『暗殺者』









完璧な暗闇と言うのは、とても恐ろしいものだ。
だから何も無いただの四角い空間に、懲罰房という名がつくのだろう。

勿論、押し込められたのは罰ではなく、取調べ、もしくは保護と言う名目だ。
けれど、上官の真意はそこにはないに違いない──面倒な事件を起こした者を、とりあえず隔離する。臭いものには、という奴だ。事実、シードは最初に一度だけ事情を聞かれたのみで、後は放置されている。

まさかシードが三人を殺したと本気で信じてはいないと思うが、そういうことにしてあっさりと事を片付けても不自然ではない気がする。
シードの主張が聞き入れられても──心当たりのない状態で犯人が見つかるとは思えないし、そもそも命を狙われるようなシードが悪いと言う評価が下っておかしくない。

なんにせよ、シードの出世の道は殆ど絶たれたといってもいいだろう。
懲罰房行きになったような輩は敬遠される。むしろ、降格すら考えられる。

自身の手のひらさえ見えない暗闇の中で、感じられるのは触れている床の感触のみだ。
それすら不確かに思えてくるのだから、神経の細い奴なら一晩で参ってしまうに違いなかった。

昼間のうちはぼんやりと日が差すのが救いだ。
後は、一日に二度、食事が運ばれる瞬間か──幸運なことに、厨房からの使い走りは気の良い輩で、嫌がらせもなくきちんと自分の務めをこなしてくれた。性格のひね曲がった奴なら、トレイに潰れた鼠の死骸を入れたり、目の前で『うっかり』食事を床にぶちまけるくらいのことはする。

事件から丸一日が経過しようとしている今、それくらいのことは考えていた。

暗い。ひたすらに暗い。
昨晩も暗闇はあったはずだが、そんなことまで気が回る精神状態ではなかったので平気だった。
そして今夜は──そんなことを気にするよりももっと確実な危険があった。
だからシードは、暗闇を恐れている場合ではなかった。

極限まで息を潜める。
全く明かりが無い状態では、いくらシードの目が良いといっても役には立たない。
自分の鼓動すら、相手の気配を掴むのに邪魔だ。せめて、ここが乾いた土面であったなら、障害物もあり、相手の移動する音も少しは聞き取りやすかっだろうに。
懲罰房の、湿って冷たい滑らかな床を恨みながら、シードは半ば腰を浮かした体勢で耳を澄ませる。

シードが、それの接近に気付いたのは、臭いのおかげだった。
黴臭い空気に紛れた、その吐き気を催す臭い。眠り込んでいなくて本当に良かった。流石にシードも、気が張っていたのだろう。

広いとはいえない房の中、安全な場所はひとつとしてない。
先ほどは罪のない床を恨んだが、もしもここが土面でも、不利はあまり変わらなかったかもしれないと思う。相手は、床だけではなく、壁も、天井も、伝うのに支障は無いだろうから。さらに言えば、相手は自分の領地も広げられるし、シードがそれに腕や足を絡めとられれば一環の終わりだ。

相手は、明るい場所で剣でも持っていれば、一振りで止めを刺せる存在だ。それが今は途方もない脅威──こめかみにじんわりと汗が浮かんだのを自覚する。

人を襲うモンスター、毒蜘蛛。

進入してきたのは、勿論シードのはるか上空にある空気穴だろう。
人間の頭が入るより少し大きめの隙間があれば、相手にとっては十分だ。

「…………」

どく、どく、と心臓の音に紛れて、空気が動いている。
何かが、ひっそりと移動しているのだ。粘つく糸を吐き出しながら。軽い生理的嫌悪感に、背筋がぞくりとした。

このまま時を進めても不利になるだけだと言うことはわかっている。いつかは巣につかまり、そうすれば相手は振動を頼りに一目散にシードの元へやってくるだろう。
毒を食らって、人はどれくらい動けるものだろう?明日の昼まで生きていられるだろうか?つまり、シードに食事を運びに人が来るまで。

考えは暗い方に進むばかりだ。
迂闊に動くことは出来ない。武器もない──いや、あると言えばあるのだ。シードの軍靴の底には鉄板が仕込んであり、十分凶器として通用する。
が、この真っ暗闇でめくらめっぽう足を振り回すのはどう見ても得策とは言えないので、役に立つとは言い難かった。

せめて相手の位置が特定出来れば、手の打ちようもある気がするのだが、自分の吐き出した糸の上を伝う蜘蛛が立てる音など皆無に等しい。それは、いくら耳を澄ましても依然として僅かな気配以上のものはつかめないことからも知れていた。

全て自分の妄想ならいいのに、とシードは思った。
本当は、ここには毒蜘蛛などいなくて、明日の朝まで寝ていても何の問題もない空間だったら。

けれど、時折かすかに動く空気と、やはり確かにする臭気が、シードに警告を与えているのだ。
──こんなところで死にたいか?と。答えは明確にNOだ。

大体が、毒蜘蛛がこんなところに自然に現れるわけがない。
奴らの生息範囲は、もう少し南の暖かい場所。このあたりで全く繁殖していないとは言い切れないが、少なくともシードは見かけたことがなかった。

つまり、これも──何者かの明確な、悪意。もしくは、殺意。

赤い血。
毒々しい薊の花の色。

か、と頭に血が上った。
同時に、奥歯が勝手に食いしばられる。
シードはその『何者か』をけして許すことはないだろうと思った。きっと、自分の手でけりを着けねば悔いが残るとも思う。

