「……だが俺は、精神論は嫌いだ」

クルガンは何処までも頑固だった。
シードは、今までの押し問答はなんだったのだと思わず記憶を辿ってしまった。

「あのなぁ」
「これはあくまでも予想なのだが」

予想というには余りに確信のある口調で、クルガンはこうのたまった。

「多分お前よりも俺の方が数の計算は得意だ」

嫌な予感がしたが、シードは取り合えず大人しく拝聴しておいた。

「俺と二人では助からないが、お前一人ならば助かる。多少なら足止めも期待してくれていい」
「──何が言いたい?」
「ひとりで行けという事だ」

クルガンはあっさりと同じことを繰り返そうとした。
シードの説教は全く役に立っていないらしい。虚脱感を覚え、シードは座り込みかけた。一体何処まで手が掛かるのだろう?

クルガンはシードの思考には気付かずに、言葉を続けた。

「俺は憎まれているし、一応将軍位を拝命している。連れ立っては逃げられん」
「ついでに現在、走れもしない役立たずっぷりを披露するだろうしな」
「黙れ」

シードは溜息をついた。

「アンタは自分の方が賢いつもりだろうがな、俺にはアンタにゃ見えないものも見えてんだ」
「何を言おうがこの場は──」
「選択肢はもう一つあるぜ」

自信に満ちた声が、クルガンの論理を遮った。

「それはな、『追手を全部片付ける』だ」

一瞬でも期待してしまった自分は馬鹿だとクルガンは反省した。








『死線』








「じゃーん!」

シードは得意げに手甲を外し、クルガンに左手をかざしてみせた。

「格好いいだろ。烈火の紋章だ」
「……」
「あ、豚に真珠とか言ったら張っ倒すぞ」

それを言うなら気違いに刃物、の方が表現として正確な気がしたが、クルガンは黙っていた。

「……お前の魔力で、『最後の炎』を発動出来るのか?」

クルガンは半ば以上諦めていた。何せシードの魔法ときたら、完全回復を約束する筈の『母なる海』で応急処置よりはまし程度の効果なのだ。
クルガンの危惧を余所に、シードは反り返る勢いで胸を張った。

「いや全く問題なし。どうやら俺、コイツと相性良いらしくってさ、もしアンタが死んでたら骨まで残さず火葬出来たくらい」
「……」

例えにひっかかるものはあったが、ならば威力は問題ないだろう。
クルガンは形式的に次の質問をした。

「複合魔法を使用したことは……」
「ある訳ねーだろ」

烈火と雷鳴の最高位魔法の組み合わせは、クルガンの知る限り人に出来る魔法攻撃最大の威力を誇る。──だが勿論、その分扱いも難しい。
大分不安だったが、他に手だてはない。選択肢の少ない人生をクルガンが不自由に感じたのは久しぶりだった。

「……方法は知っているが、経験は俺もない。悪いが補助出来る保証は、」
「いや、元からフォローは期待してねえから。アンタ協調性ゼロだし」
「……覚悟があるならばいい」

制御に失敗して体が四散、などというはめになったとて、シードはきっと後悔しないのだろう。

クルガンは右手の甲を見つめた。
雷鳴の紋章。幾度となく己の危機を救って来た。
──ならば、次も平気だろう。クルガンはそう信頼することにした。少なくとも浅慮な赤猿を信じるよりはいい。

時間がない。
クルガンはシードの手は借りずに立ち上がると、移動を開始した。

鎧の擦れる音と話し声が、近付いて来ていた。









+++ +++ +++








日は殆ど沈んでいる。
迫る殺意と鋼を眺めながら、クルガンは考えていた。

己の命とシードの命、足した所で迫り来る目の前の大勢とは天秤にもかけられない。
だが──だが。

クルガンは静かに言った。

「……手を」
「え、何、繋ぐの」
「……重ねるだけだ。余計な事はするなよ」

この行為が敵方の目にどう映るのかは死んでも想像したくなかったので、クルガンはその思考を脳裏から排除した。

勿論、こんな真似をせずとも紋章は扱える。だが、クルガンはシードの魔法に対する不安が拭えなかったので、この方法をとることにした。通常はこうやって、師が弟子に紋章の使い方を教えるのだ。

もしもの時は、雷鳴の紋章で烈火の紋章を押さえ込む必要があるだろう。

シードは右利きであるため、攻撃用である烈火の紋章は、剣と同時使用できるように左手に宿していた。
同様に、クルガンも雷鳴の紋章は右手に宿している。
都合が良いと言えば良いのだろう。

「────」

シードが息を吸い込み、呪文を唱え始める。

クルガンも精神を集中させた。魔力と体力の値が殆ど零に近いと言うのも不安要素だが、一度発動出来れば──そしてそれを扱いきることが出来ればそれで良かった。少なくとも、ひとりは生き残る。

光が宿った。
赤い光。
それを押さえ込む、青白い光。

大気の色が変わったように思えた。

「っ……!」
「くっ……」

クルガンは呻いた。
思ったよりも更に、シードの炎魔法は厄介だったようだ──威力が大き過ぎる。

ぼぅん、と間抜けな音が上がった。
それは右斜め前方に突如出現した炎が、複数の敵兵を焼き焦がし破裂させた音だった。悲鳴が上がる。

それは勿論シードが、そしてクルガンが意図してやったことではない。
余波が勝手に実体化したのだ。

「────!」

気合を入れて制御しろ、とクルガンは横目でシードを睨んだが、彼は彼で必死らしかった。
額に汗をにじませ、視線を移動することすら出来ないのかじっと己の手の甲を睨んでいる。

じっ、と妙な音を立てて、シードの頬に焦げた跡が付いた。

「!!」

術者を巻き込み、膨れ上がろうとするそれを、クルガンは抑えようとした。
ばちばちと電光が瞬き、縛り付けるように紋章に纏わり付く。
膨れ上がる熱気の中、青白い煌きが跳ね回る。

右手が燃え上がるのではないかとクルガンは思った。

どん、どん、と小刻みに、何処かで爆音が上がっている。
最早、目で見て確認する余裕はなかった。

思考が途切れかかる。
息が苦しい。

目の前が真っ白に染まったと思えば、次の瞬間には夜の空と、吹き上がる炎が見えた。
そして雷の奔流が零れ、のたうちまわっている。

シードの呪文の詠唱は最終段階に差し掛かっていた。
あと少し、あと──もう、少し、で。




熱い。

──焼ける!





