『恋愛小説:転』







一瞬の硬直の後、猛然と反論しようとしたシードを止めたのは、すっ、と涼やかに上げられた腕だった。
亜麻色の髪の第三軍将軍は、険しい色を瞳に宿してクルガンを見据えている。

この場面が舞台上で行われていたら、満場一致でアシャズが主人公、シードがヒロイン、クルガンは悪役である。

「クルガン殿……」
「──」

渡された手袋をくしゃり、と握り締め、アシャズは硬い声音で言った。

「そんな言葉を、私が望んでいたとお思いですか?」
「……」
「シード殿はシード殿のものです。誰かが勝手に売り渡せるものではない……」

アシャズはそこで言葉を切ると、俯いてふるふると首を振った。
シードはアシャズがこれ程まともな事を言うとは予想外だったので、思わずまじまじとその真剣な顔を見詰めてしまった。
切ない目つき。真摯な表情。これは──

「信じたくなかった……まさか、貴方が──」

対するクルガンは黙ってその場に立っている。
張り詰めた空気を破り、アシャズは顔を上げて、決定的な言葉を吐き出した。

「既にシード殿に手を出していたなんて!」

ごっ!

手加減のない力で後ろからど突き倒されたアシャズは、物凄い勢いで床にキスした。
さっき一瞬でもアシャズを見直してしまったシードは、むしろ自分の頭をタコ殴りしたい気分で一杯である。

「な、何をなさるんですかシード殿!」
「いや、これは俺の親切だぞアシャズ?」

ぴくぴくとこめかみを引き攣らせながら、シードはにこりと笑って見せた。
シードがアシャズを殴らなければ、クルガンの制裁が待ち受けていたに違いない。

「……親切?」
「取り合えずさっきの発言は訂正しとけ、マジで。お前死ぬぞ」

思わず背中を踏みつけてしまっていた足を、一応踏み躙ってからアシャズの上から退かす。
クルガンは何か行動を起こす間もなかったのだろう、微動だにせずに立ち尽くしたままだ──その脳内にどんな嵐が吹き荒れているのか、シードは想像したくもない。

「──アシャズ准将」
「はい?」

アシャズは体の前面をはたいて立ち上がると、凍るような呼びかけに全く頓着せず応対した。
クルガンは表情こそ変わっていないものの、周囲の気温をぐんぐんと低下させている。

「……先程の、私の名誉を著しく傷付け泥を擦り付け唾を吐き地の底まで突き落とす発言は、どのような根拠があっての事ですか?差し支えなければお聞かせ願いたい」
「その発言とは、貴方がシード殿に手を──」

がっ、とシードはアシャズの足を思い切り踏ん付けた。この男には危険察知の能力が欠落しているとしか思えない。
衝撃に言葉を飲み込んだアシャズに、クルガンは再度問いかけた。

「……その、謂れのない誹謗中傷の事です」
「だって……シード殿がシード殿のものである限り、誰かが勝手に売り渡せるものではないでしょう?」

そこまではいい。

「それなのにクルガン殿はシード殿を私に譲った……」

確かにそんな無責任な発言はあった。

「という事は既にシード殿はクルガン殿のものだという事に!」
「お前の頭は腐ったトマトかっ!?」

シードの拳がアシャズの頬に炸裂し、彼は派手に吹き飛んだ。
シードはそれを追って走り、アシャズの体が床につく前に襟首を掴み上げる。

「何でそこで三段論法を無理やり成り立たせるっ!?明らかに矛盾してるだろーがクルガンの発言が全く自分勝手なんだって結論に落ちつけ!」
「私の頭は腐ったトマトではありませんっ!」
「問題点はそこじゃねーんだよワンテンポずれんな人の話は良く聞け!お前ホントに将軍かっ!?」
「むしろ腐ったトマトだったらここまで面倒ではないのだろうな……」

