自分から見れば自分は哀れに怯えて縮こまっている弱者だ。
他人から見れば自分は世界を代表する万能者なのだろう。









『死線』










その役割を仰せつかった時、よりにもよって俺か、とシードは思った。
勿論その命令を下した上官にはそんな意図は全くなく、ただその更に上からの言葉をそのまま忠実に繰り返しているだけなのであろう事はわかっている。
自分が確実にその役割を果す事を──不測の事態にもきちりと、最速で伝令をこなすと──見込んでくれているのだろう。それだけだ。

中尉にもなって使い走りと、そういったことで溜息をつくわけではない。
それだけこの伝言が重要なのだと言う事はわかっている。なればこそ、伝える相手は既にこの命令を察しているだろうことが予測できて、シードの気持ちは更に暗澹とした。




「本部からの正式な命です、Sir」
「──確かに」

薄暗い幕舎の中、クルガンはシードの手から礼状を受け取った。
仰々しい封印を剥がしもせず、そのまま乱雑に散らかった──普段のこの男の性質からして驚くべき事だが──簡易デスクの上に投げ出す。

その内容はシードも知っている。万一書状を紛失した場合は口頭で伝える必要があるからだ。
命令の意味とその結果がわからないほどシードは愚鈍ではない。

こんな所でぐずぐずしていられるほどの暇はない。
馬を乗り潰すのは極力避けたい所だが──シードは頭の中で必要な時間を計算しながら、クルガンに問いかけた。

「……作戦部に、何か伝言はあるか?」
「Negative」

予想通りの短い答をクルガンは投げ返し、そのままシードの存在などまるで無視したように組み立て式の本棚に近寄った。
その中から一冊二冊引き出すと、片方を開き、片方は机の上に積む。既に本棚には空白が目立っていた。

いつも通りの怜悧な横顔に、シードの視線が刺さる。

「────」

負ける、とクルガンは言わないだろう。どれ程、誰より、その事を知っていても。





+++ +++ +++





古来からの兵法書に曰く。

 戦争のやり方は、次の原則にもとづくと。

 十倍の兵力なら、包囲する。
 五倍の兵力なら、攻撃する。
 二倍の兵力なら、分断する。
 互角の兵力なら、勇戦する。
 劣勢の兵力なら、退却する。
 勝算がなければ、戦わない。

 兵力の差を無視して戦えば、あたら命を散らせるだけと。

「──勝算、か」

イレイは口の中で呟いた。自分の頭の中をどれだけ掘り返したところで、そんなものは見当たらない。
知略とは、己に有利な戦況を整える事であるという。つまり、この苦境に立たされた時点で勝敗は既に決しているのである。戦わずして、容易に予想が付く。

勇猛な将が敵陣を蹴散らし、智謀の将が見事に敵を欺き、劣勢を跳ね返す。
そんな奇跡は、滅多に起こらない。殆ど起こらない。むしろ、ある方がおかしいと言わねばなるまい──だからこそ、それは奇跡と呼ばれ、皆が憧れ混じりに口に出すのだ。

「一万対……四千」

二倍以上だ。しかもここには砦となる城もなければ特別な地の利もない。
つまり、普通ならここは一刻も早く退く場面なのだ。己の上官とて、それくらいのことは進言されずともわかっているだろう。

考えるべきは、どれだけ上手く逃げ出すかだ──退却戦は難しさにおいて最上である。敵に後ろを見せつつ、勢いに乗った攻撃から逃れるのだ。殆どの場合、殿の部隊は全滅しなければ僥倖と言った状態になる。

イレイは己の黒い前髪を鬱陶しげに掻き揚げた。戦場に長くいると、どうしてもこんな所までは気が回らなくなる。
ぬかるんだ地面で汚れた軍靴の泥を落とす事は既に諦めていた。そもそも、そんな事を気にする程堅苦しい人でもない──軍での風評とは違って。イレイはそう思い、幕舎の中に声を掛けた。

「クルガン様、入室しても宜しいですか?」
「どうぞ、散らかっていますが」
「ご冗談を──」

そう言いながら静かに布を捲って入室したイレイは仰天した。
普段、整理整頓など呼吸と同じ容易さで行う筈の上官の部屋が、目を覆う惨状とまではないにしろ、乱雑としていたからだ。
本棚の書物は殆ど全て開かれ投げ出され、敷物の上にはぽつりぽつりとぐしゃぐしゃになった羊皮紙が落ちている。

イレイは真剣に、この上官の部屋に押し込みを働いた狼藉者(あるいは勇者)の存在を想定しかけた。

「……こ、これは一体?」
「ああ、今片付けます」
「いえ、それくらいは私がやりますが──何か、お気にかかる事でも?」

その言葉の途中で早速ごみと化した紙を拾い片づけを始めながら、イレイはそう問いかけた。
クルガンの副官についてから初めての事だ。この上官は全く他者の手を煩わせると言う事が無いので寂しくも感じていたから、イレイとしては別に非難するべき事ではないのだが、驚いてしまうのは仕方がないだろう。

クルガンはイレイの問いかけに、全く違う問いで返した。

「何か用事が?不測の事態でも起きましたか」
「いえ、敵軍は予想通りただ今一日の距離にあると思われます──撤退のご指示を頂きに」

イレイは気負いなくそう言った。
クルガンは愚かな上官ではない。功を逸る事も無い──そもそも、この若さで少将の位を頂いているのだから、これ以上を望むなど必要も無いのではないかと思える。

