『休日』







「よぉよぉ兄ちゃん。男前だねぇ」
「おう、サンキュ」

顔も見ずにさらりと言い捨てて、シードはその場を去ろうとした。
がっ、と壁に打ち付けられて道を塞ぐ、野太い足。悪意満点の笑み。くさい息。

「んだよ」
「こっちの台詞さ、坊主」

男は、下からにらみあげるようにしてこうのたまった。

男前から坊主にいきなりの格下げ。男の脳内にどんなレボリューションが起こったのか、シードは考える気もない。

どちらかというと、相手を叩きのめすより手加減の方が苦手なのだが、その努力をするに値する相手だろうか?しかし、まずは相手の用件を聞いてからにしよう。もしかしたら、彼はシードが落とした清潔なハンカチか、白い貝殻の小さなイヤリングを拾ってくれたのかもしれない。

シードはもう一度繰り返した。先程の問いは、純粋な問いかけであって、ただの罵倒語ではないのだと、わかりやすいように、疑問符を足して。

「んだよ?」

公用語は通じなかったらしい。

「……」

いきなり飛んできた大振りな拳を、シードは身を沈めて避けた。
反射的に上がった足が、相手の股間を直撃する。

これは痛い、と、何故かシードが顔をしかめた。

「!」

男の顔があまりに悲痛な表情を作ったので直視できず、シードは三歩下がった。いや、勿論ここまでする気はなかったのだ。
あまりに無防備に大股を広げているものだから、ついつい足が滑った。同じ性別を持つものとして同情に耐えないが、やはり手加減というのは難しい。要精進。
シードは心の中で0.3秒だけ男に同情してから、その脇をすり抜けた。

「まっ……待ちゃあがれこのガキ!」
「また格下げか」

しかし、根性はあるらしい。シードでさえ、あれほどのダメージを負ったら逃げる以外の選択肢を思いつかないというのに。
シードは振り返らずに、肩越しにひらひらと手を振った。勇者にはチャンスを。

「待っても良いけどよ……止めとこうぜ?アンタが真っ直ぐ立てるようになるまで、多分半刻くらいかかるから」
「ふざけんなテメっ……調子乗ってんじゃねぇぞ!ここらを歩けなくしてやる!!」
「俺はいつでも絶好調だよ」

遠くからアンタの幸せを祈ってるよ。
そう続ける前に、後ろから飛んできた角材を、シードは首を縮めて避けた。そしてため息をつき、もう一度向き直った。

路地に濁音が響き、次にシードが歩き出したのは3秒後だった。






+++ +++ +++






「やぁやぁ兄ちゃん、男前だねぇ」
「……何、ルルノイエで流行ってんのその挨拶」

シードは眉を寄せて、目の前を塞いだ男の顔を睨み付けた。
警戒に反応して、男が慌てて首を振る。

「ちょ、ちょっと待てよ。俺はさっきの喧嘩を見てただけさ」
「喧嘩?」

した覚えがない。ついそういってしまったが、言った後で、角材で殴りかかられたときのことを思い出し、ああ、と納得する。
あれのことだろう。シードとしては、あれ程度を喧嘩と数えた日には、相当物騒な男と定義されてしまうので、御免こうむりたいのだが。

前の男とは違って敵意はないようだ。前の男のように、殴り倒して道をあけさせるのはまずいか。
取り合えず普通モードでの会話を試みる。

「えーと……俺に何か用?」
「兄ちゃんが奴の狙ってた女に惚れられた時は、ああ、災難だなと思ったが。心配ご無用、無茶苦茶強いじゃないか!」
「俺の話聞いてる?」
「その強さを見込んで誘うんだがな……割の良いバイトがあるんだよ」
「あ、俺一応公務員だから副業禁止」
「皇国兵か!道理で強いモンだね」

文官や配達員という選択肢が浮かばないのは、内に秘められた実力が知らず知らずのうちに醸し出されているからだと思いたい。

シードが歩くのを邪魔はしないようだが、男は忠犬のように愛想を振りまきながらついてきた。シードの受け答えはどうでも良いようだ。

「でも大丈夫さァ、規定が変わって一般兵はオッケーになったんだ。3日前だけど」

仕官には、外出時も階級章の着用が義務付けられているので、容易に区別がつく。

「……その情報を信用する根拠がどこにも見あたらねぇ」

男は、頭をかきながら愛想笑いをした。少しもかわいくないので、シードの心情はまったく動かない。

角を曲がって大通りに出ながら、シードは考えた。せっかくの休日、どうして声をかけてくるのが野郎ばかりなんだ?

