憧憬。








『憧憬』






差し込む西日が、男の輪郭だけをシードの目に焼き付けている。
眩しさに目を眇めながら、シードは開け放った扉から手を離し、室内に踏み込んだ。

磨き抜かれて光るデスクの向こうに立つ男。
三メートル程の距離をとり、シードは足を止める。
僅かな衣擦れの音と共に、優雅な仕草で振り返るその顔を睨み付けながら、シードは普段の彼からは考えられないほどの、恐ろしく静かな声を出した。

「何故だ?」

問われた方は、真っ直ぐに赤茶の瞳を見つめ返しながら、思案するように僅かに眉を寄せた。
シードは能面のように表情を固めたまま、じっとその時を待つ。

「──ああ」

思い当たる節を探しあてたか、灰色の双眸が焦点を結ぶ。

「金だ」

まるで、今朝の朝食のメニューを答えるように。
まるで何でもない事のようにぽとりと投げ落とされた言葉。

受け取ることも出来ずにシードは立ち尽くした。





+++ +++ +++





遠征から帰ったシードを待っているのは、代わり映えしない兵舎の固いベッドだ。
だがそれなりに愛着を持っている。大部屋に比べればプライベートがあるだけ何倍もましであり、何より疲れきった体がそんな贅沢を言う筈もなかった。

具足を脱ぎ捨てるか捨てないか、その時間も惜しくシードはベッドに倒れこむ。
瞼を閉じずとも眠れそうだと、そう思いながら沈んでいこうとした瞬間。
至福と言って良い、その瞬間に、何者かが扉を叩いた。

こんこん

「………」

思わず半眼になる。
一応最低限の礼儀はわきまえているつもりなので、応対したい気持ちはあるのだが──

「……シード?」

気遣いの感じられる控えめな呼びかけが来る段になって、シードはため息をついて覚悟を決めた。
勝手に閉じようとする瞼を強靭な精神力でこじ開け。磁石でも仕込んであるのかと思うくらいに引き寄せてくる枕から無理やりに頭をはがす。
やはり片方引っかかったままだった足甲を外し、四分の一回転してベッドに軽く腰掛けた。

「ジークか?開いてるぜ」

がりがりと頭を掻いて、阿呆のように大きく口を開いてあくびをする。
入室を許された青年が最初に見たのはシードの口の中だろう。馴染みなので気にする必要もないが。

「悪いな、疲れてるところ」
「ホントに悪い。重要か?急用か?」

冗談めかして口を閉じた。
まだ下士官にもなれぬ下級兵だったころのルームメイトは、今でも一緒に語り合う仲だ。だが、遠征直後に用もなく押しかけるほど厚顔ではないだろう。

ジークは少し言い難い様子で、三秒ほどの間言葉を選んでいたようだった。
ちらりと嫌な予感が頭の隅を掠めたが、実体化するよりはジークの台詞のほうが早かった。

「あのさ、居るだろ、上官だけどお前と仲の良い……」
「クルガン?」

速攻で返した答えは、その当人が聞けばやはり速攻で否定するのだろうな、とシードは回らない頭でぼんやり考えた。
そういえばあの仏頂面も久しく眺めていないな、と意識が回りかけたところで、話の本題は違うと思考を引き戻す。

「ああ。その人だ──シード、悪いことは言わない、深く関わるのは止した方が良い」
「……唐突に、なんだよ」

シードは眉をひそめた。

「あの人は──あの人はな、良くない」
「いいから、なんだよ」

今更あの男がどんなことをしようとそうそう驚かない。
シードは煮え切らないジークを促した。少し視線をそらしながら、ぽつりと零す友人。

「──人、殺した」
「…………………は?」

シードはあまりのことに、そんな間の抜けた答えしか返せなかった。
何を言っているのだ──今更。

「はあー?」

もう一度思わず口をついて出る。

「俺だって殺してきたけど?」

何の為に遠征に行ったと思っているのだろう。弁当でも食べて帰って来る為か。
大体目の前の彼だとて、まだ生き残っているということは誰かを殺してきたということなのに。

「アイツ一応文官じゃなくて武官じゃねえか、何を今更」

新兵でもあるまいし。
一気に気が抜けて、シードはそのまま仰向けにベッドに倒れこむ。

「違う」

目を閉じようとした瞬間、別人のように鋭い声が刺さった。
ゆるり、とシードは視線を友人に戻す。

「全然、違うさ」

その表情は固く強張り。唾棄と蔑みの混じった声音。
シードは、自分の鼓動が、やけに間延びするのを聞いた。

ジークは吐き捨てるように言った。

「あの人は見殺しにしたんだ。皆言ってる」

あの冷徹な顔で。
あの、平静な声で?

