。襟首を掴まれて揺さぶられようものなら即座に気絶する。

「笑いたければ笑って構わない」
「笑いたくねえから笑ってねえんだよ」

そう言いながら、シードは手を伸ばすと脇から水差しを取り上げ、安い軍用カップに水を注いでクルガンに押し付けた。
受け取ったそれをクルガンはわざとでなく零しそうになったが、努めて表には出さないようにした。驚くほど指に力が入らない。

シードの文句はまだ続いている。

「俺ァアンタの便利アイテムじゃねえぞ」
「ええ」
「ええじゃねーよ一言で終わらすな、絶対ェわかってねえだろアンタ」

シードは盛大な溜息をつくと、後頭部に手を当てて髪をかき回した。

その顔には疲労の色が濃い。不眠不休と言うのは嘘ではないのだろう──およそ他人から聞いたならば信じられない話だが。クルガンはシードの怪物的な体力の程は多少知っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。

シードは仏頂面を頑なに保持したまま、まだ何事か喋っている。

「あのなぁ、俺が後一刻、いや、半刻──そんなモンじゃねえ、五百秒、それだけでも遅れてたら、アンタ、死んでたぞ」
「──」
「俺もビックリだよ。ホント驚く、何なんだよそれは。そりゃね、俺も急いでたよ、一分一秒争って走ってきたよ、でもホントにそれだけぎりぎりだったなんて、誰が思うモンかよ。ああ、何か?俺が、後、ほんの少しでも遅れてたら、つまり俺はアンタの死体を目の前にして、コレに知らせを報告したら俺は役目を全うした事になるんだろうかなんて下らねぇ問題について頭を悩ませなきゃならなかったのか?」

クルガンには考えるべき事が沢山あったので、シードの話は殆ど良くつかめなかったが、苛立っていることは理解出来た。
これほどの時間と文字数を費やして伝わるのがたったそれだけとは、随分と非効率的だ。

「ああ──」

そしてシードの言いたい事をようやく察して──頭がぼんやりしているのだ、まだ──クルガンは頷いた。
こう言えばいいのだろう。確かに、シードはそれを要求してしかるべき立場にいる。彼に馴染んだ軍馬が潰れ、後始末を押し付けた上この態度では確かに良くないだろう。収まりもつかなくて当然だ。

「──『助けて頂いてありがとうございます』」

シードはそれ以上何も喚かなかったが、お世辞にも機嫌が直ったとは言い難かった。
クルガンは黙らざるを得ず、しかしそれもシードの望む所ではないようだった。

何事か派手な異音がシードの足元で上がった。
覗き込んでまで何があったか確認する余裕はクルガンにはなかったので、目線は動かさなかった。


思ってもねえ事を言うんじゃねえよ


しばらく、沈黙があった。

シードは枕元から離れた。多分、それはお互いにとって僥倖だった。

「……なんで、避けなかった」

クルガンは答えない。というより、答えようがない。
そんな事は自分が聞きたいくらいだった。

確かに、何の変哲もない短剣での一撃だ──いくら意表を突かれたとしても避けられただろう。簡単に、とまではいかずとも、クルガンならば。
まさか、腹の真正面で受け止めるなどと言う事はしなくて良かった筈だ。

「自分を許さなけりゃあ、格好良いとでも思ってるのか。命捨ててりゃ偉いなんて、そんな簡単な罪滅ぼしがあるかよ」

シードは低く呟いた。
大体の事情は聞いているのだろう。その予測はクルガンを酷く陰鬱にさせた。

呟きながら、堪えきれずにシードの声が波立つ。
烈火の如き激情が、きっと彼の本質なのだろう。

「ふざけんな──」
「──」
「言い訳しないのが、アンタの一番狡いところなんだよ!」

クルガンは、返しようがなく、黙るしかなかった。
自分が非難されているのはわかる。ただ、クルガンはこの類の事なら大なり小なり繰り返して生きてきたので、今更そんな説教を受け入れられる筈がなかった。

