彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。








『眠るようには、きっと死ねない。』










クルガンは、半ば諦め、半ば呆れていた。そして自分の企みが失敗したと、素直に認めていた。珍しいことだが。

無様に尻餅をついている。痛覚を伝える神経が、体の異常をそこかしこから訴えていた。
この足ではロードを追うことは出来ない。右腕の感覚も麻痺しかけている。早々に手当てをしなければ、不具になるだろう。人体損傷率は三十パーセントを超えている。

紋章が封じられているのが何より辛かった。瞑った右まぶたの上から遠慮なく眼球を刺し貫いている針は、おそらく黒目を外れているだろうから心配はしていない。無論そのまま放っておくわけにはいかないが、完全に口内に隠されていた針だ、毒が塗ってある可能性は低いだろう。
何らかの薬物が塗布してあれば、良くて失明、悪ければ死は避けられないだろうが、クルガンに動揺はなかった。なるようになるだけだ。

「……っ」

利き手である左手で、慎重に針をつまむ。ゆっくりと正確に、じりじりと抜き出した。当然、痛い。血が珠になって、頬を滑り落ちていく。右目はしばらく使えないだろう。
何気なく、視線を上げる。

「……」

針を除去し、まず見た光景が自分の予想と違っていたことに、クルガンは溜息をついた。
呆れたものだ、この結末は。

クルガンは右足を引き寄せ、左手に持った剣を杖代わりにして、ゆっくりと立ち上がった。
表情を動かす気はない。自らの血に塗れたヴィネルの剣を、クルガンは地面から抜いた。

「──フィアルグ公」
「はい」

見事な白髪の、童女のような表情の老女は、すぐ傍に立っていた。
一見下女と同じような、素朴な服装。しかし素材は比べようもなく上等だと、クルガンはすぐに看破した。

半ば土に埋もれた、ふたの開いた木箱。
それを守るようにその前に倒れ伏した死体。
その脇に立つ、傷も汚れもない小柄な老女。

クルガンは、もう一度大きな溜息をついた。
彼女には逃げる気がまったくないのだ。いくら満身創痍のクルガンとて、逃がす事は難しかった。
答えを半ば予想しながら、クルガンは口を開いた。

「──何故、と伺っても宜しいか」

老女──マリネッタ・フィアルグは、綺麗に結上げられた白髪をゆっくりと振って、頷いた。
そして柔らかく穏やかに、幼な子への子守唄のように、こう言った。

「私の命は私のものでしょう?」
「──」

クルガンには、言っておくべきことがあった。
クルガンに、それを口にする資格はないと知ってはいたが。

「……この男は、犬死と言う事になりますが」
「彼の意思は彼の意思。私の意志も私の意志です。悔いはない……私も、そしてきっと彼も」

貴方もでしょう。そう聞こえた。

「……この男も、厄介な姫君に惚れたものだ」

その言葉に、フィアルグが微笑む。どうやら、太刀打ちできそうにない。
無人の荒野に、一人立つことの出来る人間だった。
ヴィネルでは、彼女の意志を曲げることは出来なかったのか。それとも、ヴィネルだからこそ、彼女はここに留まったのか。

「────」

これ以上長引かせるつもりは、なかった。ヴィネルの剣を握る手に、力を込め、持ち上げる。
何気なく、フィアルグが手を差し出した。その刃に向かって。

「貴方には苦でしょう」
「何がですか」
「私を殺すのは」

意外なことを聞いた風に、クルガンは僅かに眉を寄せた。

「貴方はヴィネルの友達でしょう。彼を好いていたでしょう」
「──普通、好きな者を惨殺はしませんが」
「正直ですね。嘘は言っていないつもりでしょうから」

クルガンは、彼自身のことを語ってはいない。口から出る言葉は、只の一般論だ。

「でも私にはわかりますよ、ヴィネルは魅力的です。好きにならずにいるのは難しい」

クルガンは静かにフィアルグを見ている。
言葉を発する時間をもらえたのだと、老女は解釈した。

「彼の命を掛けた望みを断ち切るのに、苦悩がない訳がありません」
「……そんな人間的な感情を持っていない男だとしたら?私は軍人だ」

フィアルグは、自分の孫に対するような微笑で首を振った。

「でも、ヴィネルの友達でしょう?」
「──」

本当にわからなかったので、クルガンは答えなかった。肯定していいのか、否定するべきなのか。
どちらでもかまわない気がした。ヴィネルはそれ以前に、ただ、敵だった。
フィアルグも、殺すべきものだった。
──『ロード・フィアルグ』は民の信望厚い。生きていれば必ずハイランドにとって災いになる。

催眠効果を伺わせるフィアルグの声が、クルガンを促す。

「更なる重荷は背負わせられませんよ。敗者は自分で始末をつけましょう」
「……何故、その様に物分りが宜しいのですか」

はっきりと礼を欠いた問いかけ。
激昂してもかまわないであろうそれに、フィアルグは微笑を揺らさなかった。

「私には、責任をとる義務がある」

クルガンは認めた。彼女は領主だ。
そして、その地位に相応しい人物だった。

フィアルグの言葉は、まだ続いていた。

「それに、私の望みはまた断ち切られていないから、絶望する必要はありません」
「望み?」

フィアルグは、厳かにこう告げた。
それは、殆ど命令に近かった。

「ハイランドでも良いのです。皆を幸せにしてくれるなら」
「──皆と言うのは無理です」

クルガンは硬い声で言った。
フィアルグは頷いた。

「やはり正直ですね。では、出来るだけお願いします」
「──Positive」




後悔のない、選択を。





青い光が、薄れて消えようとしている。
クルガンは、転がる死体と、フィアルグに、順に視線を移してからこう言った。
自分でもくだらないと思える台詞を言うのは、クルガンには久しぶりだった。

「……貴女は、弱い人ですね。弱い故に優しい」
「貴方も弱い人ですよ。支えてくれる誰かが見つかれば良いですね」

必要ない。とは言えなかった。彼女を無駄に悲しませることは意味がない。
意味がないことをするほど、暇ではない。そう論理帰結する。

フィアルグは、毅然として言った。
それはクルガンに対する罰。そして責任。

「私の望みを、叶えてください。そして、自分の望みを叶えてください。その全身、全霊を持って。卑怯に、狡猾に、あらゆる手段を使って」
「──」
「自信がないと言ってはいけませんよ。貴方は、ヴィネルを殺したんです」
「……手厳しい」

フィアルグは困ったように首を振った。

「すみませんね、意地悪いことを言って。けれど、年寄りの我侭だと思って許して下さい」

さあ、と。
フィアルグは、彼女の腕力ではろくに持つこともおぼつかないであろう剣を求めた。

クルガンは少しだけ目を閉じて、ゆっくりと開いた。
確かな動作で首を振る。

「……やはり貴女の手には任せられません」

クルガンはそう言って、一息吸い、左手を一閃させた。
目は閉じない。眼は閉じない。

赤く染まる景色の中、クルガンはぼんやりとその痛みを想像した。
自分が与えたのが、突き落とされるような、只、そのような死であれば良いと。