こみ上げる吐き気に、耐え切れずクルガンの膝が砕けた。
力の抜けた左手が、水差しを取り落とす。

陶器の砕ける音、その破片の上に右手を付く。何処か切った筈だが、感覚が鈍く伝わらない。
三半規管は真っ先に麻痺していた。胃がせり上がってくるような不快感──これは。もしや。

「ぐっ……」

がくん、と首が折れる。
額が冷たく硬いものにぶつかり──多分床だ──クルガンの意識はそこで途切れた。






『暗殺者』







目の前には、粉々に砕けた砥石。
後一歩前に踏み出していれば、シードの頭もそれに混じって辺りに飛び散っていただろう。
その光景を想像して、気分が悪くなった。

「…………」

天中殺──多分、そう言った類のものだ。
シードはこの三日間に起こった出来事をそう片付けようと努力したが、やはり無理なものは無理だった。





シードの所属する第四軍第七師団は、ハルモニアとの国境に位置する砦に駐屯中だ。
大体半期ごとに交代で、ルルノイエの部隊と交代する仕組みになっている。

都市同盟との境とは違い、一応ハルモニアは同盟国(もっとも、向こうの方では属国と言っているのかも知れないが)であるため、一触即発の緊張感はない──筈である。

足元の破片を靴の裏でざっと隅のほうへ寄せると、シードは上を見上げた。
砥石が、丁度シードが通りかかった瞬間に、あの窓から、何らかの原因で落ちてきただけだ。
何の問題もない。
んな訳あるか。

武器庫に入った途端に槍を束ねていたロープが切れてこちらに雪崩のように倒れこんで来ようが、演習場で誰かの放った流れ矢が耳の真横に突き立とうが、乗せてもらった馬のあぶみがいきなり切れて転落、危うく踏み潰されそうになろうが、朝食のスープに大きな甲虫が入っていようが──そのうちのどれかひとつなら、シードも偶然ということであっさり片付けたに違いない。

けれど、この短期間にこれだけ惨事が続けば、何者かの悪意を想定するほうが易しい。というより、それ以外にないだろう。

しかし──どうすればいいのだ?こんな場合は。

『皇国兵』ではなく『シード』が命を狙われています、など、誰に報告しても意味がない。
尚且つ、これが一番重要なのだが──もし、シードに殺意を抱くものがいて、もし、それが皇国兵だったとしたら──どうなるのか具体的な予想はできなかったが、まず収まりのいい結末は迎えられないだろう。胃の辺りが重くなる。

シードに思いつく答えはひとつしかなかった。
自分自身でどうにかして犯人を突き止め、出来るなら秘密裏に片をつけることだ。

どうするか、と三秒ほど考え、あっさり行動を決めた。
時間をかけたところで、頭のいい作戦を思い付く筈もない。早々に夜間外出許可を願いに行くことにする。
せいぜい決着のつけやすい舞台を用意してやればいいことだ。

後、調達しなければならないのは、武器だろう。
一平卒が帯剣したまま外に出ることなど出来ない。私用なら尚更である。
シードは許可を得た後部屋に戻ると、ついこの間なけなしのへそくりで購入した短刀を袖に忍ばせて、夜の街へ繰り出した。

無鉄砲、と言う言葉をシードは知らない。






+++ +++ +++






飲み屋で一杯引っ掛けた後、わざと少しだけ足取りをふらつかせ、人通りの少ない路地裏に向かう。

明らかに見え透いた罠だが、相手はこの好期を逃しはしないだろう。シードにもし恨みを抱いているものなら尚更、何か接触を持ってくるはずである。

何度か角を曲がり、周囲の気配を探る。
野良犬が、シードを姿を見て遠くに逃げ去っていった。

「……」

L字路を覗き込む。
行き止まりだった。

都合のいいところを選びすぎたかな、とシードは思ったが、いまさらやり直しはきかないだろう。
壁に背を預け、立つ。逃げ出すことは出来ないが、一度に襲い掛かられる心配も無い。唯一不安なのは紋章だが、発動前に距離を詰めれば良い。

