目の前の男を消し去れるものなら、クルガンはそうしてしまいたかった。
必死に叫び、問いかける男を。
クルガンとは違う道を選んでいる男を。
誰より人間らしく、きっと、誰かを幸せに出来る男を。
「アンタだって、皇国兵だろう」
それが、どうしたというのだろう。
「俺と一緒に戦って来ただろ。俺の国の一部だろ。……なら、俺の守るものじゃねえかよ」
「────」
「アンタが大切にしなきゃいけねぇものだろうがよ!」
己の唇が歪むのが、クルガンにはわかった。
吐き気がするのは、こちらの方だ。
「──恩着せがましいな。『守る為』とは」
皆が胸を張って言う台詞。
クルガンには、どうしても、言う事は出来なかった。
「守る為に、殺すのか」
それが、クルガンにはわからなかった。
その正しさが、どうしてもわからなかった。
「守るために戦うんだ!!そうじゃなきゃ、俺なんて只の人殺しじゃねぇかよ」
「偽善だな」
間違っている事しか、わからなかった。
答があるなら教えて欲しい。
「何のために戦おうが、俺もお前も人殺しだ。英雄である瞬間なんて、一度もない」
嗜虐的な気分で、クルガンはせせら笑った。
まっすぐな眼差しをはねつけて、一撃を喉元に。──傷付ける、為に?
この男を追い詰めたかった。
叩き潰したかった。
己が崩れる前に。
「……同じ事を経験すれば、解り合えるだと?」
肩を並べて戦う。それが何だ?
「同じものを守っていれば、同じ考え方だと」
等しい目的を持つ。だからどうした?
「くだらない」
手を差し伸べられようが、自分はそれを振り払う。
理解を望んだ訳ではない。
「俺は俺だ。お前にはなれない」
クルガンは、シードにはなれない。
そんなに真っ直ぐに、走れない。
「俺は……」
恩も感じず、情も感じず、全て断ち切って、ただ敵と味方を殺すことしか出来ない。
誰も幸せに出来ない生き方だ。
クルガンはシードが嫌いだ。
だから、ずっと離れた向こうに、適当に存在していて欲しかった。
(俺は……お前が、そんなに必死になって叫ぶ不細工な顔なんて、見たくはない)
そんな事をして貰っても、クルガンはちっとも嬉しくない。
それどころか、苛立ちが募るだけだ。
(──何処か、遠く)
遠くでいい。
何処か遠く、クルガンのような者は絶対に近寄らないような世界、絶対に理解出来ないような、世界で。
誰かが、走り続けていたら。
きっと。
(俺は──)
凍った地で、遠く炎を眺めるような気分が味わえるだろう。
『死線』
シードは黙った。
そして、地面に突き立てていた剣を抜く。
まるで自然に、一振りした。
乾ききらない血が、大地に線を描く。
「──そうだな悪かった。アンタの嫌いな大義名分を取って見せてやる」
シードが剣を振るうのは。
敵を細切れにし、なお走るのは。
──クルガンを、死なせないのは。
「自分の為だ」
彼が欲しい答とは、とても言えないだろう。
だが、シードはこれしか持っていない。
「何をどう取り繕おうが自分の為だよ」
どうしても嫌なのだとしか言えない。
顔も知らない誰かより、隣にいる者を、選びたい。
ごうごうと、耳鳴りがする。
乾いた、冷たい、大地の叫び。我欲にまみれた者を、ただ包む。
「それ以外──」
「この世に何の理由がある」
風が吹いて、シードの髪を揺らした。
死骸の積み重なる荒野で、何を取り繕えばいい。
この己の欲を、見たいというなら見るがいい。
シードは無言のクルガンに向かって土を蹴った。
ぐだぐだと理論を並べた所で、この男に勝てないのはわかっている。
「アンタの自虐癖ってのはもう見飽きたんだよ、マゾ野郎」
シードはうんざりしたように罵倒した。
偽善者は全く鼻持ちならないが、偽悪者というのも手に負えなかった。
「呆れたぜ。──アンタ、自分の為には戦えねぇんだろうこの弱虫め」
反論は、返らなかった。
クルガンの薄い色の瞳が、シードをじっと見詰めているのがわかって、それだけで十分だと思った。
それだけの為に、シードは誰かを殺せるだろう。
それを誰かが、非難するだろう。
わかっている。
「偽善だと?ンな事わかってたよ、俺が、正しいなんて事ァ無いんだってさ!」
