『死線』








「軍人の行動原理は、国益を守ることに起因します」

クルガンは一瞬の停滞もなく答えた。
辞書で軍人の項を引いたらこう書いてありますよ、と言った教科書回答だ。勿論、リリィはその答えは予測していた。

国の発展とまで大風呂敷を広げずとも、少なくとも、国防や民間人の擁護を口に出さない軍人は今までいなかった。建前か、本心かは別として。
重要ではあるが、言うだけならば無味乾燥な言葉だ。リリィは次の段階へ進んだ。

「――では、大佐は何故軍人になったのですか?」

この質問にも、帰ってくるのはやはり類型的な答えだろう。
ただ、言葉よりも、答える様子が見たかった。その信念の強さを測るすべとして、リリィはいつも直接上官にこの質問をぶつけるのだ。

自分達が剣を振り、命を盾にするその理由を、見据えているかと。

「……」

クルガンは、今度は即答しなかった。それだけの事が少々意外に思えて、リリィはクルガンに重ねて問いかけてしまう所だった。まさか、聞こえていないと言う事はあり得ないと言うのに。

銀髪の男はゆるりと視線を上げると、リリィを見据えた。その目からは、彼の内心は推し量れなかった。
徹底的に無感動にも見え、何かに厭いているようにも見え、真剣に考え込んでいるようにも見えなくはない。

リリィは心の中で数を数えた。百秒が経ち、二百秒が経った。
気まずい事この上ないなと思いながら、これはもしかして無視されているのかと、そこまで考えが及んだところで、ようやくクルガンは答えを返した。

「すみません」
「え?」
「……わからない」

クルガンはそれだけ言うと、また目を逸らした。と言うよりは、リリィの存在を壁や扉や机と言ったものと同化させた。

リリィは一度両目を瞬かせた。そして、次の言葉を探したが、適当なものはあまり見当たらなかった。

わからないとは、質問の答えとして初めてだった。
たとえ今の今まで本気でそれについて考えた事がなかったにしろ、他に選択肢がなかったにしろ、別に特別な返答をしたところで得点がつくわけではないのだから、とりあえずこう答えておけば良いのに。
愛国心と。

それについての個人個人の真剣味は別として、誰に責められることもない真っ当な、そして模範的な答えだと思う。
例えば親兄弟、友人を守りたい。生まれた地に愛着がある。軍人になったものの半分は即答にしろ熟慮の結果にしろ、この動機を口に出すだろうし、そう言って恥じる者もいない筈だ。

無論、それ以外の選択肢がないから軍人になった者もいるだろう。
困窮や窮乏によって、もしくは他の職業には就けぬ性質だったか、家系か、あるいは――少数だが、戦い自体を好む人間だとていることをリリィは知っている。
ならばそれはそれで、そう言えばいいし――もしもリリィの印象を損ねたくないというのならば、嘘を吐いてもいい。

どうにでも取り繕いようはある筈だ。だが、クルガンはそうしなかった。
答えたくなくて茶化すつもりならばすぐにそう言っただろう。しかし、クルガンは二百秒以上も費やし、その上で切れ者という評価をかなぐり捨てるような返答をしたのだ。

