『死線』







翌々日の昼、皇国軍第四軍第二師団三千二百名余は、同盟軍約一万と対峙した。

圧倒的な戦力の差、囲まれれば瞬時に叩き潰される。
当たり前のことだが、ぶつかるにしても相手に遊兵を多く作り、こちらはなるべく多くの者が戦闘に参加できるようにしなければならない。全力対全力では、負ける道理だ。

勿論、今現在も地形を利用してうまく立ち回ってはいる筈だが、一瞬たりとも気は抜けなかった。

「くっ──レイルズ!ロウ!逸るな!」

イレイは額ににじむ汗を拭う間に叫んだ。
まだ迷いは消えない。

クルガンの理屈は、わからなくもない。
イレイが最終的に納得したのは、まさか、クルガンが見込みの無い作戦は立てないだろうという信頼からだった。

負けるわけにはいかないと彼が言い、その上で留まる選択をしたのならば、きっと負けはしないのだろう。
イレイの知る上官は徹底した合理主義者であり、確実に無理だと判断しているならば無駄な事はしない筈である。それ故に、ここで四千名の兵を使えば同盟軍を足止めできると踏んで抗戦の決断を下した事は間違いない。

だから、と言うほどに納得できているわけではないのだが──

「!」

前方で大きな鬨の声が上がった。
破られたか、と心臓が跳ね上がったが、まだ戦線は維持されていた。知らず深い溜息がこぼれる。互角の戦いが出来ているのは、前線が軍が展開するには狭い場所でぶつかっているからだ。

背中に冷や汗をかきながら、それでもイレイは号令を飛ばした。戦場での直接の指揮は苦手だが、せめて、自分に任された仕事──最終防衛線の維持くらいはこなせねば仕方がない。クルガンは陣頭指揮をしている。





まず、皇国軍は部隊を大まかにふたつに分けた。本隊約三千二百、分隊約八百。
本隊は簡単には切り崩せないように攻め難い場所に配置し、僅かながら拮抗状態を作る。その間に、敵の側背面に回りこませていた分隊が攻撃を仕掛けるという作戦だった。

──通常、兵数の少ないほうが更に戦力を分散するのは愚策である。
挟撃は有利には違いないが、それは一定数以上の戦力があってこそであり、反撃されればすぐさま掃討されるような脆弱さでは敵の好餌にしかならない──戦力が分散すれば、すぐさま各個撃破するのが常道であり、理にかなっている。

つまりこの場合、戦力に余裕のある同盟側としては、まずはこの小煩い鼠部隊を包囲殲滅し、その後でゆっくりと本陣を力で押し切れば良かった。それが一番人員の浪費が少なくて済む賢いやり方だ。

イレイが敵の指揮官ならば、主力部隊に対する人員は残し、どうしても出てしまう遊兵を分隊へ向かわせるだろう。千に千で対抗しては相討ちになるが、千を五千で囲めば五千の側には殆ど被害は出ない。

拮抗状態が続いている今、後背を突かれないように半分をその場に残し、もう半分で速やかに分隊を蹴散らす。更なる伏兵を懸念する慎重な将でも、伏兵を懸念すればこそ、これ以上の分割はしない──例えば五千、二千、三千などに分ければ、一番小さい部隊が狙われるからである。
兵法の基本は、一重に数の多いものをもって数の少ないものにあたるということなのだ。最速を持って最小を撃破し、自軍の消耗は少ないまま敵軍の戦力を削る。これを繰り返すだけで戦には勝てる。

──その定石こそ、皇国軍の付け込む隙だった。

今、皇国軍本隊は、狭隘な地を利用し一面のみで同盟軍と戦い、何とか拮抗状態を保っている。
そう判断した同盟軍は──判断もなにもその通りではあるのだが──余っている遊兵を、取り囲みやすい分隊のほうに差し向け速やかに叩き潰そうとするだろう。勿論本隊に対する攻め手は緩めず、四、五、六千の兵(これは指揮官の性質に左右されるが)を残して。

まだか、まだか、まだか?

「……!」

イレイの気は逸った。

空を見上げるが、合図はない。
早すぎてはいけないことはわかっている。敵が完全に二手に分かれるまでは、この状態を維持しなくてはならない。
しかし遅すぎれば、このままこちらが力尽きる。

(まだなのか……!?)

