『暗殺者』






「…………え?」

自分でもちょっとどうかなぁと思うような声をあげて、シードは給仕の──その男の顔を見詰めた。

「!!」

元からそれ程なかった距離を更に詰められる。
反射的に逃げようとして、落としたトレイからこぼれたスープに足をとられ、転びそうになった。
その隙に、更に間抜けなことに、シードは脇に抱えていた軍刀を奪われてしまった。トレイを両手で支える為にそうしていたのだが、刺されたショックで力も抜けていた。

がっ

つま先で腹を抉られ、シードは冷えた石の上に倒れこむ。
途端に、体が真っ二つに引き千切られたような痛みが走ってシードは思わず呻いた──背中が、とんでもなく、痛い。悲鳴を上げる余裕がない程痛い。少しかすった、といったレベルの痛みではない。
……シードは多分今まで、こんなに深い傷を負ったことはない。見えないが、勘で言わせて貰えば多分、命に関わる傷だろう。

「──情けないな、軍人」
「ぅぐ、あ」
「殺し合いが本業なんだろう?」

テメェ、とシードは思って、跳ね起きた。
その時傷口から熱いものが沢山あふれるのがわかって、少し後悔した。
石の床は、もう結構な量の血で濡れている。

げふ、と口が変な音を出した。

「て、め、」
「苦しいか。苦しんでくれたか」
「ざけ、な」
「友人の死は軍人でも堪えるのか──シード曹長」

シードは足で床を蹴り、男から少しでも距離を取ろうとした。
とりあえずは、呼吸を整えることだ。それと、傷口。片手で抑えたが、背中にあるために塞ぎにくい。

シードはそう思いながら、しかし声を張り上げた。
聞き捨てておくわけにはいかなかった。

「たり、前だろう……!許さねえっ……!」
「そうか。意外だ」

男は笑い顔を消してシードを見下ろした。
だらりと垂れた手のナイフが擦れて、男の太ももに赤い線が走った。

「貴様らは人を殺した次の日にはもう笑っているのに」
「……っ!」

落ち着け。
シードは自分に言い聞かせた。苦手な分野だが、頑張るしかない。
痙攣する体を抑え、確実に呼吸をつなぐ。

「復讐……だと、言ったな」
「──」
「何の、復讐だ……?それくらい聞く権利、あんだろ」

男はナイフを後ろに放り捨てた。
かちん、と軽い音を立て、それは階段のどこかに跳ね返って落ちる。けれども明らかにシードの手には届かないところだ。

男の声が、シードを貫く。その憎悪。
激情ではない。だがその分重く、深いそれに、シードの背筋が震えた。
曲がんな、と自分の背骨を叱咤する。

「──お前を信頼して、その為に死んだ女だ」
「……」
「皆の希望となる女だった……俺の、妹。その復讐だ」

そこで、閃くものがあった。
シードは目を見開いて、呆然と男の顔を見詰めた。

覚えがある。その顔立ち。
……紅茶色の、髪。

「──ノ、エル」
「貴様がその名を呼ぶな」

男はそういうと、転がっていたスープ皿をシードの顔に向かって蹴り飛ばした。
シードはいまだ呆然としていて、それを顔面でまともに受けた。今はどうでも良かった。

「ちょっと待て、アレは……!」

自分のせいではない、などというつもりはなかった。
だが、男が真実を知っているとも思えない。あの場に居たのは、ノエルと、シードと、ジェスタと、クルガン。結末を見届けたのは、多分クルガンとノエルだけだ。
多分、男があの一件で知ったのは反乱軍の本拠地を尋ねたシードの顔だけなのだろう。それを頼りにここまでたどり着いたのだとすれば凄まじい執念だった。

「話を」

聞け、という前に、シードは蹴られた。
動揺していて咄嗟に避けられなかった。顎を強打され、危うく舌を噛み千切るところだ。

転がるシードを男は追わなかった。

「貴様に呼び出されて、あいつは帰って来なかった」
「心配するなと、そう言って、とうとう帰って来なかった」
「ルルノイエで、罪人として処刑されて、体さえかえってこなかった」

