『慟哭』







シードがその一撃を避けえたのは、多分、一重にクルガンと言う男の性質を多少なりとも知っていたからだ。
そしてただ単に、そのクルガンという男にはない類の勘を持っていたからとも言える。

シードは、僅かに体を横に裁いた。

しゅっ

驚くべき速度で突き出された短刀は、シードの首筋を掠めて扉に軽く突き立った。
その事実だけで、シードには見て取れる事がある。

出血が少ない延髄を狙った。
喉を突き破らないように勢いを調整していた。
外傷が少なければ少ないほど偽装工作はしやすいし、血が流れれば痕跡を消すのが難しい──男が考慮していた内容を推察し、その想像があながち間違ってはいないだろうと判断する。
紋章を使わなかったのは、シードの反応速度を評価しての事だろう。

生暖かい血の感触が皮膚の上を滑る感触を感じる前に、シードは次の行動を起こしていた。
短刀を握る手を掴もうと──する前に既にそこから相手の腕は離れていたので振り返りかけ──たが第二撃を警戒して身を沈めつつ抜刀の態勢に。

「──」

しかし、クルガンはシードが振り返った時にはもう十分な間合いを取って遠くにいた。
まるで、何事も起こらなかったかのような顔をして、デスクの前に立っている。

シードは、す、と目を細めた。薄く低い声を出す。

「……アンタ、俺を殺そうとしたな」

それは問いかけではなく、断定だった。
そしてその言葉が正しいとクルガンも知っている。

く、とシードは喉奥で笑った。自分でも良くわからない表情を顔に浮かべて、目の前の男を見据える。

「話が通じなかったら、問答無用で排除か。それって一番野蛮な手段だぜ?一体どんな育ちをしたんだか」

クルガンは答えなかった。
ただ、平静な眼差しで立っている。挑発には意味が無い。
そしてシードの望み通りにこのまま退出出来るとは、どんな楽天家でも思えないだろう。
しかし、シードは言わないわけにはいかなかった。短く硬く、一言を発する。

「行かせろよ」
「ネガティヴ」

クルガンは唇だけ動かして答えた。
次、体のどこかが少しでも動いたら、それがきっかけになるとお互いに知っていた。

そして、凍りつく数秒。

「──アンタ、俺に勝てると思ってる?」

シードは静かに聞いた。
クルガンは答えない。何も考えていないわけでは無いと思うが──シードは、自分が大人しく殺されてやる程無力ではない事は知っている。容易く排除されてはたまらない。

五分五分の賭けに乗るほど、クルガンは愚かだろうか?

「もしも返り討ちにあったら、事態は益々アンタにとって不味い方向に転がると思うけどな」
「──私を脅すのですか」

クルガンは淡々と言った。そして切り捨てた。

「それでも結構」

ぴりぴりと、肌に痛いほどの緊張感。
その中で、言葉だけが普段通りを取り繕って投げ出される。

「私は最悪相打ちでも構わない立場だ。しかし貴方は馬に乗って最速で駆けることの出来る状態でなければ意味が無いでしょう」
「俺と心中しても良いってのか?」
「その可能性は限りなく薄いと思いますが」

クルガンは悪びれなくそう言うと、なんでもないように言葉を続けた。

「──どのような手段をとっても貴方をここから出す気はありません」

そして、彼の左手が腰に佩いた剣の柄に伸びた。
同時、シードも抜刀し、薄暗く翳り始めた部屋に火花が閃く。

ぎぃっ

鍛えられた鋼同士が擦りあわされる音は、その時酷く耳障りだった。
クルガンに紋章魔法を使わせる気はシードには全く無い。精神集中を行った時点でこの間合いなら膾に切り刻めるのを知っているだろうから、そんな下策はとらないだろうが。

一合だけ打ち合って、シードはまた構え直した。

「──」

斬り合いを続けるより、この静寂と緊張の方が余程精神を削る。次の軌跡を想像しながら、シードは軽く頬を歪めた。
一度でも剣を合わせればシードはそれなりに相手の評価が出来る。以前にも何回かその機会はあったが、今更そんな事はどうでも良かった。