幾度目かそう思った瞬間、空を切り裂くような音と共に、紫電が前方で弾けた──クルガンの雷撃球だ。
イレイは声を張り上げ、周囲に命令した。

「よし、退け!」

──追撃。それが一番兵の勢いが苛烈になる時だ。
撤退する兵を追い、逃がさないように後ろ首に喰らいつく。

その通り、同盟軍は退き始めた皇国軍を追い、そればかりか分断せしめる勢いで突進してきた。
猛追というに相応しい。今までの膠着状態で溜まっていた鬱憤を晴らすかのように突撃してくる。

「退け──ドールグ、遅れるな!急げ!」

そして、ここが指揮官の腕の見せ所であり、整然とした規律による訓練を重ねた皇国軍の、精密な動きを活かす場面なのだ。

つまり──一丸となって突進してくる同盟軍の勢いに押されて分断されるように見せつつ、退きながらU字型に展開して敵を包み込み、全方位からの攻撃を行う。
こちらの遊軍が0になるのに対し、相手は味方が邪魔になり動けるものは一部分になる。かつ、横合いもしくは斜め後ろからの攻撃に対処せねばならない。

「今だ反転……総攻撃!!」

無論、言うほど易しくは無い。
何せ、体勢的にいくら有利だとは言ってもそもそもの絶対数が違うのである。そして何より、相手の突進を制御できなければその場で総崩れである──U字の底が抜ければ、分断されて終わりだ。

「堪えろ!突破させるな……!」

この突撃を支えきれなければ、待つのは全滅である。皇国兵は死に物狂いだった。
イレイは声を限りに叫び、兵を鼓舞した。宿した土の紋章を手の甲が焼ききれる程に酷使し、その場に踏み留まった──敵と、そして味方とが、ばたばたと倒れるのを眺めながら。

本当の絶望が訪れるのはこの後だということを、知りもせず。






+++ +++ +++






「──野営地へ退却する」

よく通るその声に従い、皇国兵は疲れた体を引き摺って動き始めた。
その中で、イレイは一人立ち尽くした。

「……退却?」

そんな筈はない。
だって、まだ──

帰って来ていないのだ。

「クルガン様……!?」

その声は聞こえていたのだろうか。
黒衣の将は、血のついた剣を拭って鞘にしまうと、イレイの体と心が向いているのとは逆の方向に進んだ。






+++ +++ +++






日が落ちた。

──本隊の損傷率は約四割。散々に痛めつけられた、といっていい数字だ。
同盟軍の損害は約三割といった所だろう。純粋に死傷者数から言えば、向こうの方が二倍程多いが──それより重要なのは、混乱した軍の再編成に時間を費やすであろうと言う事だ。
皇国軍が何より欲しているのは、その時間なのだ。

勿論、こちらも編成はしなおさなければならないが、それは向こうに比べれば随分と簡単な気がした──何故なら、こちらには、もう、一塊の軍勢しか残っていないのだから。

疲労困憊の極地にある筈だったが、体は何も訴えなかった。
頭の奥が凍りついたような感覚を引き摺ったまま、イレイは無言で指揮官の幕舎に入り込んだ。

いつものように、整然と整えられた室内。
いつものように、ゆっくりとこちらに振り返る銀髪の男。

視線が合う。
そのまま、多分何秒間かは無言だった。クルガンは用事を問う事をせず、イレイもしばらく口を閉ざしていた。

幕舎の外では、忙しく動く兵たちの声や、足音、具足のがちゃつく音が聞こえている。とても近い筈なのに、全く違う世界に切り離されたように、この空間は静謐だった。

イレイは、低い声で問いかけた。自分の何処から出ている声なのかわからなかった。


「──何故、リリィの部隊は帰って来ないのですか」


獣油の満たされた、頑丈なランプの明かりが揺らめく。
その中で、影すら硬質に見える男はその印象と同じ答えを返した。予想していたのだろう、全く躊躇なく。

「予定通りです」

イレイは口の中でその言葉を反復した。
予定通り──予定通り、か。

予定通りに、何なのだ?

凍りついたように動かない自分の副官を目の前にして、クルガンは揺らいだようには見えなかった。

「元から──帰還は予定されていなかったのですか?」
「ポジティヴ。あの部隊の役目は、同盟軍を引き付け、出来るだけ逆走させることでした」

何故、既に過去形で言うのだ?
──何故、平気な顔で、言葉を続ける?

「逃げ切ってもいけないし、こちらに帰って来てもいけない。少しでも敵の戦力を削りつつ、同時に深く追わせる……帰る道など元から考慮の範囲外だ」

確かに、難しい任務だ。並みの腕では不可能だ。
普通なら即座に掴まって叩き潰される。それを恐れて離れすぎれば囮の役割は果せない。

成功しなければ、皇国軍はとっくに壊走していただろう。

そうではない──自分が言いたい事はそうではない、とイレイは思った。頭の中で他人が喋っている感覚だった。

「つまり──あの部隊は──あいつは──」

最初から──切り捨てられて──クルガンの、優先順位通りに?

「捨て駒だったのですか?」

単語が喉につかえて、流暢に出て来ない。
目の前の光景がまるで夢のようだった。自分の立っている場所がわからない。

「本隊の勝利と引き換えに、全滅するのが、役割だったのですか?」

からからに乾いた喉は、動かすだけで酷い摩擦を生んだ。
けれども、黙っているよりはまだ心地良い感触だった。

クルガンは真っ直ぐイレイを見ながら、けれど何の感慨もないようだった。
その唇が開き、いつものように綺麗な発音で、イレイに事実を伝える。

「ええ、そうです。こう言い換えればわかりやすいですか?」







国の為に死ね







「そう命令(オーダー)しました」


イレイは、自分の中で何かが決壊したことを理解した。