その子供には、長らく名前がなかった。

己自身で己を名付けるまで、彼は名無しだった。
物心つくまでに彼を育てたのは、口の利けない墓守の老人であり、その他にはいなかった。だから彼が言葉というものを覚えたのは普通の子供よりも随分と後の事だったし、喋ったのはそれより更に遅かった。頭の足りない子と思われて当然だった。

両親は、きっとこの地上の何処かにはいたのだろうが彼にそれを知る術はなく(彼がそのようなことを考え始めた頃には既にいなくなっていた可能性もあったし)、老人とも血が繋がっているとは思えなかった。実際、彼は拾い子であり、誰から教わったわけでもないが彼はその事を正しく理解していた。

老人は墓を守る役目の代わりに、人ひとりがようやく生き延びることが出来るほどの施しを受けていた。勿論のこと、子供を一人飼う道楽のためにその量が増やされるということはなかった。
しかし、それは近隣の村人が特に冷酷だったということを断言する材料にはならない。どちらかというと、彼らがその子供の存在を殆ど意識していなかったと言った方が正しいのかもしれなかった。

つまり、自然の摂理に従えば、子供は死ぬべきだったのだ。
彼が生きてそこに居る事は、恐ろしく非常識な事だった。

そこには、彼を庇護するものや彼に与えられるものはまったくといっていいほどなかった。
僅かな例外は、老人の住処にあった刃毀れした一振りの短剣だった。そして襤褸布に近い大人用の上着が一枚。

短剣は、剣というのもおこがましい代物だった。調理等のためにしか使用されることのなかったそれは、しかし子供の手に渡った途端一気にその用途を増した。
彼にとってはそれがあれば十分だったのだろう、山に入って罠を仕掛けては動物を狩り、魚を捕り、老人に届けた。食べられる果実を見分け、危険な場所や動物を見分けた。道具があれば火を起こす事すら出来た──ようやく五つを越えたばかりの頃から!

その能力の素晴らしさを(あるいは異様さを)、彼は理解しなかった。比較対象がなかったのだ。

彼は生きた異常であり、生存の為の機能に特化していた。
それが彼の積極的な望みでないことは格別に気の利いた皮肉と言えた。

彼の世界は彼自身と、山と、森と、川と、空と、虫と動物たちと風雨、雷、そして老人で出来ていた。後は、僅かな物資を届けにくる男と、たまに墓場にやってくる黒い行列。

笑うことと泣くこと、そして怒ることと悲しむことを彼は殆ど放棄した。勿論、それらの感情がないわけではなかったが、奥深くで凍っていた。
言葉は、施しを運んでくる男から、毛皮と交換して覚えた。塩もついでに付いて来るので、彼にとってはいい取引だった。

彼は非常に頭が良かったが、その事には誰も、彼自身でさえも、気が付かなかった。──彼は、他の人間から見れば目に見える空気か、野生の動物のようなものだった。

その子供は、当たり前だが何度も死にかけた。
時に病気だったり、時に飢えだったり、時に寒さだったり、時には──そう、時には絶望だったりした。その時点で彼がそれを理解することは、やはりなかったのだけれど。

生まれてからおそらく十年くらい経った時のこと、彼は自分の世界の為に穴を掘った。











『死を間近にひかえた人間が──まだ生きているのに──周囲の人々にとって自分はもはやほとんど何の意味ももっていないのだ、と
感じなければならないような事態に身を置くとき、その人間は真に孤独である』
───Norbert Elias

『死にゆく者の孤独』












老人が彼を育てた、その表記には少し語弊があるかもしれない。
子供が覚えている限り、老人は殆ど何も彼に干渉しなかった。一緒に暮らすというよりは、二人の人間が同じ場所に居るといった方が表現としては正確だった。

けれど老人は確かにその子供の存在を認めていた。目が合う事があり、確かに彼の存在を認めた動きをした。それが、進行方向に彼が居れば避けるという、ただそれだけであったとしても。

彼の日々は永遠にそうやって続いていくかと思われた。彼はあまり未来についてなど考えることは無かったが、少なくとも変化の兆しは全く見受けられなかった。
しかし、物事には兆しが必ず用意されているなどという法則は何処にも無い。ある夜、彼はそれを思い知らされる事になった。

「……」

日が落ち、いつものように小屋の隅で丸まって寝ていた彼の耳は、ざわめきを捕らえた。
複数の足音と、笑い声と、馬のいななき。それが遠ざかるならば彼はそのまま眠りに落ちても良かったのだが、そうではなかった。

