彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。








『眠るようには、きっと死ねない。』








うわああああああああ。
あああああああ。

耳鳴りのような、暴力的な厚みのある、群衆の声。

門が破られたのか、喚声がひときわ激しくなった。
シードは呆然と、その音に呑まれていた。
血に塗れた、己の剣をだらりと下げて。

シードの人生は、至ってシンプルだった。
理解できない考えや、賛成できない行動や、好きになれない人物は居たけれど、おおむねシードは世界というものを把握し、他人というものを認めていた。
そして、思うとおりに生きてきた。

「……」

自分が出来ることは、出来る限りやった筈だった。
けれど、目の前の、満足げにすら見える躯は、なんだ?

「……何でだ」

醜くかすれた声。
きっと、この死体よりも自分のほうが酷い顔をしている。

シードは、出来る限りのことを、やったつもりだったのだ。
高慢で傲慢で、考えが足りなかったかもしれない。しかしそんなことはどうでもいい。

「何でだ……!!」

殺す気はなかった。
今更聖人ぶるつもりはないが(当たり前だ!軍人がどの面下げて!)、シードは殺人狂ではない。
この砦の者が死ぬことに、何の意味もないと思ったのだ。
死に値するなにものも、ここにはないと。

戦争ではいくらだって人が死ぬ事は知っている。
些細な理由で人が死ぬことも知っている。

だが、シードには、ここにこんな躯が転がらねばならないわけが、どうしてもわからない。







だからこの大尉がいくらわからずやでも、廊下の向こうから増援がいくら詰め掛けても、殺す気はなかった。
そんな事で目的を違えるくらいなら、元から隠れていれば良いのだ。本末転倒。
手加減して大尉と剣を交えながら、なのでシードはやってくる兵に向かって、こう叫んだ。

「──降伏しろ!」

大音声に、同盟兵士達の顔に疑問が浮かぶ。
今、何が起こっているのかわからないのだろう。シードは、僅かに希望を見出した。
事情を悟ってもらうだけで良いのだ。皆が皆、こんな堅物ではあるまい。
さらに声を張り上げ、必死で訴える。

「今投降すれば、命だけは──」
「ふざけるなァ!!」

大尉の叫び声。
手加減されていることも、こちらに殺す気がないことも、男はわかっていたに違いないのだ。
──それこそが間違いだったとでも言うのだろうか?

「……っ!!」

せめぎあっていた刃先から、急になくなった圧力。
目に決意の光。あるいは狂気の?
シードは咄嗟に剣を引こうとしたが、遅かった。
無謀に踏み出してくる肉体。防御する気のない剣。

「っあああああ……!」

ずぶ。

肉を貫く感触。
気色悪い、と。昔思い、いつの間にか忘れていた感覚が、ふいに戻ってきた。
シードの剣は、彼の体の中心線を見事に貫いていた。そして、事切れた死体に嵌められた眼球は、先ほどよりも余程安らかに見える。

何故だ?
何故、こんな事で。

「──何をするっ!?」
「貴様ァ!!」

目を剥いて、兵士たちが駆け寄ってくる。
その顔には既に、こちらの話を聞く余裕などなかった。

敵。敵。敵。敵!浮かぶ共通のシグナル。
──そうだ、それはシードの事だ。

この砦の者にとって。
裏切り者のヴィネルより、シードは憎まれる。







目の前に倒れる、敵。敵。敵。敵。
頬と二の腕、手首、腿から血を流して、シードは立っていた。
傷ついて呻いているものも居れば、気絶しているものも居る。そして、息をしていないものも。

そのことが、悲しかったわけではない。まったく違う。
ただ、理不尽だった。

この死が、この痛みが、この結果が、何になったんだ?
砦は落ちるのに。希望はなかったのに。

罵倒の言葉が、シードの口から漏れた。誰に向けてかは知らない。
やるせないのか、この感情は。シードには図りかねた。

「畜生」

この時、彼はまだ若く、絶望を知らず、無力でもなかった。
シードはこの時まだ知らなかったのだ。そこにある何かを。

祈りとも怒りともつかぬ、その慟哭を。







+++ +++ +++







ナイフが、眼窩、心臓、あるいは首に刺さらなかったことに、ヴィネルはまず感謝した。
胸の中心に、我が物顔に突き立っているそれを、満足げに眺める。例え致命傷には変わりなくとも、これはヴィネルが勝ち取った結果だ。
クルガンは一撃でヴィネルを仕留めるつもりだったに違いないのだから、これは随分と善戦したのだろう。

