『暗殺者』
体のどこかが、確実に痙攣していた。
エイアスは目を見開いて、激情をどうにか制御しようとした。
けれど、それは無理だ。
何を犠牲にしたか、だと?
「……お前がそれを言うのか!」
何にも代えがたいものを失った。
けれど、それをクルガンに叱責される覚えは無かった。
エイアスは思わず一歩踏み出した。頭ががんがんと痛んだ。
「我々が責められるべきだとでも!?あの方を殺したのは、お前だろうが!!」
「責めてはいない」
クルガンは、静かに言った。
限界点ぎりぎり、いや、もうそれを超えてしまっただろう周囲の殺気はまったく感じていないようだった。それか、どうでもいいのか。
乾いて起伏のない声がその口から滑り出る。
「ただ、俺にはわからないんだ。本当に」
「何がわからない!?この状況の、何がわからないとお前は言うんだ。気違いなのかっ!」
クルガンは否定しなかった。何かを確かめるように右手を握り、ゆっくりと開く動作をした。
エイアスが激すれば激するほど、彼との温度差は開いていく。
「──俺が殺したのは、お前達の敬愛する君主で、俺の敵だ」
「それは」
「そして俺はお前達の敵だ。憎むべき仇ですらある」
それは事実だった。
クルガンには、そこまでしかわからない。敵と、味方。
「それ以外に何を求める。俺にはわからない。お前達には何故──」
そんなに余裕がある?
「……例えば、俺に盛ったあの毒。効き目が早く効果も高いが、昏倒するのみで死には至らない」
「はっ、屈辱だったのか?」
エイアスは痛むこめかみに拳を当て、脇の部下に寄りかかった。
ぐらりと足元が揺れた。吐き気がし、気分が悪い。はっきりと目の前の男のせいだった。
言葉が通じない。そして、分かり合えない。何処まで近寄っても、差異が際立つだけ。
「言っただろう……俺達は事実が知りたかった!そしてお前に思い知らせたかった……お前がどれ程のことをしたのか」
エイアスの、そしてノードシュの世界に傷をつけた。
恩をあだで返すやり口で、だ。
クルガンはやはり、平然と言った。
「自分の行いを知らない筈があるまい」
「お前、まだそんな口が利けるのか……!」
顔を引きつらせて咄嗟に腕を持ち上げた部下を押しとどめる。
エイアスは苦い味のつばを飲み込むと、唇の端を歪めた。
「素直に悔いておけばいいだろう?……お前など、いつでも殺せるんだ」
「────」
「お前はあの方を殺した!卑怯な手で!せめて詫びようと思わないのか……!?お前は、全く、何も思っていないのか……」
何故か喉が詰まった。
そのさまをじっと眺めながら、クルガンは軽く頷いた。そうか、と呟き、何か納得した様子だった。
「──お前は俺が何だか、わかっていないらしい」
クルガンの言葉の意味が理解出来ないまま、エイアスは激昂にまかせとうとう理性を振りきり、片手を上げた。
クルガンに懺悔をさせることは諦めた。もう、いい。これ以上は、自分の方が憎しみに耐えられない。
それに反応し、警棒が、そしてあるいは剣が、振り下ろされる──
筈だった。
「!?」
クルガンは跪いた体勢からすっと優雅に立ち上がると、足を踏み出した。
頭上にかざされた剣を、エイアスの部下の手からついでのように軽く奪い取る。警棒の方は、そもそも避けるまでもなく軌道がずれていたようだった。
「くぅっ!?」
「え──?」
驚愕の声。視線。
エイアスも、呆然とその光景を見ていた。
クルガンは、普通に動いただけだ。目にも留まらぬ速さで移動したわけでも、超絶的な身のこなしを披露したわけでもない。
では何故こんなことが起こる?答えは──力の抜けたエイアスの足、そして胃の奥からこみ上げる吐き気だった。
「なっ」
エイアスが寄りかかっていた部下の体も──ぐにゃりと崩れた。
クルガンはその様子を眺めている。薄い唇が、やはり情緒のない言葉を吐く。
「──殆ど無味無臭のあの毒は、通常水に溶かした状態で保存する」
クルガンは右手に持った剣で、突き出された警棒を無造作に叩き落とした。蝿でも追うような動きだった。
「粉末に精製することも出来るが、その場合は厳重に密閉しておかねば数分で揮発してしまう」
揮発?