呪文のようにそう唱える男の黒い瞳を見て、シードは真剣にぞっとした。
妄執。

「貴様が誘い出した」
「おい……!」

シードは唸った。
片足の裏を地に付け、体勢を立て直す。しかし口を開こうとしたその瞬間に、先手を打たれた。

「黙れ。貴様の利になるようなことはなにも言うな」
「な、」
「知りたくない」

男は、軍刀を鞘からゆっくりと抜いた。
シードの顔を睨み据えたまま、その鞘もやはり背後に放り投げる。

「……言い訳など聞けば、俺が貴様を憎めなくなってしまう」

淡々としたその台詞を聞いて、シードの顔が引きつった。
この男は、真実も、シードの事情も、ノエルの思いも、何も知りたくないという。

ただ、シードを恨む。
理解を望まない。

彼の中で、ノエルの死は、全てシードのせいなのだ。
そして、そこで、終わっているのだ。

「てめえ、てめぇは……っ!」

シードは自分の頭の中で、『冷静』がどこか違う国の言葉になるのを感じた。

「ノエルが、どんな覚悟であの場に来たか、それすらも関係ねえって」
「名前を呼ぶなと言ったんだ。下種」

かたぁん!

飛んできたトレイを、シードは拳で叩き落とした。
床に跳ね返り、派手な音がする。

「何にも、知らねぇで、俺を……それだけじゃなく、何も関係ねぇ奴等を!」

目を閉じて、刃を振り回す。
それが何を傷つける?その結果──何が残る。

「……そんなことして何になるってんだ言ってみろよ!てめぇは何が」
何かを為すためではない

一言。
一言で男は終わらせた。

男は、抜き身の軍刀を片手にシードを見下ろした。
二歩歩いて、腕を一振りすれば、シードに避けるすべはない。

「貴様が死んでも何にもならない。ノエルは生き返らないし、俺の気も済まない」
「貴様が苦しんでも、貴様が苦しいだけだ。死んでもそうだ。無意味……だから、なんだ?」
「誰が何を言おうと、俺は貴様を生かしておけないんだ。それだけだろう?」

何かの為ではない、と。
男ははっきりと言い切った。そしてまた、暗殺者ではなく、復讐者ではなく、先程までの朴訥な給仕の表情を作って見せた。

「──貴様はいい奴に見える」

シードは自分の指先が冷えていくのを、やけにはっきりと感じた。冷たい石に、空気に、目の前の男に、体温を奪われる。

「普段は、確かにそう見える」
「愛想良く笑って、他人に親切にして──本当に、信頼出来る人間に見える」

さ、と男の表情筋から力が抜ける。残ったのは能面のような固い顔。
感情が消えたそれは、死体に近い。

「でも貴様は軍人だ」
「命令されれば誰でも殺す」
「それで、ノエルも騙したんだ。国ぐるみで、潰した」

男は、一歩進んだ。

「話を──聞けだと?聞いてどうなる。ノエルが生き返るなら聞いてやる」

「例えば、俺が貴様の話を聞いて。理解して」
「それで、もし」
「もしも。もしも。もしも──だ」
「万が一、俺が納得してしまったら?」



「ノエルの死を『仕方ないことだった』と思ってしまったら……?」



「俺は、貴様を許さなきゃならないじゃないか」


例えば──例えば。
恨み重なる誰かが居たとして。
それが、誤解だとわかったとして。

そうしたら?
振り上げた刃は、そこで止まるのか?

そこで感情が容易く切り替わるというのだろうか。
スイッチひとつで、簡単に?

「許すだと……?」

くくく、と男は喉の奥だけで笑った。
それは、笑いではなかった。少なくとも、シードの知っている類の感情表現ではない。

「そんなことを言ったら……まるで、俺が愛してなかったみたいじゃないか」

盲目。
シードはぎりりと唇を噛んだ。
傷の痛みには慣れてきた。多分、脳内麻薬のおかげだろうけれど。今引き千切られるように痛むのは、背中ではなく。

男はもう一歩進んだ。

「──許すことが出来るほど、憎しみが深くないみたいじゃないか」

壊れた機械のように、男は繰り返した。
薄暗い地下、血の臭いより、その手に持つ軍刀より、何より男自身の陰惨さが際立っている。

「そんなことが出来るか」

シードは、紅茶色の髪の男を睨み据え、吐き捨てた。
もう、はっきりとわかっていた。

「狂ってる」

言われた方の男は、きょとんとした様子で、繰り返した。

「狂ってる……?」

そして頷く。
当たり前だろう、と。

「狂えないのか、貴様は」

愛するものを失っても。
平気で、生きていけると?

