聞き分けのない大人。
『聞き分けのない大人』
限界というのは思いがけず唐突にやってくるものだと、クルガンはため息をついた。
「飽きた」
「……は?」
シードは思わず間抜けな声を漏らした。
それを取り繕うために、軽く読み流していたペーパーブックを顔の上に載せ、狸寝入りを決め込む。
至極嫌な予感がする。
無駄な足掻きだとは思うが、不穏な発言に不用意に相手をしてしまえば、必ず泣きをみる羽目になる。
「飽きたんだ」
「…………」
寝てまーす。俺は寝てまーすよー。
ソファの上に足を延ばして横たわりながら一心不乱にそう念じつつ、細く長く呼吸を整える。
「……………」
すたすたすたすた。
耳を澄ませるまでもなく聞こえる足音。
一瞬体をこわばらせるが、シードの方に近づいてきた訳ではなかったのでほっと息をつく。
クルガンは机から立ち上がり、窓辺に向かったようだ。
かたり、と窓の留め金を外す音。窓を開けたのか。
吹き込んだそよ風がシードの体の表面を撫でた。
とん、と微かな音。衣擦れ。
きっと、窓枠に足をかけたのだろう。
(…………窓枠?)
シードは腹筋を使って勢いよく跳ね起きた。
ペーパーブックが床に落ちるが、かまっていられない。
「ちょっと待て」
「なんだ」
今にも外に出ようと身を乗り出していた銀髪の男は、不機嫌な声で応答した。
張り出した木の枝を伝って下にでも行くつもりなのだろう。
短い付き合いではないのだが、未だにこんな状況には違和感を覚える。副官が見たら卒倒してもおかしくないと思う。
しかしどういうわけかシード以外の者はこういうシーンを目撃してはくれない。目撃したところでむしろ、自分の熱を測り始めるので無駄である。
「何してる」
「…………」
返ってくるのは責めるような沈黙。
はあ、とシードはため息をついた。
言いたくない。こんなことは言いたくないのだが。
「逃げんなよ、アンタまだやる事沢山あんだろ」
「…………」
「あのな。アンタも副官も後で困るんだぞ?」
「煩い。飽きたと言っている」
オーイ逆切れかよ。
シードは自分のこめかみにじわりと汗が浮いたのを自覚した。
空気が──軽く帯電している。
「私に一体何度同じスペルを書かせる気だ?そんなに証拠が欲しければ書類を纏めて焦がしてやるからサインの代わりにしろ」
「イヤ、アンタちょっと誰に話しかけて」
「クルガンなんてもう金輪際綴るものか。大体デスクワークが武官の仕事なのか?『北ブロック治水工事予算案』は第四軍に何か関係があるのか?出来てしまう私が困りものなのか?」
「待て待てカーテン焦げてるってオイ」
「……気付いた事がある」
クルガンはすう、と目を細めた。
炭化したレースが風に乗ってふわりと空に舞う。
「S・E・E・D」
「………ハイ?」
妙にゆっくりと発音された自分の名前に、恐る恐る返事を返す。
「私より二文字も短いではないか。お前がやれ」
あーもうコイツどうしよう。
「才は出し切れ。出来ないとは言わせん」
出来るわけがない。
しかしそれをそのまま直接言えば、シードはカーテンと同じ運命を辿る事になってしまう。
「イヤ……なんつーか、そう単純に考えるのは良くねえよ、うん」
シードは後頭部をガシガシと掻きながら何とかこの窮地を脱出しようと台詞をひねり出した。
「画数で考えてみろ、俺は十一画、お前はたった五画で済」
ちらり、と視線を上げてクルガンの顔を見る。
「──む、なんて事は全く関係ないよなこの際」
あーやばいやばいやばいやばい。
シードは己の本能に素直に従い、反論するのは止めにした。
かくかくと人形のようにうなずき、機械的に手を振る。
「……行ってらっしゃい」
閉じた窓を数秒間眺めてから、シードはのろのろとクルガンの机に向かった。
今日は残業決定である。クルガンは──シードの仕事が終わるころに、何食わぬ顔をして帰ってくるだろう。
同僚のお守りも楽ではない。シードはため息をついた。焦げ臭いにおいのする部屋で、一人。
書類制度改革をルカ様に本気で進言してみようかと夢のようなことをつらつらと考える。
……『本年度税収見込表草案』?わかるかこんなモン。
とりあえずシードは、その書類の末尾の空欄をSEEDとだけ書いて埋めた。