むくりと起き上がると、彼は戸口に近付いた。老人も起きているらしかった。
何年も前から外れかけている扉の隙間から、静かに外を覗く。
光はむしろ外の方にあり、小屋の中の方が余程暗かったので、様子を窺うのは簡単だった。それでなくとも子どもは夜目が利く体質だったので心配はなかった──これも勿論、自覚のないことだったが。

「なぁんだ、やっぱ墓しかねぇのかよ」
「無駄足だな」

振り回された松明の火が彼の目を焼いた。

「じゃあ戻るか。墓壊しても面白くねえしよ」
「でももう村の方だって大体片付いたぜ?あの小屋、誰か居るのかな」
「どうせ居たって墓守だろ。女じゃねえよ」
「うーん……」

小屋の外で交わされる会話の結末が何処に辿り着くか、その時点で彼が理解していたとしても、結果はやはりかわらなかっただろう。
それは、残酷で容赦のない現実というものであり、どう転ぼうとも子どもの側からは動かせないものだったのだ。

「デーロ、お前、まだ斬ってねえよなぁ」
「う、うん……」
「慣れろ。今日はまだ初めてだから仕方ねぇけど、次もそうじゃ困る」

そして、複数の足音がこちらに向かってきたときに、彼はあっさりと覚悟を決めた。その自覚も無かった。
本能が鳴らす警鐘に従い、真っ暗な小屋の中で扉の脇にぴたりと張り付く。

刃毀れだらけの短剣を左手に握り締め、呼吸を整えた。
心臓は高鳴らない。緊張も何も無く、ただ、彼は自分の次の行動を決めた。

扉が開く。

「うわっ?!」

後ろ足に渾身の力を込めて子どもは跳躍し、人影の腕に取り付くと刃を振りかざした。
そしてそれは狙い違わず相手の喉へと走ったが、分厚い皮の防具に弾かれた。

「このっ!」

相手のただの反射行動による動きで、彼はあっさりと払い落とされた。
ぶうんと振られた腕で弾き飛ばされ、小屋の支柱に頭を打ち付ける。
そのまま動かなくなった子どもに、男達は数秒だけ興味を示したが、その正体が知れるとすぐに舌打ちした。

「何だ、ただのガキか」
「お前、真剣にビビんなよなぁ」
「うっせえよ、モンスターかと思ったんだよ」

そんなようなことを話した後、男達は目的を達成して小屋を出て行った。
意気揚々と、と言った風ではなかったのは、それは彼らにとって本当に些細な事だったからに違いない。

子どもが気絶から目覚めたのはそのすぐ後だったが、既に小屋中に血臭が立ち込めていた。
抵抗しなかったのだろう、見事にとは言わないがそれなりに綺麗に袈裟懸けに斬られた老人が寝床に崩れ落ちていて、子どもは初めて、恐る恐るその現実に近付いた。
ぺたりと触ると、それはまだ──まだと言っていいだろう、まだ──温かかった。

彼は握ったままだった短剣を投げ出すと、とにかく自分に出来る事をしようとした。
血を止めるためのものが必要だと判断し、老人の毛布をその体の下から引き摺りだす。そしてそれで包み込もうと、短い腕を伸ばして──

その動きは、そこで止まった。

「──」

老人の体に抱きつく形で毛布を巻こうとしていた子どもを、老人は抱きしめるように手を回した。
しかし、それは抱擁ではなかった。

「──」

彼の背中に刺さったのは、老人が与えてくれた短剣であり、その柄を握るのも、枯れた老人の手のひらだった。

墓場で拾った捨て子に、老人は果たして愛情と呼べるものを抱いていただろうか?
彼は、老人の目に深い哀れみを見た。叶うならば刃をもっと深く突き立てたかったのだろうが、老人にはその力はなく、子どもが全く抵抗しなかったにもかかわらずそれは果たされなかった。

彼はその体勢のまま、じっと待っていた。
痛みはあったが、それに付随する筈の結果はいつまで経っても現れず、朝日が差す頃、彼は完全に冷たくなった老人の体から離れた。

子どもは、己の傷の手当はしなかった。
致命傷ではないのだろうという判断をしたわけではなく、それはただ単に、考えも付かなかったと言うのが正しいだろう。

少なくとも己の体重の倍はあるだろうその骸を、彼は引き摺った。
遅々とした歩みではあったが、太陽が完全に昇る頃には彼はそれを屋外に出す事に成功した。
そして、普段は大の大人が数名で手分けして使う墓堀道具を持ち出すと、彼の知識に従って穴を掘り始めた。