「金が稼げるし、鍛錬にもなるし、女の子にもモテるぜ?」
「……」

少し気持ちが揺れた。
しかし、うまい話には裏があって当然だ。安いものに簡単に飛びついては大体ろくなことにならないと、シードは知っている。

「さらには名誉もついてくる!うまくいきゃ、この辺りで絡まれる事なんてなくなるさ」
「……この状況は、絡まれてるって言わねぇの?」

シードとしては、まだ角材かついで啖呵を切ってくれた方が早く片付いて都合がいい気がするのだが。

「うーん。いや勿体無いじゃないか、そんだけ強いのに。誰にでも出来るバイトってわけじゃないんだぜ」
「護衛?用心棒?喧嘩の戦力?仇討ち?殴りこみ?その仲裁?」

どれも面倒だ。
男は首を振って、にやにやと笑いながら胸を張った。ぱあ、と腕を広げて(それで通行人Aの目をつぶしそうになって)アピールする。

「残念。いい線行ってるけどね。もっとエキサイティング!スリリング!手に汗握る大活躍!」

それ、戦場よりも?

シードは鼻で笑って、大荷物を背負った驢馬のために道を空ける。ぶぎゃ、シードの背中にぶつかって、男が意味のない声を上げた。
それを肩越しに眺めて、確信を持って訊く。

「賭け試合?」

男は満面の笑みになって、拳を突き出して見せた。

「ビンゴォ!」
「死語だし」

シードはため息をついて、スピードを上げて歩き始めた。
休日の大通りは人で溢れている。少し距離が開けば、もう合流は不可能だろう。
そう思ったのだが、林檎を籠一杯に抱えた女に道を譲ったらもう追いつかれた。計算違い。ここまで人が多いと、まったく動けない。

「え、え、何よその反応」
「何って。賭け試合なんざ興味ねえもん」
「かーっ!!クールだねェ!」

拍手喝采の真似。ものすごく鬱陶しい。
シードは半眼になって言った。

「俺にしつこく声かけるのは、アレだろ?」
「アレってなんだい」
「……俺をスゲェデカい筋肉達磨か鈍ケツにぶつけて、レートを大幅に偏らせて、で、俺に賭けてボロ儲けするとか。道端の通行人からチャレンジャー募って、『アレになら勝てるかも』って思わせといて、ガンガンふんだくるとかだろってんだ」
「……兄ちゃん、確かにパっと見普通だからねぇ」
「おう。陽気な男前だ」
「確かに、詐欺にはもってこいだよ」

うんうん、と男はうなずくと、きらりんと目を光らせた。
誰が聞いているはずもないのに、わざわざ声を潜めて耳元でささやいてくる。

「いつもならそうなんだけどな。でもなぁ、そういうんじゃねぇんだよ、今回は」
「?」
「純粋に、『強い』奴が欲しいのさ」

そこで初めてわずかに興味を引かれて、シードは男を眺めた。
気が乗ってきたことに敏感に反応して、男がチェシャ猫の表情を作る。

「見てくれが強そうな奴はその辺の酒場に行きゃゴロンゴロンいるんだけどよ。切り株なみにさ」
「そうだろな」
「けどよォ、この一ヶ月、ジャワンの用意した男に──あ、ジャワンって俺のライバルね、スカウトの──勝てる男がいないんだ」
「へえ」
「悔しいじゃないか?」
「何で」

シードが素で返すと、男は渋面を作った。
いつの間にか止まっていた足を動かして、通りの端に寄る。賭け試合はつまらないけれど、『一ヶ月勝ち抜きの男』は面白そうなので、話を聞く気になったのだ。

男は大通りの脇の露天商から串焼き肉を二本買って、片方をシードに差し出した。遠慮なく頂くことにする。
頭をぽりぽりと掻いて、男はため息をついた。

「……ギャラがなぁ。スカウトしてきた奴が勝ったら、歩合制で貰えるんだが」
「つまり、アンタの引っ張ってきたカードが弱くて、そろそろ赤字って事か?」
「頼むよ兄ちゃん!これじゃあ彼女に花も買えねェ」
「心意気で勝負しろよ」

