乗り捨てた筈の軍馬が、逃げずにその場に留まっていたのを発見したとき、シードはこの先一生この馬だけは見捨てないと誓った。
クルガンとの、彼をシードが背負う背負わないという押し問答を続けるのに疲れ果てていたからである。
『死線』
闇の中。
シードは馬の手綱を引きながら、クルガンにとっては無駄だろう話を、様々な話を──した。
返事があれば、彼がまだ生きている証明になるからだ。
途切れ途切れに、シードは思いつくままに喋った。
余り間が持たないのは、シードの考えが纏まっておらず、脳を使う余裕もないからだろう。その代わりシードは、自分が酷く疲れていたことを思い出していた。一体何日眠っていないのか?
浮かぶまま、台詞を口に出す。
「──そう言や、アンタが息荒げたところ、初めて見たぞ」
「珍しいだろう」
「自分で言うなっての」
三歩歩いて、問いかける。
「──なんで、あーいう喋り方してたワケ?」
「そうでないと驚くだろう?」
「それはそれはご丁寧に、わざわざご自分のイメージを作って下さりましたかドーモありがとうゴザイマスぅ」
七歩歩いて、また問いかける。
「なあ──」
「──何が言いたい」
何って、とシードは言葉を切った。
聞きたい事は色々とある。ありすぎて、結局どうでも良いことばかりが口を突いて出る。
「──手、どうすんの」
クルガンはあっさりと答えた。
「義手でも作れば良い。手袋をしていれば目立つまい」
「またそんな簡単に……」
「ソードブレーカーでも仕込めば、多少は役に立つだろう」
「……あっそ」
シードは軽くそう言うと、馬の手綱を握りなおした。
失われたクルガンの左手のことを、彼自身はあまり気にせず、すぐに忘れてしまうかもしれない。誰にもわからないうちに、誰にもわからないように何でもない顔をして──かつての左手で出来た事を全て、右手でこなしてしまうに違いない。
だが、シードは覚えているだろう。きっと、ずっと。
「……どうすんの、これから」
「これからとは?」
「色々あんだろ、副官の事とか、本部への言い訳とか、それから──それから、つまり」
続きはやはり言えずに、シードは言葉を飲み込んだ。
自分のざまに、眩暈すら感じる。きっと、初恋の女の子の前でだってこんなに緊張はしないし、親友と喧嘩をした時だってこれ程居心地悪くはない。
「……発覚しなければ良いのだろう」
「は?」
シードには聞き覚えのある台詞だった。
「敗戦は誤魔化しようもないがな、それ以外は何とかなる──例えば」
クルガンの声は小さく、だが、夜の闇に掠れはしないようだった。
馬の足音とシードの足音、そしてひそやかな呼吸と、クルガンの静かな、色のない声。
足は鉛どころか鉄球でも引き摺っているように重かったが、この空気は嫌いではない。今、寝台に体を投げ出し枕に顔を埋めるよりも、きっとシードはこちらの世界を選ぶ。
「お前が散々に罵倒してくれた俺の部隊だが、都合が良い事もある」
「は?アンタが倒れちゃ何も出来ない首振り人形揃いが何だって?アンタを置いて逃げろって言う命令にだって従うんだぞ、どうかしてる」
「お前のような奴が揃っているより余程使い易いがな。つまり、俺の命令には絶対に逆らわないのだから──」
クルガンは一呼吸置いて、すらすらとのたまった。
「副官との外聞の悪い刃傷沙汰も、伏せておく事が可能なわけだ」
シードは何か言いかけ、口を二、三度開閉させた後、大人しく閉じた。
「……参考までに聞くけど、アンタどんだけそうやって色んな事揉み消して来た?」
「数えている程暇だと思うか?」
シードは軽い溜息を吐いた。
「──造反されたら終わりじゃねーか」
「…………」
「今まではどうだったか知らねぇが、アンタ、相当憎まれてるぜ。わかんだろそれくらい」
クルガンは黙り込んだ。
そんな反応が返ってくるとは思っておらず、シードは内心酷く焦った。
そして急いで何か言葉を探して、その結果よりによって致命的なものを選んだ。急いてはろくな結果にならないのが世の常である。