「………」

足から力が抜ける。立っていられない。
木箱の表面に、血がぽつぽつと垂れる。その上に倒れこむようにして、ヴィネルは膝をついた。

「…」

痛い。
声も出ない。
ショック死の原理を、肌で感じる。やっと、それを理解する。
それだけで死ねる程の痛みが、この世にあるということ。
胸の真ん中、肋骨と肋骨の間、肺と肺の間、心臓の脇、柔らかい肉を掻き分けて、無遠慮に埋まる鋼。
痛くない訳がない。痛いというより、痛い。想像したより、ずっと──この苦痛は、酷い。

皆、この痛みを感じたのだろうか。
とどめを、と願ってしまう程の、まったく安らかではない死の。その痛み。
この世に在ることを、一秒でも短く、と思ってしまう、この苦しみを感じたのだろうか。まったくもって信じられない事だ。

この痛みを、ずっと忌避していた。
直接間接を問わず、何万回か他人にはそれを与えていたと思うが、自分が味わうことは、出来るなら遠慮しておきたかった。

けれどヴィネルは、今この痛みを感じていることに、感謝する。
今、自分が目を開けて、眠りというものに逃げ込まず、それによって勝利するということに感謝する。

「…」

だらりと伸ばした手の先、木箱を縛っていたロープを爪の先に仕込んでいる刃で切る。
中で僅かに人が身じろぐ気配がした。押さえ切れない笑みが、口元から零れる。良かった。生きている、ロードは生きている!!

さあ、快哉をあげよう。
この苦痛と痛みと裏切り、ヴィネルの存在の全てを、打ち捨ててまったく惜しくない。
この箱を、開けるという、それだけのため。

(俺は、箱を開ければ良いだけだ)

足の使えない男から逃げおおせるのは、酷く簡単なことに思える。
──いくらロードでも、だ。

ヴィネルは、箱に覆い被さっていた上半身を起こして、かすむ目を凝らした。
片足に体重を乗せ、木の幹に背を預け、その右腕から血を流している男。
人のことを遠慮なく殺しておいて、自分は致命傷を避けているなんて、なんてこの男らしい無礼さ。
腕の筋や大事な神経くらいは傷ついていて欲しい、とヴィネルは思った。でなければ、あまりにも不公平すぎるだろう。

立ち上がれる自信はないので、膝でにじり、その影に近づく。
なるべく苦しんで見えるように、顔を歪めて。演技ではなく、本当なのだけれど。

クルガンが、木から体を離す。自らの身を傷つけたヴィネルの剣を拾う。
そして近付いてくる。

見なくても、それはわかる。

「…………」

血の味で麻痺した舌を、かすかに動かした。きちんとした言葉にはならなかったけれど。それを知っていても、なお言っておきたかった。
この男に、こんな言葉をかけるのは、きっと自分だけだろうとヴィネルは思った。

「甘いな。クルガン?」

冷静で、目的の為に手段は選ばない。
自分でも自身をそう定義している筈だが、きっと、全てそう思い通りにいくわけではなくて。

何故、俺に声を掛けたのだ?
隙だらけだっただろうに。
何故、背後から攻撃しなかった?
紋章でもナイフでもいい。
何故、一人で来た?
逃がしたくない筈だろう。
何故、昔通りの戦い方を?
お前の手の内を、俺が知っていることを、わかっていた癖。

昔馴染みを殺すことに躊躇いを覚えるような奴ではないと知っているけれど。
俺の眼窩に剣を突き刺す為に、折れた足で歩いて来てくれると、確信を持っている。

(俺は優しいから、この言葉をお前にぶつけるのは止めておく)
(それくらいの義理は、あるさ)

悪いな。
俺は、生きてお前に敵うとは思っていなかった。

けれど、俺の望みは叶えさせてもらう。眠るようには、死ねずとも。
それが俺の勝利だ、クルガン。

落ちかかる影。
振り仰いだ先に、振りかぶった剣が見えた。

そして、目が確かに合う。
肺にためていた最期の息を、使う時がきたのだ。
圧縮した空気で、尖らせた唇の隙間から銀色の針を押し出す。
必中の間合。

しゅっ

「……っ!!!」

灰色の瞳に針が突き刺さった瞬間を、ヴィネルは微笑んで見送った。
ざまあみやがれ。クルガン。


背後で、木箱のふたが開く、音。
ヴィネルは最後まで薄れぬ壮絶な痛みの中、その音を聞いた。

懺悔の時間は残されていないようだった。置いてきた部下のことも。目の前の敵のことも忘れて、ただ。
ヴィネルは、最後に、こう思った。心からの敬愛と、存在の全てを込めて。
貴女の役に立ったと、そう思うのは許されない事ですか?
ただひとつ誇れること。


(俺は我侭で、命令もきかない、気の狂った卑怯な男ですが──)




貴女の為になら、笑いながら死ねる。