「──助けられた奴助けないで、退却したんだってさ」





+++ +++ +++





「──マジで言ってんのか、それ」

数瞬の空隙を無かった事にするような、変わらぬ声音。
しかしその奥に潜む感情を見抜けぬ者はいまい。凍るような、憤怒。

クルガンは一度目を閉じた。

「冗談を言う場面ではない筈だがな」
「っ!!」

再び目を開いたときには既に、彼の襟首を握り締め掴み上げる腕がそこに存在していた。
机の上に片膝を乗り上げ、ぎらぎらと光る目で射抜く赤毛の青年。
人を萎縮させずにはおれない、剥き出しの刃のような感情。目の奥だけが凍っている。

掴ませた拳はそのままに、クルガンは平坦に語った。
視線すらそらさずに。

「──わざと敵の罠に飛び込むようにしむけ、置き去りにした。難しい事ではない」

陰になり、わからなかった表情もこの距離なら良く見える。シードは唇を食い破る勢いで噛み締めたまま、瞬きもしないでそれを見つめた。
灰色の虹彩がきらめいて、捩れる。

「政敵が多かったのが彼の不幸だな……後は、買収されるような部下を持った事も、それを信用する愚直さもか」
「……貴様」

クルガンは喉を締め上げる手をちらりと見下ろし、また視線を戻した。

「シード。敵でも見るような顔だな」
「…………」

クルガンは、軽いため息をついた。
感情を伺わせない完璧な仮面で、問ってくる。


「お前は私を蔑むか?」


窓の外からは、訓練の終わりを告げるラッパの音。
そのメロディーが鳴り止んでも、余韻が消えても、シードは答えなかった。

「──仕方がないのだ」

ひそり、と。
聞き逃してもおかしくなかった。

けれど、目の前の薄い唇から吐き出された言葉はきちんとシードの耳に届いた。

「私の拾い親が死に掛けている」
「…………病気か」

手袋に包まれた手がゆっくりと持ち上がり、灰色の瞳の上に被せられる。
表情を隠して、クルガンは呻いた。

「治療の為には大金が必要でな……私は選んだ」
「────」

シードの指先から、僅かに力が抜ける。
クルガンは僅かに俯いたまま、肩を震わせた。

堪え切れない声が零れる。
肩を震わせて、クルガンは嘲笑った。



「……もしそう言えば、どうなる?」



シードの目が見開かれる。
クルガンは嘲笑いながら、ぱしりとシードの腕を払いのけた。

不意を突かれ、簡単に落ちる手。
クルガンの視線はそれを追いもしなかった。

もしそうだったら、どうだと?(・・・・・・・・・・・・・・)

容易く感情は摩り替わる。
していることには全く変わりが無いのに。

クルガンはきっぱりと、刃のような言葉を投げ捨てる。

「そんな脆弱なものは不要だ。向けられても、何も感じない」

クツクツと、再びこみ上げたらしい喉の奥で笑いを噛み殺す。
嗜虐的な、と言って良かった。シードは身じろぎも出来ないまま、目の前の人の形をした何かを見つめていた。

「何の為ならば良いのだ?」

深い川が流れている。

「言ってみろ。どんな理由があればお前は私を許す」

諭すように、ではない。
何もかも、放り投げた声音。

理解も、共感も。
望むこともなく遠ざかっている。

「自分の身が可愛かったとでも言えば良いのか」

荒々しくは無い。
しかし鋼のように硬質な拒絶の壁を確かに感じて、シードは口をつぐんだ。

「獣のように真っ直ぐ突っ込んで行くしか能のない馬鹿が、私に口出しするな」

そう言い捨てて、クルガンは身を翻した。
窓辺に立ち、完璧に背を向ける。

シードはデスクから足を退けた。
衣擦れの音すら響く室内。

「──そうだな。アンタの性格を叩き直すのは、大変だ」


ドアの閉まる音が、やけに耳についた。






クルガンはガラス一枚隔てた向こうを見下ろして、目を細めた。
その向こうからの光は、眩し過ぎて眸を灼く。

眼下には、一日の訓練を終え兵舎への道を辿る下級兵の群れ。
疲れの残るその顔に、しかしどうしようもないほどの陰りは見られない。
生き残るために。生きて勝つために。勝って守るために。

その考えは至って単純。
前に進むために、足を踏み出すように。

だから彼らは毎日訓練をし、戦場に出る。
真っ直ぐに、前を見て。なんら、恥じるところなく。

クルガンは冷たいガラスに額を押し付けた。
いくら光が透けていても、それが温もっている筈がなく、冷たく固い感触を返してくる。
それでいいのだ。そういうものだから。

クルガンは少し笑った。嘲笑ではない。
自分がひどく疲れていることを自覚する。

「……お前のようには、生きられない。生きたくもない」


だが、お前のような生き方を、此処に在らしめる為ならば、俺は大抵の事はしてしまうのだろう。