はっきり言って、この答えでは上官の人となりを知るのに十分とは言えない。混乱を招いただけだ。
意図を測りかねて、リリィは問いを重ねた。

「……この国を守るのは、この国が好きだからではないのですか?」
「――」

クルガンはまたも答えなかった。
リリィが上官に対する印象を再評価しているうちに、クルガンは問いを返してきた。

「中尉。貴方はこの国が好きですか?」
「は、ええと……ええ」

面と向かって聞かれると結構照れるものだな、と思いながらリリィは答えた。
そうですか、とクルガンは頷いた。そして続けた。

「……私は、この国の在り方を美しいと思った事はありません」
「――――」

クルガンの表情は全く変わらなかった。

「軍事国家だ。搾取でしか生きていけぬ国だ。しかも、油断すればいつでも飲み込まれる不安定さだ」

冷えて淡々とした声がリリィの耳を射る。
確かに、クルガンの言葉は一面の事実を捉えていた。

「ハルモニアにとっては都合の良い盾代わり、同盟にとっては憎き暴虐な剣。さっさと折れればいいと思っている者は沢山いるでしょう」
「――」
「……美しくは、ない」

リリィは同じ問いを繰り返した。

「ならば、何故……?」

だが、リリィは心のうちでは既におぼろげに理解していたのかもしれない。難儀な人物だと。
何故、クルガンが「わからない」と答えるしかないのか。その理由は――多分。

こんこん、というノックの音が沈黙を切り崩した。

「失礼します」

扉が開き、黒髪の青年――クルガンの副官であるイレイが行儀良く入室してきた。

リリィの姿を確認すると、イレイはその黒い瞳を細めて見せた。クルガンの元に書類を提出し二、三指示を仰ぐと、振り返る。

「お久しぶりです、リリィ中尉。お変わりないようで」
「そちらこそ、お元気そうでなにより。これからよろしくお願いします――イレイ中尉」

二人が当たり障りのない挨拶を交わしたところで、クルガンがその場を切り上げた。
退出の許可を貰い、リリィとイレイは廊下に出る。

扉を閉めて二、三歩――微妙な空気が続いたのは、そこまでだった。
イレイの表情が変わり、リリィの肩が落ちる。

イレイは意地の悪い微笑を浮かべると、同僚と言う事になる男の横に並んだ。

「例え他軍からの異動でも、名前を聞いただけでお前だとわかったぞ」
「……それはあれだな、良い話に聞こえるけど実は単なる嫌味だ」

丁度昼食時も近い。二人の足は自然と仕官食堂へ向けられる。
軍団が離れてしまえばそうそう話をする機会も、そもそも顔をみる機会すらない。少々足取りが軽くなっても、それは仕方の無いことだろう。

「まあ、とにかくだな――久しぶり、イレイ」
「ああ。お前の活躍は聞いていたが……シエグに行っていたんだって?」
「行っていたというか行かされたというか。聞きしに勝る自然の猛威だった……遭難者まで出てなぁ」
「見つけたんだろう」
「そりゃ見つけたけどな。もう一生雪は見たくないと思ったよ」
「無理だな」
「そうなんだよなぁ……ああ、これが嫌がらせって奴なんだなとしみじみ痛感したよ。靴に入ってる画鋲なら儲けたで済ませられるんだが」
「仕方ない。お前を面と向かって苛められる奴はいない」
「噛み付きゃしないのに」

大げさに肩をすくめて、背筋を丸めても、リリィの目線はイレイよりも高い。
何をどうすればこんなにひょろ長く育つのだろうと考えてしまうくらいだ。

「で、こっちに回された顛末は何なんだ?」
「左遷みたいに言うなよ、自分の職場だろうが……俺としてもな、これは好意なのか悪意なのか判断が付きかねているけれども」
「どちらともとれるな。まあ、俺に言わせて貰えばそんなに悪くない異動だと思うぞ――クルガン様をどう思う?」

リリィはちらりとイレイの黒い頭を見下ろした。

「……まあ、お前が様付けしてるくらいだから無能じゃない事はわかる」
「印象は?また例のテストをしたんだろうが」
「なんだ、それが聞きたかったのか」

リリィは顎に手を当てると、しばし考えた。

「……悪い人魚姫みたいな人だな」
「……………………………………………………」

大分長い沈黙の後、イレイはやっと自分を取り戻した。

「すまない。聞き間違いかと思うのでもう一度」
「悪いにん」
「もういい皆まで言うな!」
「どっちなんだよ」





+++ +++ +++





「なっ……何故ですか!?」

せっかく拾い上げていた紙くずを取り落とした事にも気付かず、イレイは上官に詰め寄った。
撤退しない、と言うクルガンの言はイレイにとって全く予想外であり、それ故に動揺も深かった。今まで、この上官がそのような理にかなわない事を口に出す事は一度としてなかった。