「……何があったんだ?」
口に出してしまってから、シードは自分が更なる地雷を踏んだ事に気付いた。
断片の情報からでも、容易に組み立てられる予想図はあったのだ。勿論、当事者にしかわからないことはあるのだから、真相は異なるのだろうが──部外者がむやみに触れないほうがいい、そうシードは判断した。
「いやホラ、アンタら、上手くやってたろ、俺は何も知らないからさ、何で急にそんな事になったのかとかちょっと疑問に思っただけで、いや、単なる興味本位だから答えなくていいし、えーと何つーか」
早口になるシードを遮って、クルガンから素っ気無い答が投げて寄越される。
「──痴情の縺れだ」
がくん、と馬が酷く揺れたので、クルガンは付け足した。
「嘘だ」
「キャラと違う冗談飛ばすなっつってんだろ……!」
ぎゃあぎゃあとシードが喚き始め、ひそりとした闇は途端にその温度を変えた。
クルガンは馬に揺られながら、傷の痛みを感じながら、それでも悪い気分ではなかった。
しばらくシードを無視していると、彼も一人で騒ぐのに飽きたのか、大人しくなった。
ぽつりぽつりと、クルガンにとってはくだらないことを呟いている。
何とはなしにそれを聞きながら、クルガンは目を閉じた。
「なあクルガン」
「…………」
闇の中でも、火がついたように鮮やかな声。
「俺さ、アンタに姓をやるって言っただろ」
「…………」
「思い出せよ!つーか寝るな、落ちんぞ」
クルガンは思い出してはいた。反応するのが億劫だったので黙っていただけだ。
「……俺の名前をやろうか」
名案だとでも思っているのだろうか、シードは自信満々にこう続けた。
「クルガン・シード。語呂は悪くねぇよな」
この男は真性の馬鹿だ。
そうクルガンは理解し、気絶したくなった。が、返すべき言葉を返さなければ取り返しがつかなくなると判断し、取り合えずなすべき事をした。
「つーかアンタ瀕死で紋章使うなって!わかったよただの冗談だから!」
「……死刑に値する冗談だ」
「アンタの冗談も似たようなモンじゃねーか!」
「許しがたく違う」
もうすぐ、フラベルグ川に到着する。
「……オイ、クルガン?」
「────」
「やっぱ気絶してんじゃねーか……どうにかなんねえの、この強情な性格」
そしてその流れを、きっと越えるだろう。
+++ +++ +++
名を呼ばれ、クルガンはゆっくりと進み出た。そして、跪く。
既に絶対の王の威容を持つ、この国の若き皇子の前に。
ルカは無表情に呟いた。
「──貴様の小賢しさは、多少は使えると思っていたがな」
クルガンは答えない。
怒気に当てられたか、周りの侍従どもの身が僅かに震える。
戦場の最前線に立ってさえ、これ程の恐怖は覚えまい。
その場の存在全てを畏怖させ、無条件に従わせる。
彼の気配とはそういうものだった。
「俺の為に敵を留めておく事も出来ず、逃がしたか。来てやった甲斐もない」
俺の為に、と言った、ルカのその言葉にきっと嘘はない。
ルカはひとりでも多く同盟の人間をその手で屠りたかったに違いないのだ。「同盟の」と限定するのはおそらく周りの者の希望なのだろうが。
表情を消した彼は、外見だけを、その顔のみを切り取って絵に描いたなら、貴公子とも言えたかも知れない。
だが、彼が彼である限り、その獣のような眼光と鬼気が取り払われることはなく、安らいだ雰囲気を醸し出すことは僅かもなかった。例え首ひとつになったとしても、ルカは周りの者を畏れさせ、跪かせるに違いない。
「それどころか貴様は預けられた兵を半分も失い、無様に逃げ帰って来たわけだな──半端者めが、面を上げよ」
クルガンは無言のまま、顔を上げた。
一段高い所から見下ろすルカと、視線を合わせる。クルガンもまた、無表情だった──これは常と同じであるのだが。
「──何を考えたかはわからぬでもないが、俺がそのような考えを嫌う事くらい知っていような」
クルガンはまだ、答えなかった。
左右に分かれて控えている文官、武官の視線は冷酷なものだ。所詮、敗残の将など犬の肉程の価値もない。