「────」

シードは呼吸を整えると、どさりとその場に腰を下ろした。
その所作から、彼が本当に疲れていることは容易に知れた。昼間でも薄暗い幕舎の中で、彼の赤い髪はややくすんで見える。

「──アンタ、自分がなんて呼ばれてるか、知ってんだろ」

その声も、酷く物憂げに聞こえた。もしくは、億劫に。
クルガンは自分が他人からどう見られようが、どう呼ばれようが、そんな事は気にしていないつもりだったが、確かに知らないと言う事はない。

「冷血な銀狼だ。わかるか、人間ですらねぇって言われてる」

長い前髪に隠されて、シードの表情は見えなかった。

人間ではない。
血が通っていない。
心がない。
機械だ。
──もう、真新しい言葉は掘りつくされて残っていない。
そんなものは既にクルガンにはどうでもいいことになっている。情緒を揺らす要素もない。

機械を機械と、獣を獣と罵った所で、何だというのか。無機物や野生に、人の言う事など通じはしないと、わかっているならば何故。

シードは声を抑えたまま呟いた。

「……なんでそうなんだろうって、アンタはなんでそうなんだろうって、今までずっと思ってた。それがわかった」

シードに何がわかったのか、クルガンにはわからない。
シードという男は、クルガンとは全く違う。似ている所を数えた方がその逆より余程早い。
熱い血の流れる、人間味の溢れる、真っ直ぐに声を張り上げて恥じない男だ。

思ったその通り、やはりシードは顔を上げ、クルガンを見据えた。
無遠慮とも取れる程の、直線。

「そりゃ、誰より先に自分で卑下してりゃ、お高い自尊心は守られるだろうよ」

シードは皮肉っぽく笑った。
クルガンは、彼のそんな表情を初めて見たと思った。

自分を人だと思ってないから、アンタはそこまで冷たくなれる」

シードはそう断定した。
クルガンはようやく返すべき言葉を見つけて、口を開いた。

「そうです」

よくわかりましたね、といって褒めてやれば良いのだろうか?しかしクルガンはそれを隠していたつもりはなかった。

軍人を志した時から、人の心は捨てている

いつもの自分の声だ。
聞き慣れすぎていて、既に特殊なものとは感じ取れないその平坦な声。

ただひとつを要求され、ただひとつの為に行動し、ただひとつを優先する。
ならば、迷う事はない筈だ。
少なくとも──迷いを見せる事はない筈だ。温い感傷に時折足をとられるとしても、見据えているものは動かない。

自分の芯が揺らがなければ、他の全ては素通りできる。
その、たった一つでさえ手に入らない事が、この世にはあるのだから。

もういいだろう、とクルガンは思った。
もう十分だ。理解し、納得したならそれで。

受け取ったままだったカップに口を付けると、一口含む。
ゆっくりと飲み下す。酷い痛みはない──とりあえず、我慢すれば動けなくはなさそうだった。

黙り込んだシードに向かって、クルガンは用件を促した。

「──話が済んだなら、報告をお願いします」
「……」
「本隊の現在地を聞かせてください。進軍しているならばその速度を──それともまだ、交戦中ですか」

くくく、と、喉で笑う声が聞こえた。

「人の心は捨てているだって?」
「その話はもう──」
「馬鹿馬鹿しい」

シードは指一本分の労力も使わずに、それを切って捨てた。
呆れた顔で立ち上がる。
見上げる形になったその男が、赤い髪を揺らして肩をすくめるのを、クルガンは全く他人事のように眺めていた。

唇をひん曲げて、シードは挑戦的に笑った。
彼に一番似合う、あの表情だ。

「オイ、スゲェ簡単な事訊いてやるから三秒で答えな」

簡単なことならば、クルガンは即座に答えられる。
例えば、何を切り捨て、何を守るべきか。
何が重要で、何をすれば良いのか──







「人間が機械になれるかよ?」












「たった一つだけで生きてけるかよ?」
「────」
「ホントに何も感じねぇ奴なんか、いない」