いつの間に自分の幕舎に戻っていたのか、イレイにはわからなかった。
ただ、機械的に己の職務をこなし続け、既に時刻は深夜だった。

各部隊長からの報告をまとめた結果を、右手が勝手に文字に書き起こしていく。
その途中、報告を携えてやって来た者は皆一様にイレイを見るとぎょっとした顔をしたので、イレイは今の自分の表情は酷いものなのだろうと理解していた。
それでもその前にやるべき事があり、頭と体、そして心とが完璧に乖離した状態で、イレイは仕事を続けた。

最早それは反射だ。
右と言われたら右を向くように、止まれと言われたら止まるように──軍人として刷り込まれたその通りに、イレイは自分の任務をこなしていた。

粉々に破壊された情緒は、どこかに飛び散ったまま今だ身のうちに帰っていない。
自分が何を考え何を感じているのかすら不明確だった。ただ、染み付いた習慣、規則の通りに体が動く。

部隊を仮に再編成する土台として、死傷者、行方不明者の確認をする。
殆どの場合、イレイは報告書に書かれたそれを隊ごとに仕分けし、最終的な把握をするだけだ。ひとりひとりを確認するのは、縦割りで繋がった直接の上官である。ピラミッド型の下から上へと情報は伝達されていく。

しかし、この場合はそういうわけにはいかなかった。
誰もその役割をするものが残っていないのだから、イレイがやるしかない。
それ程の労力は必要ではなかった。個別の認識などする必要が無いからだ。

その部隊の名前を書き、その部隊の隊長の名前を書いたとき、その文字が滲んだ。
イレイはその時ようやく、己が泣いていることに気がついた。








『死線』









報告書を片手に、イレイはきびきびと目的地を目指した。
どうやら幕舎まで歩く必要はないようだった。早朝の青い朝日を弾く銀髪を目指して、イレイは歩を早める。

接近に気付きこちらを振り向く灰色の瞳に気後れせず、イレイは携えた報告書を掲げて見せた。
朝の挨拶は省略し、明瞭に内容を告げる。

「……死傷者と行方不明者のまとめです」
「ありがとうございます」

しかし、イレイはまだその書類を男に渡さなかった。
代わりに、静かな声で質問をした。

「──まだ、戦うのですか?」
「ええ」
「やはり、どんな手段を使っても勝利を?」
「ええ」
「目的が、果されるまで……?」
「その通りです」

昼には新しい情報が入るだろうから、その結果によっていくつか行動のパターンを──そう続けた男の言葉を、最早イレイは聞いていなかった。
報告書を持った片手を差し出し、男へと歩み寄る。

書類を受け取るために伸びてくる手を避け、しかしすれ違い様にイレイは足を止めた。



貴様に、将たる資格などない



どっ



――――誰かが、息を呑んだ。
イレイが隠し持っていた短剣が、クルガンの腹部を深々と刺し貫いているのを見て。

一瞬、静寂が落ちる。

イレイは、ゆっくりと刃の柄から手を離した。
入れ替わるように、クルガンが自分の腹に手を遣る。銀将軍はいつもと変わらず、真っ直ぐその場に立っていた。

ぬめる、その赤。
自らの血に染まった手のひらを見下ろして、彼は何の感慨もないように見えた。

ばちぃっ

空気が切り裂かれる。
弾かれたようにイレイは一歩後ずさった。膨れ上がる雷気。
その場にいたすべての者の背に、悪寒が走った。
静電気が、産毛を逆立てている。

クルガンは、静かに口を開いた。

「……お前は、何の為に此処に来た」

ぼたり。思い出したように、クルガンの指先を伝って血が落ちる。

直後、イレイは蹴り飛ばされた。不意をつかれ、音を立てて泥の中に転がる。その体に、クルガンは近づいた。
冷えた目で見下ろす、黒衣の影。

「自分の価値観を語るためか?坊や、それならば議場へ行けよ」

いきなりの修羅場に、まわりの兵達は凍り付いたように動けない。
衆人環視を少しも気にせず、クルガンはイレイを踏みつけた。ごきり、と鈍い音がする。
誰にでもわかる──あばら骨が折れた音だ。

「ぐぅっ……!」
「間違えるな」

淡々とした、いつもの声音。

「此処ではお前の主張など誰も聞かない」
「―─だから駒は黙って動けと言うのか。大人しく犠牲になって死ぬのが役割だと」

ひび割れた声を喉から絞り出し、歯を食いしばってイレイはクルガンを睨みあげた。

「貴様は……貴様は、一体何様のつもりだ!?貴様に生殺与奪の権利があるとでも!」

何故だ。何故この男はこうなのだろう。
こんな事が許されるとでもいうのか?

「あいつは貴様に殺されるためにここにいたわけじゃないっ……!」

圧迫された胸部。イレイは苦しみながら叫んだ。ここで殺されるのは構わなかった。ただ、皆に示したかった。この男の罪を。

憎悪の視線、質量すら伴って身を貫くそれを、クルガンは気にも留めない。
軽く。羽のように軽く。全てが、塵芥のように。

「ああ、権利があれば殺して良いのか。知らなかった」
「何を……!」
「神にならお前は黙って殺されてやるのか?それならば」

その命。

「勝利の為でも良いだろう」

冷静。冷酷。冷徹。冷殺。冷然。冷血。冷厳。冷淡。冷涼。
正に氷の男だ。

こんな男のために、死にたくはない。イレイはそう思う。
クルガンの腹から、まるで当然のように溢れている赤い液体がおかしかった。血も涙もないと言われている癖に。

(将軍さんよ、こんなお前に、一体誰がついていくと言うんだ?)