押し殺したクルガンの声は、幸いにもアシャズの耳には入らなかったようだった。

「っと、とにかく!」

アシャズはどうにか踏ん張ると、クルガンに向かって叫んだ。

「私が許せないのは、貴方がシード殿の好意に胡坐をかき、なんらの意思表示もしない事です!」

それはそうだろう。
クルガンは何をどうしたらいいのかわからなくなってきた。人一人跡形も残さず処分する方法を考える方が容易いのは確かなのだが。

「私だったら、シード殿への愛情や言葉は惜しみません!何か要求されたら──」
「そこの窓から身投げしろ」
「──されても生きて戻ってくる自信があります!」

確かにそうかもな、と二人は思った。
アシャズは絶好調に盛り上がってきたようだった。びし、とクルガンに人差し指をつきつけ、宣言する。

「その点につき、貴方に勝てる自信がある!貴方はどうなのですっ!?」
「私は──」

何事か言おうとしたクルガンの肩を、がしり、と掴む手。クルガンは地獄の亡者を連想した。
払おうにも払えない強さだ。というより、痛みすら感じる──クルガンは視線をその手の持ち主に向けた。

「クルガン……ここで『私は負ける自信があります』とか言ったら俺は結構本気で復讐するぞ……」

シードの目は本気だった。
クルガンも、この赤毛の同僚を本気にさせるとろくな事にならないのはわかっていたので、用意していた言葉を取り合えず飲み込んだ。

「クルガン」

……どうしろと。
クルガンはシードをなだめる事にした。この展開は明らかにおかしい。泥沼にしかならない。
シードの耳元で小声で叱責する。

「ここで俺がトマトと張り合ってどうする。俺にもお前にも不都合だろう」
「俺は確信した。ここでアンタを逃すと俺だけ不幸になる……!」
「俺が一緒に不幸になっても全くお前は救われないが、それは八つ当たりというのでは?」
「違う。チームワークだ!」

なんとも斬新な解釈だった。

「苦楽を共に味わうのが友達だろうが……!」
「俺とお前が友人かどうかという検討はこの際置いておくとして、相手の不幸を願うのは明らかに敵だろうが」
「屈折してるんだ」
「……この機に恨みを晴らそうという態度にしか思えん。しかもだな」

クルガンは考えた。

「──こういう時はお前を助けるより見捨てるというのが俺として当たり前だ」
「キャラ作るより先に人格鍛えろよマジで!」

大声が耳に痛かったのでクルガンはシードから顔を離した。
そこで、はた、と思いついてアシャズを見遣る。こんな内緒話など──

「──どうなんです、クルガン殿?」
「…………」

アシャズはずっとクルガンから視線を逸らさなかったようだった。
その目は全く揺れていない。

クルガンは、ぎゃあぎゃあ喚くシードは取り合えず黙殺して、アシャズを眺めた。
そもそも、何がおかしいといって全体的にこの状況がおかしいのだ。

「クルガン?」
「少し黙れ」

アシャズがシードに告白し、クルガンをライバル視し、決闘を挑んでいる。
ここまではまあ、色々な点に目を瞑れば有り得なくはない。
しかし、決闘によってアシャズに何が得られるか?
シードの愛でも、身柄でもなく──

「……ふむ」

クルガンは眉根を寄せた。もう少し妙な点を追求してみる事にする。
ひらめいた事があった。つまり、アシャズの言動と、シードからの情報は、惑わされるだけなので除外すれば事態の把握は簡単だったのだ。
クルガン自身が確かに見聞きした事を整理するだけで良かったのである。

