『暗殺者』
取り合えず、シードには次の夜を待つ気は全くなかった。
あれ程胸の悪くなる経験は一度で十分だ。
では何をしていたかというと、シードは自分に出来ることをしていた。
指先と腕に力を込め、反復運動を繰り返す。
「ふっ……!」
気合とともに腕を振り下ろす。
今度はどうやらうまくはまったらしい。
現在懲罰房に入れられているのはシード一人で、その一人の為に足を運んだ給仕の持つトレイから、シードは木製のスプーンを掠め取った。
そうして、スプーンがないと喚いて駄々をこね、更にもう一本持って来させた。それも返さない事で着服した。
給仕は紅茶色の髪をした気のいい男で、シードの嘘にも気付かず厨房と懲罰房とを往復してくれ、シードは本心から彼に感謝の言葉を述べた。
勿論、蜘蛛の死骸と粘つく糸は彼の視覚に触れないように隅に隠していた。
さて、懲罰房の壁は石作りである。
そして、懲罰房は限りなく牢屋に近い構造ではあるが、牢屋ではない。
何が言いたいかというと、その気になって必死に頑張れば、脱出が可能だということだ──多分。
そう考えて、シードは壁を登っていた。目指すは、高いところに設置されている窓兼空気穴である。
漏れる光は、確かにそこが外界と繋がっていることを示していた。
シードは自分の力を(馬鹿力と言われる事もあるが非常に役に立つ)自覚している。
木製のスプーンでも、力を込めれば十分に壁の石と石の間に潜り込ませることが出来る。
「くっ……」
呻きながら、楔の要領で壁にスプーンを打ち付け、両手の力のみぶら下がりながら少しずつ壁を這い上がっていく。
つくりが杜撰なために、壁の凹凸が激しいのが救いだ。取っ掛かりが多い為、つま先だけでも引っ掛けられる。
「すげーえ原始的ぃ……」
自分の姿を客観的に想像してぼやいた様子は、いつものシードだった。
シードは勿論、ショックを受けていないわけではない。
昨夜言われた台詞には頭がくらくらする程のダメージを受けた。直接的な悪意は臓腑をえぐる。
しかもその前には同室の友人三人の悲惨な死に様を見ているのだ。事実、シードは一晩呆然としていた。
傷つかない方がおかしい。悲しく、痛く、ないなんてことがあるわけがない。
が、シードはそのまま座り込んだりしない。
自分に出来ることは、自分が出来る限りやるべきだ。シードはそう思う。
無論、シードにも出来ないことはある。シードは自分のことをそれなりに強いと評価していたが、誰にでも勝てるとは思っていないし、世の中腕力で片がつくことばかりではない。
知っている。
だが、悲壮な顔で床に手を着き悩んだり、涙を流して悔恨にくれるのは、暇な時でいい。薄情だと言われようとも、自分は走るだろう。
泣き喚きながら走るだろう。
今のシードには目的がある。
頑張っても出来なかったら?
そんなことを考えている暇があるなら更に頑張れ。
シードはそう思っている。
+++ +++ +++
寒い。
一番最初に感じたのはそれだった。
クルガンは現状を把握してから目を開いた。どうにも無様なことだ。
意識が途切れる前と状況が変わっていなければ、自分が倒れているのは自室の床だ。そして原因は──水差しに混入されていた毒だろう。
命に別状はないとクルガンは知っていた。毒物、そして暗器の類には少し詳しい。
これは、意識を奪って苦痛を与えるだけのものだろう。吐瀉した気配はないし、活動も可能なのに酷い吐き気と頭痛と眩暈は続いている。耐性ならば僅かに備わっている為、我慢できないほどのものではないが。
あたりの明るさから、精々二刻ほどしか経過していないと判断する。
油断していた。クルガンは素直に認めた。
いくらルルノイエの中だとて、安全ではない。確認もしないまま飲食物を摂取するとは、少々ぼけていたようだ。過去を思い出しながら自嘲する。
城内に、クルガンに恨みを持つ者、もしくはその手先が確実にいるのだ。心当たりはありすぎて特定できない。
「……!」
身動きをした途端、首筋に痛みが走った。
眉をしかめ、クルガンは慎重に身を起こす。
首に触った手にはべたりと血がついている。
原因は──床に突き立てられていた、細身のナイフ。
横たわっていた首の真横に、深々と。
それが意味している事実に、クルガンは、す、と目を細めた。彼を傷つけた凶器よりも鋭い、視線。
低い声で唸る。
「その気になれば……簡単に殺せた、と?」
ぱちん、と軽い音。
銀の刃に散った火花が、木の床に小さな焦げ目を作った。
「恩着せがましいぞ」
無造作に、クルガンは刺さったナイフを抜いた。
不快だった。毒のせいもあるが、この状態すべてに不満を覚えている。
クルガンは、自身を掻き乱すもの、自身で制御出来ない事象をひどく嫌う。
ナイフには手紙がくくり付けられていた。それを外して開く。
何が書いてあるにしろ、気分が良くなることはないだろう。だが、犯人の手がかりにはなる。
「…………」
内容は、別に大したものではなかった。ただの呼び出しだ。
時間と場所が書いてあり、ご丁寧に人質まで用意されている。
差出人の名前はなかった。
小細工を用意する暇はなさそうだ。誰かに加勢を頼む気にもなれない、これはクルガンの業だからだ。
そして人質──Sergeant major, SEED……?