もぐもぐと、犬歯で肉を噛み切ってシードは答えた。手に垂れた脂汁を行儀悪く嘗める。
男もぐちゃぐちゃと筋を咀嚼しながら、握りこぶしを作って唸った。

「それだけじゃねぇんだよぅ、ソイツがもうスゲーーーーーえ嫌な野郎なんだよ。嫌って言うか、イヤミな野郎?」
「ほー」
「勝って嬉しそうにすんならまだ可愛げがあるものを、スカした面で、客に愛想も振りまきゃしねえし」
「はー」
「それなのに女どもなんかきゃーきゃー言って騒ぐしさぁ。ファンクラブ結成しそうな勢いでよぉ」
「へー」
「しかもだ!」

段々とヒートアップしてきたのか、男が腕を振り回し始めた。
串から飛び散る肉汁をあわてて避けるシードと通行人。

「俺のサラちゃんが試合後にわざわざ差し入れたドリンクを、『結構』の一言で切り捨てたんだー!」
「……めちゃくちゃ私怨じゃねえか」

男は子供のように足を踏み鳴らし(シードは取り押さえようか他人の振りをしようか真剣に迷った)太陽に向かって万歳しながら叫んだ。

「俺はもーあの白髪野郎が這い蹲るとこ見なきゃどーにもおさまんねぇんだー!!」
「……白髪野郎?」

引っかかるものがあり、シードは問い返した。
厭味。スカした顔。白髪。

どこかで聞いたようなキーワードだ。
かちかちかちかち、とシードの脳味噌がフル回転する。

「なあ、アンタが言ってるソイツってさ……結構若かったりする?」
「ん?ああ……まだ若造だよ」
「でもガキじゃねえよな?」
「そりゃそうだ」
「スゲェ堅苦しい皇国語喋る?」
「お貴族様じゃあるめぇし、それがいっそうムカつくんだよな」
「目ん玉灰色じゃねえ?」
「おうおう、そういやそうだったわ」
「──そんでもって、全っ然表情変わらなかったり?」
「……何だ兄ちゃん、知り合いなのか?」

シードはがしっ、と両手で男の肩をつかんだ。
そして、急変にうろたえる相手に顔を近づけて、目をきらきらさせて言った。

「俺、やるわ」






+++ +++ +++






わあわあわあわあわあわあわあ。
耳が痛くなるほどの歓声。熱狂。黄色い声に罵声。野次。

ロープで仕切られただけの、大通りの一角。ぐるりと取り囲む観衆。上気した顔。
シードは午前中、順調に三人抜きを果たし(予想通りつまらなかったが、まあいい)、やっとその男への挑戦権を得たのだ。
背筋がうずうずとして、シードは伸びをした。

「ジートーーー!頑張ってえーーーーー!!」

ついたばかりのにわかファンに、僅かに手を振る。流石に本名は不味いだろうと、偽名を使ったのだ。避けられても困る。
派手に立ち回るには、円はやや狭かったが、贅沢は言っていられない。正式な試合場ではないのだし。

ぐるりとあたりを見渡し、すう、と深呼吸。久々に、気分が高揚していた。
レフェリーが、握りこぶしを作って喚く。

「皆さん、おうぉぅお待たせ致しましたぁっ!!!」

一際大きくなる歓声も耳に入らず、シードは目を閉じた。

そうだ。待ったのだこの時を。
皇国軍の規模は大きすぎて、階級しかわからない人間を探すのは不可能に近い。
俺ってば、ラッキー。

シードは握りこぶしを作って、獰猛に──けれどもにっこりと、笑う。

「脅威の二十九人抜きの男!彗星のごとく現れ、勝利と女のハートを奪い続ける憎い男!野郎からの剃刀レターは三桁超だが、堂々と喧嘩を吹っかけてくる奴はいまだゼロ!」

わあわあわあわあ。
ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。
どきどきどきどき。
わくわくわくわく。

「今日初登場のジートには、少し荷が重すぎる気もするが、いやいや勝負は何があるかわからない!奇跡の三十連勝なるか?!ルルノイエの銀の鷹、スーパークールなチャンピオン!!モーガンの登場だあああああああああ!!!!!」

きゃーーーーーーーーーっ!!!
わーーーーーーーーーっ!!!

嵐のような拍手の中、その気配が近づいてくる。
シードは、できる限り不敵な笑みを作って、まぶたを開いた。

さあ、待ちかねたぞこの野郎。
貸しがたくさんあるんだ、こっちには。

「…………」
「…………」

ばちり、と目が合う。

鋭い視線で睨み付けてくる、灰色の瞳。
無造作に撫で付けた銀色の髪。
石膏で作ったような、固まった無表情。
そして──がっしりとした上腕二頭筋、胸鎖乳骨筋に僧房筋。
更には、筋肉を誇示するような裸の上半身に入れられた、剣と獅子のタトゥー。
まあつまり、俗語で簡単に言えば、マッチョ。

「……って」

大きく息を吸い込む。

「違うじゃねえかあーーーーーーーー!!!」

どばきゃあっ!!