そして、彼の右斜め後ろに控えたまま、黒い瞳もまた、温度のない眼差しをクルガンに向けていた。
「申し開きは」
「御座いません」
ルカは腰掛けていた椅子から立ち上がった。
一歩、足を踏み出す。空気が悲鳴を上げたか、重みに屈したか──控えていた兵士の頬を、汗が伝った。
ルカに、容赦という文字はない。
「貴様は将として無能を示した」
「affirmative」
「利き腕を失い、兵士としても不足」
「──affirmative」
「ならば何が残る。俺が貴様を飼っておく理由があるか」
クルガンの前に立ち、ルカは剣を抜いた。
陽光を反射する刃に、クルガンの顔が映る。
「────」
クルガンは、刃ではなく、ルカの顔を見詰めた。
「それは私が判断する事ではないかと」
誰かが小さく喉を鳴らした。
クルガンの受け答えは、彼の渡っている綱に自ら切れ目を入れる真似に思えたからだ。確かにそれは真実かも知れないが、もう少し言い方というものがある筈だった。
ルカは、そこで初めて笑みを浮かべた。
「──減らず口が残っていても仕方あるまい」
「────」
「貴様は、俺の為に死ねるか?」
クルガンの返答を、誰も疑ってはいなかった。
おそらく、クルガン自身を除いては誰一人。
クルガンは言った。
「negative(」
静謐に、しかしはっきりと。
死の温度に、まさしく晒されながら。
「殿下の為に死ぬ事は望みません」
「良く言った無礼者。そして──愚か者め」
僅かに身を引いたが、回避出来るわけもない。
ルカの剣が、クルガンの体を袈裟掛けに切り裂いた。瞬きも挟めぬ程に見事な一太刀。
「────っ!!」
その閃光はクルガンの右の肩口から左の脇腹に抜け、赤い液体を振り撒いて、銀狼にも血が通っていた事を皆に知らせた。
「これで、不敬の罪は不問に処そう」
ルカは剣を一振りして血脂を飛ばし、興味を失ったのか身を翻した。
倒れ付したその体に、静かな足取りで、誰かが近寄った。その他には、誰も動かなかった。
+++ +++ +++
目を開け、見えたのは地獄ではなかった。
幕舎の天井だ。
「────」
クルガンは本当に驚いた。
目を瞬かせ、現状を把握する。全く、誰より自分が一番呆れてしまう。
あの死線に晒されてさえ!
「……俺は、本当にしぶとい男だ……」
知らずこぼれていた言葉に、答が返った。
「ホントにアンタ、しぶとく馬鹿だ」
咄嗟に視線を流した先に、苦虫を口一杯どころか耳の中にまで詰め込んだような顔。
強烈な既視感を覚えた。
この赤い髪の男はいつの間に、何年も前からそうしていたような顔をして、クルガンの視界にのさばっている?
「──シー」
呼びかけは途中で遮られた。
「黙れこの野郎。俺の名前を呼びたかったらちょっとは進歩しやがれボケナスが……!」
「……茄子」
クルガンは思わず反復した。生涯で初めて投げつけられた類の形容だ。
シードは据わった目で怒鳴った。
「アンタ何回人を驚かせたら気が済みやがる、人間ビックリ箱でも狙ってるのか止めとけ全然笑えねぇしつまんねぇし売れねぇから!上手く誤魔化して帰ってくるかと思ったらまた血まみれで運ばれて来やがって、この馬鹿、阿呆、餓鬼、間抜け、厚顔、変な所で馬鹿正直、潔癖、スカしてる、格好付けてる、厭味、考えなし、器用貧乏、老け顔、詐欺師、冷血、後はなんつーかとにかく大馬鹿、畜生、全然言い足りねぇ……!」
全くどうでもいいようなことまで並べ立てたシードの言葉はとうとう途切れたが、クルガンは彼に足りない分を促した。多分、この男にはそれを言う権利がある。
「それから?」
「生きろ!」
罵倒と同じ勢いで返された言葉に、クルガンは大人しく頷いた。
今度ばかりは、彼の言っている事が正しい。
「……そうしよう」
シードはまだ何事か喚いていたが、クルガンは拘泥せずそのまま再び眠りに落ちた。
皇国歴二百二十一年十月 同盟軍による侵攻
第四軍第二師団クルガン少将敗退 降格処分
同所属リリィ大尉戦死 二階級特進
『死線』:END