ざっと脳内を検索して、クルガンはそれが変種の赤猿の別名だと思い当たった。
ため息をついて、くしゃりと紙を握り潰す。
厨房の料理見習いでも捕まえていてくれた方が、まだやる気が出るというものだろう。相手側は何か勘違いしているとしか思えなかった。
だが、あれでも一応皇国兵に変わりは無い。
ならばクルガンの採る行動はひとつだった。
+++ +++ +++
「ふっ……!!」
窓の格子に──手が、届いた。
シードは片腕懸垂で状態を引き上げると、もう一方の手にも格子を掴ませた。
外が──見える。
シードは腕の力だけで体を支えると、足を浮かせ器用に体を丸めた。つま先を格子の隙間に潜り込ませ、握力を僅かに緩めると腹と腕の筋肉を利用して身を起こした。自然、握った手の位置が格子の中ほどまで移動する。
しっかりとした足場を確保。予定通りだ。
格子の鉄棒は顔がすり抜けるくらいの間隔で設置されている。
ふう、と深呼吸をすると、シードは両腕と両のこぶしの筋肉から疲れが取れるまでしばらく待った。後は、この格子を歪めれば良いだけだ(勿論、今シードが軽く言ったことが誰にでも出来るというわけではない)。
シードはぼんやりと外を眺めて新鮮な空気を吸っていたが、やがてあることに気づいた。
「……んだよこれはよ……」
シードは片手を伸ばした。そして僅かな痛みとともに確かにそれがあることを確認し、盛大なため息をついた。
砦の裏手にしょぼしょぼと生えている雑草の少し手前、丁度シードにとって出口となる空間が、光線の加減でたまにきらきらと光る。
何故かと言えば、そこには無数の鋼線が張り巡らされているからだ。素手で触れば肌を切り裂くほどに細いそれ。
錆びていないところを見ると、設置されてまだそれ程時間が経過していないのだろう。
嫌がらせ以外の何物でもなかった。読まれていたということか、とシードは項垂れた。
そして一秒、再び顔を上げる。
「上等」
野生の獣が笑うとしたら、こうだろう。
シードは唇を吊り上げて、両腕に力を込めた。それは人を殴り殺すことさえ容易い、シードの武器だ。
ぐ、ぐぐぐ、ぐぐ
ぱら、と乾いた石のかけらが剥落する。
ぷちん、と音がしたが、シードは無視した。どうせ腕の毛細血管か何かが破裂した音だ。
──『火事場の馬鹿力』という言葉がある。
危機に反応して、普段は筋肉を守るためにかけてあるストッパーが外れるのだ。
どうやら、シードはそのストッパーが随分と緩いらしい。
子供の頃は扱い切れず、随分と痛い思いをした。長じてからは、それを使いこなすことで──やはり結構痛い思いもしている。
けれど、シードはこの力に感謝している。
身を削りはしても、この手に掴めるものが増えた。選択肢が増えた。出来ることが増えた。
そう、力が全てだとは真っ赤な嘘だ。幼い頃、この力によって傷付けたものを見て、シードはそれを知っている。
だが、シードは望まずにいられない。もっと高く、もっと速く、もっと強く──意思を貫き通すために。
──自分が望むのは、挑み続けることだ。
「…………!!」
派手な音はない。
鉄の棒がゆっくり、ゆっくりと引き伸ばされ、くの字に曲げられていく。
こめかみに浮いた汗が、頬を伝い、顎から落ちる。手のひらがじっとりと湿って来た、滑らないように握力を増加させなければならない。
ぎしぎしと鳴っているのは格子か、シードの筋肉か。シードとて、全力を出せるのはそう長い時間ではない。
「────っ!!」
斜めにすればぎりぎり肩が通るくらいの空間を作り上げると、シードは深く息をついた。
鋼線を見据えると、上げた足の裏で触れる。
鎧を蹴り砕く時以外にも、このブーツは重宝する。履いていなければ、随分と痛い思いをして、指の何本かは失わなければならなかっただろう。まあ、そうだとしてもシードはやはり目的を達したには違いないのだが。
きしり、と悲鳴を上げる鋼線が、靴の裏に食い込んだ。だが、流石にそこに仕込まれた鉄板を切ることは出来ないのか、シードの足はじりじりと進んでいく。
ぶつんっ
弾けとんだ鋼線の一筋が、シードの額を切り裂いた。
頓着せず、空いた空間に身を滑り込ませる。腕と足が少し切れたが、それも些細なことだ。
全身に日の光を浴び、シードは伸びをする。
凝り固まった筋肉をほぐし、鼻を伝った血を拭う。
息を吸い込み、深く吐き出す。
覚悟なら既に決めている。
シードはいつも一生懸命なのだから。
身に宿る衝動を、飼いならす気はなかった。
さて、反撃開始だ。