相手が憎いなら、相手が悪いなら、きっとシード達はもっと生きやすかった。
「俺は正義のために戦ってるんじゃない──自分の欲の為だ。俺が嫌だからだ。負けたくねぇよ、俺の大事なモンだ!」
何の為に剣を振るうのか。
正しかったら──許されるのか。
「守る。もっと汚く言やあ、敵は殺す。潰す。腹ァ破いて喉切り裂いて血反吐を吐かせてのた打ち回らせる──そういうこったろ」
倒すなんて生易しい言葉で誤魔化されるものではない。
人間の最も浅ましく恐ろしい仕業だ。目を背けたくなるような悲惨さだ。
「文句は言わせねえ」
皆が幸せになればいい。それは祈りだ。
剣を振るうのは──叫びだ。どうにもならない汚泥の中で、蠢く、獣の。
「そうだ、私利私欲だぜ?善人なんて何処にもいねえ、誰もが血を流してるこの世界に──正義なんて臆面もなく振りかざす奴が居たら、俺ァぶん殴る。マジで。テメェも汚れろって言うさ」
大義。正道。自己の行いを肯定していい理由。
綺麗な言葉だ。それがきっと──誰もが望み続けて、いまだ掴めない夢だ。
シードは乾いた喉で、空気を、己を、目の前の男を、切り裂いた。
「正しさが──この世にそんなモンがないとしたら……それがアンタの絶望だとしたら……」
シードは、叫びに歪んだ顔で、笑って見せた。
こう考えろよ。頭固ェなあ。
「じゃあ、アンタが、悪だって事も、ねぇだろ……」
裁けねえよ。神様じゃねえから。
だって、アンタ、あんまり潔癖すぎるんだ。
「生き残れよ」
剣の名は、同じだろう。
「どうせ自分は悪役だとか、開き直ってんじゃねえ」
もがけ。
「それこそアンタの嫌いな、言い訳だろうが」
足掻け。
「俺が!」
──ずっと、そうして来ただろう。
「アンタが気に食わなくなったら、俺がちゃんと殺してやるから。間違ってるとかじゃなくて、俺らの国に邪魔だと思ったら、斬るから」
俺は知ってる。アンタが、実はどんな人間かなんて、多分、アンタよりわかってる。俺が──誰より、惜しんでる。
気付けよ、この鈍感め。
「逆ならアンタが俺を後ろから刺しゃ良いんだ。簡単だろ」
そんなに綺麗に諦めようとするな。
譲れないものが、あるんだろう?
己を──許せ。頼むから。
「アンタに、殺されたいよ。俺が死ぬ理由は──この国がいい、から」
この男になら、いつか殺されても、シードは許すだろう。
望むものはきっと同じなのだと、思えるから。
「だから、倒れるまで、倒れても──走り続けろよ」
「責められたっていいじゃねぇか……、アンタ、面の皮厚いだろ」
「こんな所で終わりにするな」
まるで幼児の癇癪だ。シードは自分でもそう思う。
論理立ってもいないし、きちんとした文章にもなっていない。
でもそれでも良かった。
シードは清く正しく、そうありたいわけではない。
シードは、シードでいたいのだ。
顔を上げ、シードは世界に宣誓する。
胸を張って、こう言ってやる。
「だから、アンタは、死なせねえ」
「この状況で──まだそんな事を言うのか」
「知るか。俺の前で無理とか無駄とか言うんじゃねぇよ、俺はな」
いつも、こうやって生きてきた。
「俺が出来ることは俺が出来る限り、やるべきだと」
傷付けられる事も、自己嫌悪に陥る事も、ある。やり遂げられない事も、絶望する事も、数え切れないだろう。そして間違う。いつだってそうだ。
現実はちっとも、シードにも、誰にも、優しくない。
ただ、あの赤い小さな手がある限り──この国を想う誰かが、そこに居る限り。
シードはきっと、走って──生きて、いけるのだ。
クルガンは、掠れた声で呟いた。
「馬鹿だな……お前は……」
「多分、賢く生きたい奴はアンタの側になんか寄らねぇよ」
クルガンは、じっと、自分に向かって伸ばされた手を見た。
「では、何故……寄って来る」
またこれだ、とシードは思う。
本気でわからないのだろうか。いくら鈍いといっても、あんまりだ。
肩を落として、はあ、と聞こえよがしなため息をつく。
「前から思ってたんだけどさ。アンタ、実は俺より馬鹿だろ?」
「……………これ程の侮辱は、生まれて初めてだ」
ぱしんと払われた手に、シードは苦笑した。