「……シード殿への愛の自信がないんですか?そんな態度は私は許さ──」
「わかりました」

ええっ!?と妙な声を上げた赤毛の同僚の襟首を掴むと、クルガンはアシャズの前に突き出した。

「では先に、貴方から愛の証を立ててもらいましょう」
「へっ?」
「まさか、口先だけというわけでもありますまい?」
「ちょっ、クルガン、何言って──」

シードが慌てる。
アシャズは目を見開き、クルガンの提案に何とか対応しようとした。

「私はシード殿を──」
「言葉でなく、態度で」
「た、態度!?」

ずい、とシードの体を盾にするようにしてクルガンはアシャズに詰め寄った。

「おいクルガン!?」
「もう少し黙れ」

小さく言うと、クルガンはアシャズを見詰めた。
こんな時も、アシャズはクルガンをシードから引き剥がしはしない。

「そう、態度で示していただきたい──例えば、口付けでも」
「「!?!?」」

煩い不協和音が廊下に響き渡る前に、クルガンはシードの背を強く突き飛ばした。

「「!!」」

アシャズにシードがぶつかる。不意を突かれたアシャズは、それでも何とか首を捻ったようだった。
あまりの事に呆然としているシードを胸で支えると、アシャズはクルガンに噛み付いた。

「な、何をするんですかっ!」
「口付け出来ないのですか?」
「こ、こ、ここここう言うことは当人の同意を得て──」
「同意は先程得ました」

しどろもどろになるアシャズに対して、クルガンは真顔で大嘘を吐いた。
シードが我に返る前に、決着をつけなければならない。

「け、けれど、でも──」

がしゃーん。

混乱する場面を切り裂いたのは、陶器の砕け散る音だった。





+++ +++ +++





「サ、サンディーナ……!?」

アシャズはこれ以上ないくらい急いでシードを突き放した。
ごん、と勢い良くシードの頭が壁にぶつかる。シード以外誰一人として気にしなかったが。

「……そういう事か」

最後のピースがはまり、クルガンは納得した。
登場としてはとてもいいタイミングである。これで一気に問題が解決出来そうだった。

サンディーナというのが、たった今、運んでいた花瓶を廊下に落としてしまった女中の名である事は間違いない。
彼女は狼狽した様子で、全く身の置き所がないようだった。

「サンディーナ、えーと、これは」
「し、失礼しました……!!」

アシャズに呼ばれた女中──サンディーナは、その声すら聞こえていないほどの動揺ぶりだ。
急展開にシードはついていけておらず、アシャズはサンディーナと同じくらい慌てふためいている。

「クルガン様、シード様……アシャズ様、あの、私」

サンディーナはおろおろと視線をさ迷わせると、

「お二人が抱き合っていたとか、く、口付けの同意とか……そういうのは何も見てませんから……!」

アシャズとシードにさっくりと致命傷を与えた。
そして、間髪入れずに走り去ろうとする。まあ、この場合仕方ない事ではあった。

「ちょ、待て」
「待ってくれサン──」

一番早かったのは、クルガンだった。シードとアシャズが弁解している間、一拍も挟まず冷静に行動を開始したからだ。
四歩でサンディーナに追いつくと、その手を掴んで引き寄せる。ここで彼女を逃がしては話が終わらない。

「待ちなさい」
「ク、クルガン様──!?」

流石に振り払う事も出来ず、サンディーナは立ち止まった。
クルガンは彼女の顔をまっすぐ見詰め、冷静な声で真摯に語り聞かせた。

「貴女は誤解をしている」
「ご、誤解……?」

クルガンはゆっくりと頷いた。きっと今頃、クルガンの背後ではアシャズとシードが胸を撫で下ろしているだろう。

「誤解って、先程の──」
「ええ。貴女の立ち位置からは彼らが抱き合っているように見えたかもしれないが」

クルガンは話しかけながらサンディーナを観察した。

こちらを見上げてくるサンディーナは、小柄で、金茶色の巻き毛の、可愛らしい娘だった。
動揺により大きな蒼い目に涙がたまり、今にも零れ落ちそうだ。

「実際彼らは、抱き合っていたというよりは──」
「え?」

クルガンは彼女の小さな顎に手をかけると、その瞳を覗き込むようにして、ゆっくりとかがみこんだ。
二人の顔が接近する。
サンディーナの体が、びくりと震えた。

「……………………」
「……………………」
「……………………」


廊下のある一角だけ、時が止まった。







顔を上げたクルガンは、赤面した彼女を胸の中に抱きこんで言った。

「……こうしていたのですから」