イレイはクルガンの足を掴んで叫んだ。見ろ、この男の汚さを。

「……勝てば、それでいいと言うのか。いいや、勝利の為じゃない!!」

人の命を、先のない場所に投棄し、見捨てた。
その報いだ。飼い犬に手を咬まれた心境はどうだ。

唾棄すべき外道。
その身にあたう辱めを受けろ。

「認めろ、貴様の策のためにあいつは死んだ!!」

しん、と静まり返る空間。

クルガンは、ゆっくりと呟いた。
自分の足の下で藻掻く男を、まるで虫けらのように踏みにじりながら。

「……なあ、お前の友人の命に誰が責任をとれる?」

サンタさんはいるの?
一瞬呆気にとられるくらい、響きはそれに似ていた。
クルガンはあっさりと言葉を続ける。

「俺はとれない」

当たり前だ、と彼は言った。

「誰もとれない。喚くお前も同じだ、お前以外の誰がお前の命を。お前を」

息が詰まる。視界が真っ赤に染まる。
眼球が痛い。

「此処に連れてきたというんだ?」

何かと思ったら、落ちてくる血だった。
刃が刺さった、彼の身体から。

イレイは呻いた。苦しい。心臓の鳴る音が、耳の裏で聞こえる。
地についた背中に、泥が染みていく。
イレイは、クルガンの足を掴む手に力を込めた。詭弁だ、そんなものは。

「お前は何のために此処に来た。お前の友を連れて此処に」

クルガンの声だけが、その場に響き渡る。
憎しみや軽蔑すらこもらない、まるで魚のような視線が、イレイを見下ろす。

―――ぞっとする。
この男は、本当に。

「友が死ぬのが嫌か。使い捨てられるのが嫌か。情が顧みられないのが嫌か。非道な手は嫌か。犬死にも嫌か。更に言うなら、鬼畜が軍を率いるのが嫌か」

クルガンは一瞬だけ目を閉じて、いつものように一言で切り捨てた。

「くだらんな。それは、自分の心情以外には守るものがない奴が言う台詞だ」

イレイの見上げる視線の中、クルガンは自分の腹を貫く短剣を無造作に引き抜く。勿論、表情も変えずに。
今までの比でなく、空気に血の臭いが染みた。生々しい──生臭いにおい。この男から漂うのが不自然なくらいに。

「負ければお前の生まれた地が蹂躙される。お前の守るべきものが、だ」

ずしゃ、と。
血にまみれた刃が泥の上に突き立つ。

それが嫌だと。……只その為に、ここにいろ」

クルガンはイレイの上から足を退けた。
咳き込み、泥の上でえづく男にはもう目もくれない。

苦みが舌を刺す。砂利を吐き出すことも忘れ、イレイはなおも呻いた。
どれ程の厚顔さを持てば、こんな台詞が言えるだろうか。憤りが、内臓を焦がす。

その台詞を吐く当人が、何故生きている?

「貴様のせいだぞ……それなのに…何故……貴様が!」

許せない。イレイの全てが、この人の皮を被った化物を弾劾する為にあった。
兵を死地に送り込みながら、自分は生き延びた!口先だけなら何とでも言えよう。

「のうのうと生きている貴様はさぞかし偉いんだろう……!」

何で貴様は生きている。何故自分が死なない。
許せなかった。どうしても。
血を吐く思いで、イレイは叫ぶ。

「なあ、死んで見せろよ……!その言葉を吐きながら、何故……畜生!死ね!」

人ではない。貴様は人ではない。

「死ね……」

途切れ途切れの小さな声が、クルガンの背を追う。それは、もはや呪詛に近かった。
遠ざかろうとした黒衣が、足を止める。振り返りは、しなかったけれど。

クルガンの声は震えない。金属質で、温度もない。

「……お前は優しく、そして正しい」

それは、冷徹という声音ではなかった。
そのような感情にすら、染まっていない。

「俺よりも生きるに相応しいと認めてやろう。だが知ったことか」

クルガンは、ゆっくりと、しかしはっきりと、断言した。
クルガンにはわからない。正しさにどれほどの意味があるのか。他の何処でもない、此処で。

「お前が生き残るべきだったとしても、だから生き残れるというわけではないのだ。此処ではな」

クルガンはイレイが嫌いではなかった。その、自分には持ちえない高潔さ。
だが、見習おうとは思わない。嘆き、泣き、いたわり慈しむのは──
自分以外がやればいい。

「勝利に邪魔なら俺を殺せ。だが、敗北に邪魔だというなら殺されるわけにはいかん」

最後に、クルガンはそう言った。

戦場(ここ)に正義を持ち込むな。思想は言い訳に過ぎない。理想は、死者への手向けだ」

何も無い。
この場を、真実正当化する理由は何も無いのだと。


優雅に、三歩を歩いた。
そしてゆっくりと、崩れ落ちた。






















大義など幻想だ、知っている。
くだらない、無意味な馬鹿騒ぎ。それでも命を引き摺ってここに居るのは何故だ。

膜を破れば溢れ出るのは薄汚い肉片と臭い血液、獣に近い殺意の衝突。
結構、それでも優先したいものが有る。

クルガンは、焦点を合わせる努力を放棄した。
この上見たいものなどない。無様な姿、そして惨めな舞台。

我を張り通して、生きていこうと思っていた。
そんな我侭にこれ以上道連れを作らなくて済むなら、良い方じゃないか。

自分が否定されることは怖くない。
この傷も痛くはない。


ああ、こんなつまらない終わりかた。痴情の縺れの末に刺されるより馬鹿らしい。
――――だが別に、構わない。







誰も駆け寄らなかった。
泥に浸かったスカーフが、その潔癖なまでの白さを失っていった。