「…………」

シードはゆっくりと動いて、靴を片方だけ脱いだ。
ずしりと重いそれを右手に持ち、一番近い隅へと向き直る。
こぶしに力を込めて、低い姿勢で腰を上げた。

覚悟を決めろ。

たわんだバネを想像する。
全身の筋肉を縮め、解き放つ瞬間。ぎりぎりまで引き絞られた弓を。

これは賭けだ。

靴を、隅に向かって(多分、としか言い様がない昼間の記憶を頼りにしてだが)放る。
一瞬の後、前方の空気が上下に揺れ動いた。
──引っかかったのだ。

「……!」

そして、ぞろり、と何かが反応する──






+++ +++ +++






どれくらいの時間が経っただろうか。

かつん、かつん。

暗闇の中──音が響く。

かつん、かつん。

半ば放心状態で、それを聞く。
あれは──階段を下る、足音?

ぬるついた体液が肌に染み渡って、気持ちが悪い。
生臭い粘つきが、体のそこかしこに張り付いている。口の中まで何か絡んでいるようで、唾を吐き出した。

壁と、シードの肩の間で潰れている毒蜘蛛の胴体(もしくは、頭)には、温度といえる温度は無い。
さっきまで、けして逃さないように渾身の力を込めて挟み潰していたのだが、もう蜘蛛は絶命しているらしかった。奴がつぶれた瞬間の音はもう思い出したくない。
体中に絡みついた糸のおかげで、自由に手足を動かすのが難しい。虚脱した状態で、シードはもたれ掛かっていた。

もう少しでも突進力が足りなかったら、シードは糸に絡めとられて壁まで辿り着けなかったろうし、壁がもう少しでも遠かったなら、蜘蛛は途中で体当たりから逃れ、シードの首筋にでも噛み付いていただろう。

ひどく疲れていた。
緊張していた全身からは一気に力が抜け、気持ち悪い蜘蛛の死骸を取り除くために絡みついた糸をほどく努力すら、今は出来そうに無い。

かつん。かつん。

シードは薄目を開けた──光は無かった。
ただ、誰かが喉の奥で笑う気配がした。

潜められた声が、シードの鼓膜を打つ。

「──生きているか?」

それを聞いたとき、頭の中が燃えた。
ぶちぶちと音がする──それは、血管が切れた音ではなく、蜘蛛の糸をシードの腕が引きちぎった音だと、そのときは気付かなかったが。

一番そばにあったものを引っつかみ、声に向かって投げつける。
蜘蛛の死骸はべちゃりと音を立ててどこかにぶつかった。声の主にではないことは、相手の気配からわかった。

「……死んでたまるか!」

シードの叫びに返るのは、押し殺した笑い声。
楽しくて、嬉しくて仕方が無いというような。

「そうだ。そう簡単に死んで貰っては、困る」

──男だ。
潜められた、空気の音交じりの声からは、それくらいしかわからない。

「何故だ……!」

気配が、すぐに立ち去ろうとするのを敏感に察して、シードは立ち上がった。
このまま帰すわけにはいかない。
しかし足に絡まった糸のことを忘れていたので、シードはなすすべなく転倒した。
気にせず、そのまま問いを投げつける。

「何故こんな事をする!?目的は──」
「ふたつ、理由がある」

極限まで小さなその声が、シードの怒声を遮った。

「ノードシュ砦の戦で破れた都市同盟の奴らに協力している」
「ノードシュだと……?」

まさか、人違いではないのか?とシードは懸念した。ノードシュでの戦いにシードは参加していない。
だからと言って、皇国兵である以上関係が無いとはいわないが、個人的に狙われる理由にはならない。

シードが考えをめぐらせている間にも、擦れた声は続けた。

「卑怯な手口で君主を討たれた」
「……」
「出来るだけ苦しませて殺したい」
「……」
「自分のしたことを後悔するように」
「……まさか」

シードは思い当たって呻いた。

「クルガン……か?」
「──」
「馬鹿馬鹿しい……!!」

肩をいからせて吐き捨てる。なんという勘違いをしてくれた。
そんな──そんな、事で。

「俺がいなくなったらアイツが悔やんで泣くとでも!?ふざけんな、それだけの、ためにか……!」

少し、沈黙があった。
シードは床を押して起き上がり、再び吼えようと口を開いたが、その瞬間を狙い済ましたように、声が飛んだ。

「──責任が転嫁出来る相手がいて、安心したか?」

悪意が、シードに突き刺さる。

「!?」
「安心したか?」
「何を──」
「残念だな」

鼠を甚振る猫のように、男は、笑いの中に冷徹さを浮かべている。
ゆっくりと、ゆっくりと、致死量には満たない毒を杯に注ぐように。

「俺が奴らに協力する理由は別にある」

かつん。かつん。
足音が、遠ざかり始める。シードは必死に耳を済ませて、独り言に近いその呟きを追った。

「今日は生き延びた──明日は、耐えられるか?その暗闇の中で」

声は、潜められている分だけ余計に感情が凝縮されているようで、それは。
死ぬまでに、出来るだけ──

「苦しめ」

と。
乾いた唇に、空気が痛い。
シードは目を閉じた。見えるのは、同じだけの暗闇だ。

「俺は純粋にお前が憎い」




「目的は、復讐だ」

そして、その声は続けた。
俺は、ハイランドの人間だ、と。