シードは、乾いた唇には構わずに口を開いた。ぴり、と皮膚が切れる痛み。

「アンタの殺意って、鋭いけど、薄い。重みが無い」

ただ、純粋にシードの息の根を止める手段を模索している違いない、その頭の中。
最短で効率良く──そこには、何らかの感情の入る余地はない。

「アンタ、相手を殺したい訳じゃないんだ」

嫌いで気に食わないから──初めて会った時に言った様な、そんな衝動ではないのだろう。
反省するといったそれを忠実に実行しているのなら、そうじゃないだろと言ってやりたい。

「目的じゃなくて、手段なんだな」
「──」
「すげぇ、な。すげぇ制御してる。理性百パーって感じだ」

シードは唇を曲げた。
どうしてこんなに胸の奥が静かで、何も燃え上がらないのか不思議だった。

「それ、滅茶苦茶気に食わねぇよ」

例えば、シードでなくても同じ行動をする彼にとっての障害物が前方に存在するなら、クルガンはそれを除去するのだろう。
殺意はあっても、それは個人に向けられたものではない──この男は一体、何処まで嫌味を追求しようというのか。

「俺を殺すなら、俺を殺したいって思えよ」

その要求に、クルガンはシードの予想通りの言葉を吐いた。
全くつまらない男だ。うんざりしてしまう程に、取り繕った面しか見せない。

「──個人的な感情で動く気は無い」

ははは、とシードは文字だけで笑った。

「……俺、今アンタを凄く殴りたい。どうしようか?」

きっと、力任せに殴ったところでクルガンにはひびひとつ入らないのだろうけれども、シードの精神衛生上必要な事に思えた。

「それを私に訊くのですか」
「そう。アンタ、俺に殴られたい?それとも殴られたくない?」
「どちらかと言えば遠慮したい」

シードは軽く頷いた。

「そ」

この膠着状態を抜け出す手を思いついてしまったシードは、大人しくそれを選ぶことにした。こうしている間にも、砂金よりも貴重な時間がさらさらと過ぎていくのだ。
シードは溜息を吐くと、クルガンに剣を収めさせる一言を言い放った。この男が何に拘っているのか、良く考えればわからないわけではないのだ。

「俺の命ひとつなら、アンタの都合にゃ関係ねぇだろう?」

彼にとって、何ほどのことでもない。
というより、皇国軍にとって不利益にはならない。実際クルガンはシードを消そうとしたのだから、それが果たされたと思えば良いことだ。

「部隊はその、バーナム大尉とやらに預ける。なんなら、鎧も脱いでやる」
「……」

沈黙は一瞬だけだった。クルガンは拍子抜けするくらいあっさりと剣を下ろした。

「──私に言わせれば、単なる自殺行為という評価は変わらない」
「そうかよ」
「例え単騎で敵陣を抜け、例え間に合った所で、一体どれ程のことが出来ると?」
「……なんで、そこで出来るか出来ねぇかを論じるんだよ。どうでもいいだろうがそんなのは」

シードは苛立ちに髪をかき混ぜた。そして、他意無く問いかけた。

「なんで諦めるんだ?」

不可抗力とは、なんと便利な言葉だろう。
けれど、シードは自分が出来る事は出来る限りやるべきだと、そう思っているから、何もせずにただ賢くあることなどは選べそうにないのだ。
無為かも、無駄かも、無理かも知れないなんてそんな事を理由にして、やるべきことを放棄したくはない。

それは夢想だと誰かは──例えば目の前の男なんかは──言うだろう。
ただ、シードは、こんな時に守るべきものを守れないなら、それはシードが死ぬよりも余程辛い事だというのを知っているのだ。

駆けるべきならば、駆けるしかない。
己の身一つ、己の志に賭けて全く惜しくない。

「……もしもの話だけど」

扉を潜り抜けるとき、シードは振り返って聞いた。

「──俺に、誰か自発的に自殺志願者が声を掛けてきたら、アンタはその意思を尊重するよな?」

自分の隊の誰かが救援信号を見咎めている可能性は少なくないとシードは考えている。
クルガンは軽い溜息を吐くと、二秒考えてから言った。

「……五名までなら、何とでも誤魔化せるでしょう」
「了解」
「──あくまで、自発的に。死出の旅に誘ったりはしないように」
「不吉な事を」

シードは毒吐くと、廊下を全速力で駆け出した。

──例えシードが敵に発見されても、斥候部隊としてならば、その全滅で片が付く。
そういったクルガンの考えを知ってはいても、シードに特に感慨は無い。これが彼なりの最大限の譲歩であるのではないかと思うことが出来たくらいである。