「狂っているさ」

男は満足げに、ようやく綺麗に微笑んだ。
そして、刀を振り上げた。

「それこそ、褒め言葉だ。──俺の、愛の証だ」

シードは避けられない。
後は、振り下ろすだけだ。

ひゅっ






がじゅっ






「────」

シードは、深々と左の腕に食い込んだ刃を、右手で握り締めた。
脂汗の浮いた手のひらが滑らないように、指先にだけ渾身の力を込め、固定する。

シードは瞳をぎらつかせて、男を睨め上げた。獰猛な視線。
シードは、本気で苛立っていた。

「そう……てめぇは、軍人じゃ、ねぇよな」

日常的に、人殺しなどしない。
誰かの恨みも、かわない。
いくら殺意だけ育てようが、そうやって生きてきた人種だ。

「だから、腕の一本も、斬り飛ばせねえ」

量産品の軍刀で、骨を絶つには技が要る。
相手を殺す技。それがないならば、肋骨をくぐりぬけ、内臓に刃を叩きつけるしかない。そう、男がシードの背、腹の裏側を刺したように。

戦場では、相手を綺麗に殺せることのほうが少ない。
渡される装備は粗悪品だ。斬る度ただの棒切れに成り下がって行く剣。動きを制限する、隙間のある鎧。それだけを武器に、命がけで、命がけの相手とぶつかる。命を叩きつけ、命を壊すのだ。
こんな生温い男に負けている場合ではなかった。

「……!!」

首を狙って放たれた一撃を防ぐ為に、シードは左腕をぶつけた。当然折れている。
だが、一度剣を止め、それに触れられれば良かった。シードの右手の指の力と、男の右の腕の力、どちらが強いか──

「らぁあああっ!!」
「────」

一瞬の動揺を突き、シードは男の手から剣を奪った。
右の手から血が飛び散る。危うく指が落ちるところだったが、シードはそんな事に気付いては居ない。

誓ったことがある。

「っ……!!」

裂帛の気合とともに、伸び上がる。
この一瞬に、全力をかけた。これは、自分がやるべきことだ。そして、死んではいないのだから、いくら深手を負っていようが関係なかった。出来ることをするまでだ。

ず、と。
横隔膜を貫く、いつもの感触。

「が」

どっ

折り重なるようにして、シードは男の上に倒れこんだ。
石の床にぶつかり、軍刀の切っ先が折れる。
男の上に馬乗りになり、シードはその顔を覗き込んだ。そして、宣言する。

「ベルギスと、ティリーと、ディータの仇だ」
「……かたき?」

男はしばらくの沈黙の後、区切るように笑った。
腹を一息に刺し貫かれては相当の苦痛の筈だが、そんな事にはお構いなしといった様子で笑っている。

「……は、は、は」
「何が、おかしい」

シードの顔色は、対照的に真っ青だった。
血が流れすぎている。指先の感覚は既になかった。懲罰房の前の廊下は、すっかり赤い。

「その三人が死んだのは、お前のせいだよ」

その言葉に、シードの目が見開かれる。
男は、本当に楽しそうだった。シードを傷つけることが、至上の喜びなのだと、その表情が語っている。

「お前と同室で、お前の友人だった」
「お前と無関係なら、死ななかった。まるっきり、巻き添えだ」
「お前がいたから、死んだんだ」

男はシードに呪いをかけた。

お前がいなければ、三人は死ななかった

シードの瞼がゆっくりと落ちかかる。
シードは、剣の柄から手を離した。そして、その手を、男の首筋に当て──胸倉を掴み上げた。

ごちん、と額同士がぶつかる。
有り体に言えば、それは、頭突きだった。

「ハ、──ふざけんなよ?」

至近距離で、シードは男の黒い深い目を見据えた。
何が狂気だ。何が愛情だ。いい加減にして欲しかった。

「それを言うなら、『貴様がいなけりゃ死ななかった』だろうがよ……!なんでもかんでも俺のせいにすんな!」

ノエルのことも。
誰かを恨むしかなかったなんてことは、ないだろう。
言うだけならば簡単だ。そして、何かに罪を着せるのも。

ノエルが死んだのは、クルガンのせいだ。
ノエルが死んだのは、ジェスタのせいだ。
ノエルが死んだのは、シードのせいだ。
ノエルが死んだのは、トラスタのせいだ。
ノエルが死んだのは、ハイランドのせいだ。

そして──ノエルが死んだのは、ノエルのせいだ。
選んだ道を進んだのなら。


「自分の罪はきっちり背負え、この甘ったれが……!!」



覚悟というのは、そういうことだろう?