シードが放った怒りのドロップキックは、無敗の男(三秒前まで)の肋骨をきっかり四本粉砕した。
はっきりと八つ当たりだった。

反則負け。







+++ +++ +++







「……兄ちゃん、元気出せよ。ホラ茶」
「うーるせえ」

男の手からグラスをひったくって、シードは勢い良くそれを煽った。
一応四連戦したことになるのだが、汗のひとつもかけなかった。じろり、と、別に男が悪いわけではないのだが腹立たしいのでにらんでおく。

「おーおー、おっかねえ顔すんなよぅ。まあ、試合としては負けたけどよ、ありゃ兄ちゃんの勝ちだって」
「……」
「モーガンもしばらく試合にゃ出れないみてぇだし、俺としちゃ万々歳さァ!兄ちゃん派手だし格好イイし、頭もギャラ弾んでくれるってよ!どうだい、続けてみる気はねぇかい」
「……」
「しかもホラ、見てみなよあの女の子の列!!みんなあんたに熱烈な視線を送ってるじゃないの、選り取りみどりたァ羨ましいねぇ。よっ色男!」
「……」

反応しないシード。
男はふてくされて言った。

「どうしたんだよ。俺ァ嘘言ってないだろう?金も儲けたし、女の子にもモテたし、名誉も手に入ってるじゃないか。まあ……鍛錬としてはあんたにゃ物足りなかったのかもしれないけどさァ」

ぽん、と肩に手を置かれる。
シードはうつむいたまま、ふふふふ、と笑った。
不気味さに男が一歩引く。

「……あのなぁ」

がば、と顔を上げて、ついでに立ち上がって、シードは天に向かって叫んだ。

「俺はァ!」


「んな事の為にィ!」



「来たんじゃねんだよォー!!」



びりびりびり、と鼓膜が鳴る。
すぐ傍の露店の庇に張った布が、揺れたような気がした。

一番被害を受けたのは、一番近くに立っていたその男で、彼はしりもちをついた後慌てて耳を塞いだ。
仮設の闘技場を囲んでいた観衆がぴたりと静まり、一様に唖然とした顔でシードを眺めた。
しばしの静寂。

「……っあー、スッキリした」

当の本人はあくの抜けた顔で、ごきごきと首など捻っている。
どうしたらいいのかわからないのだろう、観衆はまだ動かない。新種の生物への応対など、生半な覚悟で出来るものではないのだ。

仕方ない。そうそううまくはいかないな。
気持ちに一区切りをつけて、シードは頭を上げた。

フリーズしている人々を見渡して、それじゃ、と軽く挨拶する。

きびすを返しかけたその足が、ふと止まる。
固まったままの人垣の向こうに、陽光を反射する銀髪が見えたのだ。咄嗟に確認したが、先ほどシードがドロップキックで沈めた銀の鷹は、まだテントの影で伸びていた。

「あ」

普通これだけの人数が固まって一点を凝視して動かずにいれば、多少なりとも興味を示すのが普通だろう。
けれどもその男は、まったく歩みを止めずに、通りをさっさと進んでいく。

「あーーーー!!」

シードは再び馬鹿でかい声を上げた。
人差し指でさして、叫ぶ。

「オイ!アンタ!」

群集がびっくりして飛び跳ねた。ざ、っと音を立てて、その方向へと振り向く。

男は、賞賛に値するほど見事に呼びかけを無視した。その辺りの木の幹で蝉が鳴いていたとしても、常人ならもう少しマシな反応を返しただろう。

シードは舌打ちをして、飛び出した。両手を振り回し、アピールする。

「ほら、覚えてねぇの!?俺だよ、俺!!」

走り出すシードの行く手に立っていた人々が、急いで道を空けた。焦りすぎてなだれのように人垣が崩れる。
シードは、引き止める声を尻目に、転がった籠と女の足と男の頭を飛び越えて、走り出した。

けれど、目指す相手は一向に立ち止まる気配がない。大通りに出られては、まかれてしまう!

シードは、苛立ちにぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回して叫んだ。
えーと。なんだっけ、えーと。

「あーーーーもう!待てっつってんだろ!グルテン!」

小麦粉に含まれる粘り成分の名称を叫んで突進してくる赤猿を、クルガンは剣の鞘で殴り倒した。