揮発とは──ぐらり、エイアスの頭が揺れる。これは、心因性のものなどではなく。
「そうして空気に混ぜて吸わせるやり方は、勝手がかなり悪くなる──密室でないとたちまち拡散するし、それでなくとも薄まった分効き目が遅くなり効果も下がる。狙った相手だけともいかないから無差別に被害が出る」
がくん、とエイアスの目線が下がった。
気付けば、現時点でまともに立てているのは、部下の半数ほどだった。その半数も、顔を歪めている。
「だがまあ……容器が不要な分、隠すには苦労しないな」
クルガンは再び右腕を振るった。
血がしぶいた。苦鳴が上がった。
数分前とまったく逆転した立場に、動揺の気配が満ちる。エイアスは、かすむ目を凝らして、その怜悧な容貌を見上げた。
「な、ぜ、お前」
無差別というのなら、毒を隠し持っていたクルガン自身に真っ先に効果が現れる筈。
クルガンは僅かに顔色が悪いくらいで、他の者のように平衡感覚が危うくなったりはしていないようだ。
「平気、なんだ」
「……お前達のおかげだろう?」
物を見る目線。
何処まで人の神経を逆撫でれば気が済むのか、クルガンはしゃあしゃあと言い放った。
「一度経口摂取したのだから耐性もつく」
「──っ!」
エイアスの前に立ち、クルガンは彼を見下ろした。
止めようとする部下は何の障害にもならないのだろう。ぴ、と血糊がエイアスの目に入った。
「繰り返すが……その毒では、死なない」
クルガンは呟いた。
エイアスは立ち上がろうとしたが、手足は動かない。眩暈。
せめて見苦しい真似はすまいと吐き気をこらえる。
冷えた目からは逃れられない。
「多少の苦痛はあるが、相手を無力化するだけのものだ」
「────」
「……お前達は俺を殺さないでいてくれた」
クルガンはゆっくりと、はっきりと、言葉を紡いだ。
それは拡散せずに、エイアスの鼓膜に突き刺さる。自らの行い、そして──
「仇を目の前にして、見事な自制心だ」
クルガンは、礼を言っているわけではない。
エイアスにもそれくらいはわかる。まったく理解出来ない目の前の男の言葉でも、それくらいはわかる。
「俺は恩義を感じるべきなのだろうな。命を、見逃して貰った」
「うわああ──!」
「くっ、貴様、」
「……見逃して、貰った」
どしゅ、と嫌な音がエイアスの耳を打った。
クルガンの持つ剣の切っ先は、どんなときも正確に心臓を貫くのだろう。クルガンが腕を引き戻し、部下の体が支えを失って崩れる。
びしゃり、と血のりと肉片を払う音。
「──さて、エイアス・ウィスディズ」
濡れた剣を自然に携えて、クルガンはやはり平静だった。
「俺は、動けぬ敵を目の前にして、どうすると思う」
エイアスを突き動かすのは、恐怖ではなかった。
憤怒だ。何故、という怒り。何故この世はこの狂った男を生かしておく?あの方を──見捨てて。
炎のような塊、言葉の切れ端が喉を焼いて吹き上がった。
「恥を知れ……!」
異口同音に、過去何度もクルガンに投げつけられた台詞を、エイアスもなぞった。言わずにはいられなかった。
エイアスの君主は、敵をそれでも人間と見ていた。分かり合えると。
けれどこの男は、違う。本当に、違う。
「……お前たちが俺にそれを理解させることが出来るのか?」
クルガンは冷えた声で訊いた。
目線はエイアスに据えながら、片手間に人を殺していた。いや、彼にとっては──人ではなく、敵を。
「都市同盟で恥を教えていたのなら、皇族の馬車を襲って無体を働いたりはすまいな」
「っ!!それは一部の先走った奴らがっ……!」
「ああわかっている。俺も、その一部だ──詮無いことを言った」
クルガンはまた一歩踏み出した。
軍靴に血が跳ねる。当然のように。
「正しさを、大義名分にするなど反吐が出る」
正々堂々と敵を倒す事と、暗がりで後ろから敵を刺す事の違い。クルガンは全くわからない。
クルガンは、ハイランドではない。ただの汚い男だから、きっとどんな事だって出来てしまう。
「──責めればいい。詰ればいい。卑怯者と罵れ。後々まで残る汚名をいただこうか。そして負けてくれれば俺は満足だ」
ただ──それだけのことだ。
誰かを納得させられる理由など、クルガンはひとつも持ってはいない。皮を剥いでも、溢れ出るのは同じ泥水だ。
「俺が考えるのは、この地の事のみだ」
クルガンにはわからないのだ。
愛するということが、そんなに甘いものなのか。
「何故……お前は。お前はそれだけか……!」
エイアスは、呻いた。
心の何処かで冷静な自分が首を振っている。だが、エイアスの唇は動いた。
「親はないのか。友は、友人は、恋人は──尊敬に値する、主は!お前が欺くその敵も、大切なものがあって戦っているんだ!それを──何をやって踏み躙ってもかまわないと──」
「まだ、わからないのか」
クルガンはエイアスの台詞を遮った。
視線に憎しみの色はなく、悲しみの色もなかった。ただ、灰色だった。そうであるだけだった。
「俺の所業を知っても……まだ。人の命は皆平等と、そう詠うように見えるのか」
人格者だろうが、恩人だろうが、理想があろうが正義があろうが、それが敵である限り、クルガンには関係がなかった。
自分が何者か、良く知っていたからだ。
言い訳をしないのではない。
出来ないのだ。クルガンを肯定するものは何もない。
「敵と味方と、俺が天秤にかけるように、見えるのか?」
質でも──量ですらも、ないのだろう。その線引きは、酷く偏っていた。
部屋からは既に、二人の話し声以外の音が絶えている。
変わらない眼差しを前に、エイアスは諦めた声音で言った。悔しさに、声が震えた。後悔でもあった。
──なりふり構わず、殺しておけばと。
そして一瞬後、激しくその思考を拒絶した。エイアスは、クルガンと同じにまで成り下がるなど真っ平御免だった。
決別の瞳で、目の前のものを突き刺す。
それしか、出来ることはない。やってやる義理もない。
「お前……悪魔だ。人じゃない」
やはり、真新しい台詞ではなかった。
「では訊こう、『善き人』に」
クルガンは僅かに指先に力を込めた。ぬめる剣は、血を吸って切れ味を鈍らせている。
──真っ当な非難など、届かない。
クルガンは、道ならば選んでしまっているのだ。もうずっと前から。
エイアスの言葉は、現実を何も動かせない。
「ここで俺が罪に震え怯え涙を流しながら剣を掲げるなら」
「振り下ろす先にある結果が変わるのか?」
ざんっ
「そんな救いは、ない」
それで得られるのは、他者の好感と同情だけだ。
一瞬後。
床に赤い弧を描いて、エイアスの首が転がった。