滞在期間のうちに、どうしたところで顔見知りは出来る。
シードは気さくで陽気な男だったから、人と親しくなるのは早い。

子どもにもシードは好かれた。彼自身子どもを相手にするのは苦にならなかったし、一緒のレベルで遊ぶ事といったら得意と言っても良い。
最初は恐々と遠巻きに見ていた彼らも、シードの性質がわかれば喜々として近付いてきた。皇国兵は畏怖の対象でもあるが、憧れでもあるのだ。

シードを皇国兵の基本にするのは少々間違ってはいたが(何せ、中身の詰まった樽を複数同時に持ち上げるというのは誰にでも出来る事ではない)、少年は素直に、大人になって鍛えれば、という夢を抱いた。

懐いてくるものを邪険にする事など出来る筈もなく、その必要もない。
シードは空いた時間にはいつも誰かと過ごしていた。楽しい時間だ。

「シードが守ってくれるの?」
「ああ、任しとけよ、俺に」

──どれ程軽く口に出しているように見えても、シードはいつも本気だった。






『慟哭』






敵を避けてぐるりと迂回する険しいルートをとった為、直線距離ならば徒歩でも半日かからないところを三日も費やす羽目になった。

「あー、ったく、絶対ェ何か無茶言われる……」

召集の伝令が来たのは四日前の夜。現在中尉の位を拝しているシードを隊長とした五十名程の部隊は、山中に点在する村落を巡回しながらの山賊退治の任務にあたっていたときだった。馬を与えられていたのはシード他数名のみで(勿論、山の中で馬を乗り回せる筈もないので、当初の任務の範囲では全く支障はなかったのだが)、まさか歩きの者を置いていくというわけには行かずにこの時間を必要とすることになったのである。

山賊退治については、シードは既に成果を挙げていた。根気良く山を巡った結果、山賊のアジトを発見しこれを討伐。村民の感謝を受けていた所に入った知らせだった。帰還のタイミングとしては上々だ。

これについては予想していなかったわけではない。同盟軍がこの砦に近付いている事は知っていたし、そうなれば大なり小なり戦になるのが当然の流れだから、急いで呼び戻されるだろうと思っていた。

本隊と村落の間には既に同盟軍が陣を張っており、勿論シードの部隊が五千人程の兵力を保持していたのなら挟み討ちに格好のポジションではあったかもしれないのだが、その百分の一ではどうしようもない。どう見ても安全に本隊と合流するのが最善だった。

砦には常駐の軍に加え、同盟軍を迎え討つためにルルノイエから一軍が派遣されている。その指揮官の名前はシードが良く知るもので、だから到着の報告へと向かう足は軽いとは言い難い。
シードは別に彼を嫌っているわけではない。彼には否定されるかもしれないが顔見知り以上には親しいと思っているし、そろそろ短いとはいえない付き合いだとも思っている。

ただ、シードが彼の指揮下に入った場合ここぞとばかりに無理を言われることが多いので、戦場で上官として顔を突き合せるのに「よう、偶然だな!会えて嬉しいぜ」と言う気分にはなれないのだ。

砦の薄暗い廊下を曲がり、指揮官室が見えてきたところで(シードはここに辿り着くまで四人に道を訊いた)、シードの脇を足早に抜き去った者がいた。

「失礼」

彼はシードの目的地である所の扉をノックすると、素早く入室した。様子から見て哨戒・偵察部隊の報告に違いない──シードは大人しく扉の脇で待った。別に、彼の方は一分一秒を争うというわけではないのだから。





+++ +++ +++





──日が沈みかけていた。

「…………」

報告を終えた伝令を下がらせて、クルガンは軽い溜息を吐いた。
入れ替わるように入室した赤毛の中尉を見、胸の重さは更に増した──なんて間の悪い男だ。

「山賊討伐任務にあたっていたシード中尉以下五十二名、召集に従いただいま到着いたしました」

その声は、クルガンの知るシードのものより少しばかり硬く低いように思われたが、クルガンは意図的にそれを無視した。

「──ご苦労様でした。では、バーナム大尉の下について隊を編成して下さい」
「ネガティヴ」

シードの返答は早かった。
しかも、軍では通常あり得ない受け答えだった──視線を上げたクルガンに、シードは平然と繰り返した。

「その命令はお聞きしかねます」

クルガンは無言でシードを見据えた。灰色の瞳を少し眇めて。
シードは全く表情を変えずに、それに真っ向から対抗した。沈黙は短かった。

シードは何かを待っていたようだったが、それが得られないのがわかると即座に切り込んできた。

「クルガン。今なら許すぜ──俺に何か言うべき事があんじゃないのか?」
「ネガティヴ」

先程のシードの台詞を全くそのまま繰り返してみせて、クルガンは情緒の薄い声で言った。

「貴方に与える命令は変わらない。編成を済ませ、休みなさい」
「クルガン……!」

シードは、婉曲な言い方では埒が開かない事を悟ったらしかった。無論、性質的にまだるっこしいことが嫌いだというのもあるのだろうが。

「俺は、聞こえてたんだ」
「……盗み聞きとは感心しない」

クルガンは諦めて溜息を吐いた。

頭の中でざっと一通りのことを計算する──勿論、最悪の事態に対する対応も含めて。副官は既に今日の仕事を終えているし、伝令は先程のもので最後だ。緊急の事態が起こらなければ、この場に割って入る者はいない。
そしてもうひとつ。ここには絨毯が敷かれていないし、本棚もない。これは重要な事だった。