鼓膜の破けるような轟音と、振動。
空を炙る熱。空を照らす光。

クルガンは瞼を閉じた。
立っていた足場が崩れ、体が宙に放り出される。

『火炎陣』、とそれでも唇は動いたようだった。




「────」



クルガンは全ての力を抜こうとした。
だが、誰かが自分の右手を遠慮容赦ない力で締め上げてきたので──

酷く疲れていたが、
渋々目を開けると、

左手を上に伸ばした。








+++ +++ +++








発動した『火炎陣』は、予想以上の効果を齎し、荒れ狂ったようだった。勿論、良い結果ではない。
彼らを中心に約百五十歩圏内。大地の隆起は、炎と雷の衝撃により崩れかかり、敵兵は焼き尽くされたか飛ばされたか、影も見えない。

だが──その結果をクルガンが知るのは、まだ後のことだった。
彼には、それよりも先に考えなければいけないことがあったので。

「────」

足の下には、暗い淵しかなかった。もう少し叙情的な言い方をすれば、それは死の具現だった。
クルガンは僅かに左手で、正確には左手の人差し指と薬指と小指のみで、クレバスの縁にしがみついていた──右手は別のことに使っている。

「────」

体が引き千切られそうだった。いくらクルガンとて、怪我をまったく無視できると言うことはないのだ。痛みは気にしないとしても、身体能力が物理的に弱っている。
下方から上ってくる罵声も出来れば排除したい所だった──ちっとも考えがまとまらない。

一番の問題は、何なのだろう?

「──オイ、聞こえてんのかクルガン!」
「……」
「放せって!」
「……暴れるな」
「暴れてねーよアンタまで落ちんだろ、良いから放せ!」

クルガンは取り合えずわかっている事だけ返した。

「煩い」
「この期に及んでその態度か……アンタ本当に可愛くねーな!」
「お前は可愛いな、特に頭が」

脳を経由しない返答を返しながら、クルガンは必死に考えていた。
どうすればいいのか。
どうするべきなのか。

指先の感覚がない。
いくら力を込めても、端から抜けていく。
──大体が、右手で掴んでいる男がとても重い。酷く重い。大地そのものを吊り下げている気分だった。身がぶちぶちと嫌な音を立てて裂けていく気が──気、なのだろうか?する。

切羽詰った声が聞こえた。
この男の懇願を聞くのはとても気分が良い、と、クルガンは考えた。

「頼むから、放せよ……!」
「────」
「アンタ、別に俺の事なんか、どうでもいいだろう!」

確か、いつかもこんなことがあった。クルガンはそう思い出した。
その時シードは、絶対に放すなと言った。けれど、今は。

「放せ!アンタはそんなキャラじゃねえだろが!?」
「そう……だな」

クルガンは唇だけで呟いた。

「そうなんだろうな」

崖のふちを掴んだ左手の傷から流れる血が、わき腹を伝う感触がする。
この手では、シードが這い上がろうとする反動には耐えられないだろう。誰かが生き延びる道があるとすれば、それは、クルガンが無事な右手を空け、崖に両手でしっかりとしがみ付きなおすこと。それが選択出来なければ──

考えている暇は余り残っていないようだった。具体的には、後二十秒ほど現状維持が出来れば御の字だろう。
穴の開いた手のひらは頼りなく、今にも縁から外れてしまいそうだ。

「……」

──このまま、二人でここから落ちるのか?
いや、違う。

二人より、一人。
助かった方が、ましだと。

何処までいっても自分は結局、そんな判断を下すだろう。
シードも、それを受け入れるだろう。
ならば、答えは簡単だ。心に痛みが残らない方法など、元から知らない。

そうやって生きてきた。都合のいい現実があり得ないのなら、消去法で選ぶしかないのだと諦めて。

クルガンは一瞬だけ目を閉じた。

「シード」

そして、いつもの平坦な声で言った。



「……俺はお前と心中なんか死んでも御免だ」



その言葉に、シードはにやりと笑った。

そして彼は、繋がった手から力が抜けるその瞬間を、待った。
目を閉じる。

何故だか──酷く熱く感じる、その手の感触を、覚えておこうとシードは思った。
死ぬまでの数秒でも。








「──『氷の息吹』」








びき、びきびきびきびきっ ばしっ

手から伝わる熱は、急激にひいた。
それがクルガンの紋章発動時の発熱だったのだとシードが気付くのは、もうしばらく後の事だ。

驚きに、シードはせっかく閉じた目を開く。
そして見た。

見事に氷漬けになったクルガンの左下腕を──結果、氷ごと完璧に岩肌に密着して、ちょっとやそっとの事では剥がれそうにないそれを──しかし、その分腕の肉が細胞すらも全て完全に凍結しているのではないかと思うそれを──崖から剥がす過程で砕けるか、溶かしても壊死してしまうことになるだろうそれを──見た。

クルガンは、シードの方は見ずに言った。

「だが、この腕一本くらいなら、俺は失くしてもいい」



──もう、諦めずに済むのなら。