子どもはとにかく、異常とも思える執念でそれを成し遂げた。
温かく柔らかい日差しの中、黙々と土を掘り返すその姿は、その場に誰か他の者が居たら背筋を寒くせずにはおれなかっただろう。

子どもの背の傷は浅かったがそこからの出血は止まらず、足首伝って滴って乾いた土の彩を部分的に濃くした。
丸々一日かけて、子どもはようやく狭い墓穴を掘りあげた。無論達成感などは無かったが、子どもは機械的にその作業に従事した──分析するならば多分、それ以外にやることがなかったのだ。

また長い時間をかけて老人を引き摺ってくると、子どもは穴の中にその硬直した体を横たえた。
そして、掘り起こした土をその上に丁寧に広げだした。

「──」

その行為が全部済むと、途端に子どもは糸が切れたように倒れ込み、動かなくなった。
自分の掘った墓穴の上に蓋のように横たわり、彼は目を閉じた。

二夜目を迎えたが、彼はまだ死ななかった。

どれくらいそうしていたのかはわからない。
彼は、複数の足音を聞いた。彼の経験によれば、それは葬列に違いなく(後から考えれば、山賊に襲われた被害者の埋葬だとわかった)、とても大勢で、とても長い行列だった。

うっすらと目を開いた子供は、予想通りのものが近付いてくるのを見た。
地面に倒れ伏したまま、彼はそれを眺めた。

「………………」

皆、一様に疲れた顔をしていた。泣き喚く者も僅かにいたが、殆どはそんな気力もないようで、のろのろと動き、口数も少なかった。
彼らは道端の石ころを見、生えた雑草を見、土くれを見、足跡を見た。
更に、血を流して倒れている子供を眺めた。







そしてそのまま、通り過ぎた。







その場に不幸というものがもしあったとしたら、それは彼の理解力に起因していただろう。
つまり、彼はまず間違いなく正確に現状を把握してしまっていた──自分が、完璧に、死んでいるということを。

彼は、石ころと同じであり、雑草と、乾いた骨と同じであった。
彼を求めるものはなく、彼を認めるものはなかった。
彼は呼吸をする死体であり、それ以上のものではなかった。
彼が生きても、死んでも、それは全くどうでもいいことなのだ。

老人が死んだ時、やはり彼の世界も一緒に終わっていたのだと。
その事を、彼はその一瞬で完璧に理解した。

葬列の帰り道、子供はそこにはもういなかったが、それに気付いた者もまたいなかった。















このとき彼が去った方角が、彼の運命を決めた。

無意識のうちに、何の目的も無いまま彼は歩き続けた。強靭な生命力は、無慈悲にもまだ彼の足を動かした。
何故、とか、どうして、などと言ったことは子どもは考えなかった。
ただ、全てを埋めてしまった自分自身の処遇にだけ困り果てていた。

そしてその一瞬が来る。

木立を抜けたそこは、子どもにとっては驚くくらい広々とした平野だった。それは、常人にとっては何のことはないただの冬の放牧地に過ぎなかったのだけれど、こんな場所があることを子どもは知らなかったし、また、想像した事も無かった。

一面に広がる、白。
どこまでも続く雪原。
月明かり。
星。

凍った星空の下、凍った空気、動くもののない凍った世界。
冷たいものだけで構成された景色の中に、遠く、灯が見えた。
炎の光だった。



美しいと思ったわけではなかった。そんな感想など、今まで一度も抱いた事はなかったから。
子供はそれにただ圧倒された。
何かが胸を突いた。無音の叫びがこみ上げた。
感情に名前を付けることは出来ず、彼は立ち尽くした。

この炎は、この光景は、彼が居なかったら、存在しなかった。
それはとてつもなく傲慢な感想だったかもしれない、だが、彼は心底そう思った。



この炎を、この奇跡を、見ているものがここにいる。



この景色を見続ける為だけに、自分というものを全てこの場所にささげても構わなかった。

あえて表現しようとするならば、それは恋情だった。
彼は、自分の卑小さを正しく理解し、世界の本当の広さを知った。


朝が訪れ、灯は見えなくなった。
だが、彼はそれを目指して歩き出した。