多対一の戦闘には慣れていた。シードはよく戦場では突出しすぎて囲まれることも多いので。
街頭の光も、ここには届かない。しかし月が十分に明るいので、そこまで困ることも無いだろう。

シードは短刀を抜くと、相手の出方を待った。

「…………」

じっとりとした空気に、背中に汗が浮かぶ。
恐怖ではない、と思う。緊張はあるが。
風すらそよがない閉じた空間。

ひと時、ふた時。
神経が研ぎ澄まされ、時間の感覚が薄くなっていく。

殺意を嗅ぎ分けろ。

「…………っ!」

右脇の塀の上に気配が出現。
咄嗟に視線を向けるが──そこには猫の金色の瞳が二つ輝いているだけだった。
溜息をついて目をそらす。その隙に猫は逃げた。

「…………」

木々のざわめきは、既に背景音楽として知覚から除外されている。
遠くに聞こえる、酔っ払いのわめき声。

もし、顔見知りだったら自分はどうするのか。
そんなことはわからない。
大体、まだ出ていない結果を想像して気分を暗くしたところで、何か得があるわけでもなかった。

「…………」

一秒、二秒。
心の中で数を数え、神経を研ぎ澄ませてゆく。

「…………」

三分──四分。

「…………」

無情に一刻が経過。

「…………あれ?」

死ねと叫んで飛び出してくる人影も、放たれるナイフも、矢もない。
何も起こらない。

あおーん、と何処かで犬の遠吠え。

「……」

シードは拍子抜けして──しかし物事をうじうじと引きずる性格でもないので素直に──来た道を引き返した。
もしかして本当にただの偶然だったのだろうかと、いぶかしみながら。






+++ +++ +++






だが、勿論、それだけで終わる筈が無かったのだ。
予想だにしない展開が、彼の頭を容赦なく殴りつける。

「な……」

呆然と目を見開く以外に、何が出来たと言うのか。
砦で割り与えられた自室に戻ったシードを出迎えたのは、悪夢だった。

二度、三度と瞬きをしてみても、その光景は変わらない。
袖の中から、がしゃりと短刀が落ち、床に突き刺さる。
それにも、シードは気付かなかった。

こみ上げる吐き気。

無意識に、ふらりと足が下がる。
どん、閉めたばかりの扉に背がぶつかり、退路は無いのだとシードに教えた。

「う……」

窓を挟んで、二段ベットが二つ並んでいる。
それだけの、本当に狭い部屋だ。毎日シードが疲れた体を休める部屋。

シードのベッドは、右側の上段。
当然のことながらそこは空だが、他の三つは全て埋まっている。今は真夜中。
それだけなら、シードがこんなにショックを受けるはずは無い。

ベッドで三人が──ただ、眠っているだけならば。

「……ベルギス?」

じわじわと床に広がり続ける赤。

「ティリー……?」

眼窩と心臓に剣が突き刺さっていれば、最早状態は誰の目にも明らか。
だが、シードは彼らの名を呼んだ。そうする以外に何が出来たと言うのか。

「ディータ……!」

ついさっき──外出時に言葉を交わした筈だ。
信じられない。信じたくは無い──だが、これが現実だと、鋼の煌きと生臭いにおいがシードに伝える。

戦場では珍しくない。
だが、これはそんなものではない。




物言わぬ屍となった、同室の兵士。
その上に撒き散らされた、毒々しい色の(あざみ)の花。
手向けのように、祝いのように。

見え隠れする、明確な──悪意。





「──うあ……ああぁぁああぁあああああぁあ!!!」





シードは叫んだ──咆哮した、といった方が正しいか。

その声を聞きつけ、複数の兵士が部屋に飛び込んできても。
室内の惨状を見つけ、彼らが驚きと疑問の声を上げても。
取調べの為に、地下の懲罰室に拘束されても。
そのまま全くの暗闇の中に放置されても──

シードの目には、その光景が焼きついたままだった。