撤退せざるを得ないのはクルガンの失策ではない。この時期、予想しなかった大群がこの方面に突き進んできたのは同盟の奇策であり、それ故にその対応が不十分だったのは統合作戦本部の失態である。
クルガンの部隊がこの地に派遣されたのはただ単に諸部族への威嚇(またの名を軍事演習とも言うが)以上のものではなく、同盟がいつの間にか中立の筈だった辺境民族と手を組み、冬も開け切らぬこの時期に国境を侵せるルートを見つけ出したとは誰が予想出来るだろうか。
一万と言うのも絶妙な数である。少なくはないが、大攻勢というわけでもない。だからこそ、ここまでの接近を許したのだ。

それくらいは、頭の悪い貴族でもなければわかっていることだ。クルガンの出世を嫉んで足を掴んで引き摺り落とそうとする者達に付け込む隙を与えるのは口惜しいが、捌ききれぬわけでもない。そもそもその程度で倒れるようなら元から倒れている。

クルガンの行動原理からすれば、預かっている皇国兵の命と自身の一時の足踏みとは、天秤にすらかけぬ事の筈だった。
だからこそイレイは決定事項に決まっている退却と言う選択肢を口に出したのである。

それに対するクルガンの返答は、イレイにとってまさに晴天の霹靂だった。
クルガンは手にしていた本を閉じると、聞き間違いようの無いほどに明瞭で正確な発音でこう言った。

「撤退はしません」





+++ +++ +++





せめて、苗字があれば良かったのに。
生まれてから何度も繰り返し思ったことだが、こんなときは性懲りもなくまた願ってしまう。

「──リリィ中尉?」
「Yes, Sir」

本日付で部隊ごと移転配属された師団の、新しい上官に、形式通りの返事を返しながら、リリィは名付け親であるところの大叔父をまた恨んだ。

初恋の思い出だか何だか知らないが、大叔母が亡くなってからでなければ言い出せない面影などを何の罪も無い赤子に押し付けるのは遠慮して欲しかった。両親も両親だ、「綺麗な名前じゃない」などと言う前に、子どもの性別をまず気にして欲しい。

更に言えば、成長したリリィはビョウジャクナシンソウノビショウネンなどという謎の呪文のような存在ではなく、長身の強面、更に言えば軍人といった最も散文的な人種になってしまったのだから、白百合という意味の名前など初対面では例外なく冗談としか受け取って貰えなかった。

自分でも、リリィさんですよと言われてこんな男が顔を出したら普通に間抜け面を晒してしまうに違いない。
まあ、中尉と紹介されてはいたのだろうからそれほどの驚きはないだろう。しかし、この新しい上官の口から出るともなれば更に似合わない事甚だしい名前だった──リリィ。

そんな事をつらつらと内心で考えながら、リリィは気付かれないように上官を観察した。
自分とそう年の変わらない若造だが、クルガンの名前は聞いている。いずれこうなるだろうとは思っていた──『苗字なし』など貴族どもにとっては目障りなだけで、臭う汚物は一箇所にまとめてしまえと言うわけだ。

「評判は聞いています。一騎当千の精鋭部隊だとか」
「光栄です」

精々一騎当三くらいなんだけどなぁなどと思いながら、リリィはまたも形式通りの答えを返した。観察を続ける。

リリィよりもやや背が低いが、これはどちらかというとリリィが規格外であるので長身と言えるだろう。無駄を極限までそぎ落としたような雰囲気と造詣は、猛禽類を連想させた。
風評による予想と寸分違わぬ印象の男だ。リリィにすれば、そんな気まぐれな噂の類より、あのイレイを補佐にして折り合いを付けているという事実の方が、余程頼りになる情報だったのだが。

「楽にして構わない」

素直に従い、リリィは敬礼の姿勢を解いた。

「イレイ中尉と面識があると聞いています」
「Yes, Sir. 同期なもので」

イレイとリリィは、新兵の頃からの馴染みだ。
ただ、その気質には大きな差があり、リリィはその腕前と行動的な性格を生かして前線での部隊長に、イレイは目の前の男の有能な副官として納まることになっているのだが。
クルガンは頷くと、その灰色の視線をリリィから逸らして告げた。

「では、編成等わからない事は彼に聞いて下さい。しばらくは出動はありませんので、訓練のメニューは各隊に任せてあります。他に、何か質問は?」
「恐れながら」

リリィは直立不動の姿勢のまま、クルガンを真っ直ぐ見詰めた。

「大佐ご本人の人となりについても、イレイ中尉に質問するので宜しいのですか」
「Positive」

あらあらまあまあ、とリリィは内心溜息を吐いた。躊躇の全く無い切り返しだ。
そんなつまらない反応ではこちらとしても更に切り込まないわけにはいかないだろう。

「差し支えなければ、この場を借りていくつか個人的な質問をしても宜しいですか?」
「必要性を示していただければ」
「真に不遜な事ではありますが、小官は新しい上官には必ずある質問をさせていただくと決めております。相互理解に不足あれば、我が部隊の能力も制限されるかと」
「……わかりました」

気合を入れずとも、クルガンは別に拘泥しなかったようだった。
つまり、先程の切捨てはもしかして只単に受け応えが面倒臭いからといった理由なのかもしれない、とリリィは想像した──生意気な部下の意見を突っぱね続けるより、適当に処理して短く切り上げることを選んだように見えたのだ。

「差し支えない範囲でお答えしましょう」
「ありがとうございます」

では、と短く切った後、リリィは切り出した。
上官にはいつも同じ質問をしていると言ったのは嘘ではない。例外なく同じような答えが返ってくるのだが、リリィとしてはそれでも構わなかった。
皇国兵なら脊髄反射で答えるような質問である。

「大佐の、軍人としての行動原理とその理由をお聞かせ願いたい」