「今なら安全に撤退できます!彼我の差は少なくとも二倍以上です、それとも――この劣勢を跳ね返す策がおありなのですか?」
「そんなものはない」
「クルガン様……?」

クルガンは溜息を吐くと、デスクの上から仰々しい封蝋付きの礼状を取り上げた。

「……それは?」
「作戦本部からの命令です」
「……撤退の指示ではないのですか?」
「その逆だと思いますが」

クルガンは気の無い様子で言うと、それをまた元の場所に戻した。そしてこう続けた。

「―─何故私がいつまでもこの礼状を開かないのかわかりますか」
「は……?」
もしも撤退命令だったならば無視する為です。退却は出来ない」

イレイにはわけがわからなかった。
今まで、多少なりとも理解していると思っていた筈の上官の内心が全く読めない。
ただ、クルガンの行動が酷く自分勝手なものだと言う事はわかった。この軍を使って、一体何をしようと言うのだ。

「説明を――!」
「……リリィ大尉を呼んでいただけますか」
「クルガン様!」

イレイは退出せず、上官の前に立った。
納得がいかないにも程がある。何か考えがあるにしろ、それを聞かなければ飲み込めるはずがなかった――自軍四千の命を預かる指揮官の、合理的とは思えない行動だ。

「……何かお考えがあるのなら、話して下さい。でなければとても承知できません」
「――――」

クルガンは何事か思案しているようだった。
イレイは必死に自制して待ったが、返された答えは十分とは言えなかった。

「……戦術的には、貴方の提案が正しい」
「戦術的には?」
「戦略的にも正しい――ここで退けば、ここで戦うよりも皇国軍全体の損害を抑えることが出来る」
「ならば道はひとつでしょう……!?」

クルガンは答えなかった。

「クルガン様!」
「――国益とは、一体何を指して言うのか考えた事がありますか」

イレイは苛立ちを隠さず、首を振った。
そんな事が聞きたいのではない。

「誤魔化さないで下さい、私は今――」
「皇国兵の命も国益でしょう。ただ、私はそれよりも重視すべきものがあると考える」

どちらかしか選べないのなら、切り捨てる方は決まっている――クルガンはそう続けた。
机の上に投げ出された書物を、ゆっくりと棚に戻しながら、クルガンはイレイに背を向ける。
黒衣のその裏側の真意が、イレイには見えない。

「少なくとも、ヒースバレイよりこちらに援軍が来るまでは、退きません」
「不可能です!明らかに我が軍が全滅する方が早い――聞いているでしょう、サウスリーレ方面から同盟軍本体が進軍している事は!こちらまで援軍が来るにしろ、それを片付けてからの話です、最速でも七日はかかる、間に合うわけがない!」
「そうかも知れない」

クルガンは淡々と言った。
そこで、イレイはこの上官の意思が動かない事を何度目か確認する事になり、焦燥と苛立ちの中立ち尽くすしかない自分を自覚した。

「一瞬で蹴散らされるかも知れない。そうなればこの決断は無駄、それどころか害悪でしょう。四千名尽く戦死、同盟軍はその屍を乗り越え迅速に進軍する」
「そこまでわかっていながら、どうして最善策を採らないのです!?何故この場所に拘るのですか、貴方がそんなに無駄なことに拘泥するとは――」

冷静な声が、助言を拒絶する。

「国内を戦場にしない為だ」

クルガンは優雅な動きで、しかし効率よくデスクの上を整理すると、副官に向き直った。

「それは退いては果せない。即座に全滅しても果せない」
「無理です!」
「負けるわけにはいかない。――リリィ大尉を呼びなさい」