「諦めなさい」

クルガンにはシードの言いたい事はわかっていた。
本当に、何と言うタイミングの悪さだろう。

「貴方にもわかっている筈だ。……もう間に合わない」

シードの動物的な聴覚を呪いながら、クルガンはそう断定した。
召集をかけてからシードがここにやって来るまで、これだけの時間がかかったのだ。今更折り返して何になるというのか。

──先程の報告にあったのは、つまりこう言うことだ。
敵軍の勢力、動向──そして敵軍を挟んで南西に、救援信号が見えたと。山中に村落が点在している地域。

そう、普通ならば半日もせずに届く距離だ。
早急に兵士の一部隊でも差し向けて、蹴散らせばいい──山賊など。

繰り返すが、普通ならばの話だ。

「……」

シードは無言できびすを返そうとした。
衝動だろう。クルガンは鋭く制止の声を掛けた。

「待ちなさい」

どうしてこの男は迷わず最悪の事態ヘ向かうのだろうか。クルガンは精神を凍りつかせながら、邪魔なデスクから立ち上がり、二歩進んだ。

「無駄だと言っている」
「無駄だと?」

シードが目に見えて激昂していないことが、逆に深刻さを際立たせる。
けれど推察できる。彼は今、混乱しているのだ。そして、己を責めている。

「──じゃあ何か?アンタは、放っておけって言うのか?」

胃の奥から搾り出される、重い声。

「今、そこで、襲われてる奴らを?俺は守るって約束した、それが助けを求めてるのにか?俺のミスだぞ、潰しきれてなかった──間抜けな皇国兵が、尻拭いもしないのか?」

せせら笑うように、シードは言った。挑戦的な目だ。
クルガンには何ほどのことも無い。

「ポジティヴ」
「……!」

がん、と石造りの壁にたたきつけた拳から鈍い音がした。
勿論クルガンの手が痛いわけではないが、その痛みを想像する事くらいは出来る。、
シードは浮いていた笑みをさっぱり消して、乾いた声で言った。

「……アンタを、軽蔑する」
「好きになさい。私にそれを止める権利はない」

クルガンはまた一歩進んだ。

「だが──貴方の行動を制する権利はある。命令に従いなさい、中尉(・・)
「っ!」

その視線だけで人が殺せそうだな、とクルガンは他人事のように思った。
けれども意志を曲げるつもりは無い。

今、村をひとつでも助けようと思うのなら、馬を駆って最短距離を突き進むしかないだろう。
だが、それは不可能だ。というよりもただの自殺行為だ。何処の兵士が突撃してくる敵軍に向かって道を空けるというのか?

勿論クルガンに奇跡が執り行えるのならば、シードとその率いる一部隊に羽を与えてその距離を一飛びさせてやることにやぶさかではないし、それ以前に山賊どもなど直接追い払う。
けれども──クルガンは自分でも冷静だと思える精神の中で考えた──それは、現実的ではない。
クルガンは内心で繰り返した。間に合わないのだ、もう。

「──命令」

シードは俯いた。長い前髪が滑り落ちる。
そして繰り返した。

「命令、か。従わなきゃならないのか。そりゃありがたい」
「──」
出来なかった事なら言い訳になるモンなァ?(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

握り締めたシードの拳から、ぽたりと血が滴るのが見えた。
冷えた硬い石の上に落ち、染みを作る。

「だけどな、本気でありがた迷惑だ。俺が知らなかったら、命令だったら、仕方ないで済むって?」

軍規違反や論理的可能性でシードを押しとどめるのは無理だとクルガンは悟った。
シードが真っ当な事を言っているのはわかる。けれど、クルガンは気合と根性だけで全てがうまくいく世界など知らないのだ。

「言い訳なんざ俺は欲しくねえぞ……!敵と戦うだけじゃねえ、守る為に皇国兵やってんだろうが!」

シードは扉に手をかけた。

「──俺の任務を続行する」

聞きたくなかった答えだった。
これはシード一人の問題ではない。一部隊の皇国兵を無謀な特攻に組み込むこと、そしてそれに対する敵軍の反応も気がかりだった。下手をすれば一気に前面衝突だ──その最中、敵軍を全て突っ切って、間に合うつもりでいるのか?

ただの自己満足だ。クルガンはそう結論付けた。

「……どうしても、決断は変わりませんか?」

クルガンは半ば諦めた心境で、そう問いかけた。