彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。








『眠るようには、きっと死ねない。』










戦いは、コンマ間隔の駆け引きが全てを分ける。
特に──彼我共に崖の淵に立つ状態ならば尚更に、僅か一瞬の逡巡や動揺が命を奪う。

実力があればいつでも勝てるなど、そんなルールは何処にもない。
現実には、やり直しなどない。
勇者が、踏み出した先に落ちていた小さなひとかけらの石に躓き敵の刃にかかる物語など珍しくも無い。

これは──試合ではなく、単なる殺し合いと言うのでもなく、もう少しだけシビアでもう少しだけ計算を要求するものだ。
戦いというのは、戦場というのは、複雑に絡み合った過程を要求する癖して、結果以外は注目されない。

ヴィネルは思う。戦闘というものには、僅かながらコツがある。
クルガンを殺す事だけを考えてはならず、クルガンに殺されない事だけを考えてはいけない。
一番大切なのは、目的を間違えない事なのだ。

暗闇の中に、聞こえるのは己の心臓の音だけ。
この緊張感、数えるのも馬鹿らしいくらいに経験した緊張感に、慣れることなどありはしない。

さあ、始めようか。
ヴィネルは素早く息を吸った。
右手の剣を、持ち上げて。
左手を、腰の後ろに。

そして、

ざわり、と大気が蠢き、
一秒、


「──『怒りの一撃』」
「──『静かなる』…」

ひゅぐ
ぶわっ


「っ!!」

青い波がヴィネルの体を同心円の中心にして広がりかける。
それを押し潰す、圧倒的な光がヴィネルの目を、瞼すら突き通して灼いた。

そう──クルガンの、紋章発動の素早さは知っていた。
ヴィネルの口元に微かな笑みが浮かぶ。

機動力のないクルガンが、ヴィネルを殺すとしたらまずは紋章に頼るだろう。
そう考えるだろうヴィネルが魔法無効結界を張るのは想像に難くない。
ならばそれよりも早く紋章を起動させる以外にない。
一番早いのは、そうだ──最低位の、『怒りの一撃』。

それだけでも、クルガンが楽に人を殺せることはヴィネルも知っていた。
クルガンの『怒りの一撃』よりも早く速い魔法を、ヴィネルは見た事がないから。

だが、ヴィネルは笑う。

クルガンが、安全策を採らずに、『雷撃球』、『天雷』、もしくは『疾走する雷撃』でも良い──使っていたら、もしかしたら勝負は此処で終っていたかもしれない。
それか、クルガンが宿していたのが火の紋章だったならば、最低位の『火炎の矢』でもヴィネルは焼け焦げてしまったかもしれない。けれどヴィネルは知っている、クルガンが火の紋章と相性が悪い事を。

『怒りの一撃』は、避けようがある。この暗闇、この暗闇の中でなら、光はクルガンの眸までも潰すだろうから。
ならば、自分は死ぬことは無い。

「『湖』!!」

さあ、動け。
この一瞬が、生死を分ける。

ヴィネルは、紋章発動の瞬間には腰に回した手を前に戻していた。そればかりか、その延長線上の動作で握っていた拳を開く。
宙に蒔かれたのは、鋼鉄製、本来は罠用の鋲が二十数個。

「───っ!!!!!!」

ずが

ばちぃっ!!

「がぁっ……!!!!」

衝撃。
跳ね飛ばされ、足の裏が地面から離れる。
背中から木の幹に叩きつけられる、またその衝撃。
脳髄を揺さぶられる不快感、無くなった平衡感覚。
前のめりに崩れ落ち、その直前我武者羅に突き出した左手が地面に突く。
右手は剣を握ったままだった。よくやった、と内心その手を褒める。
自分の皮膚が焦げる臭いに気付いたのは、その後だった。

ヴィネルは喜んだ。生きている。
これで──戦況は大分変わった。

「かっ、は……!」

重傷、ではあるかもしれないが致命傷ではけしてない。しびれて動作が鈍いが両手両足は動くし、痛みさえ我慢すればまだ動ける。
だが、この血とたんぱく質の焼けた臭いは正直まずかった。隠れる事が出来ない──そう考えて、ヴィネルは苦笑した。
隠れる必要はない。というより、ヴィネルは隠れてはいけない。ロードを置いて隠れられる筈が無い。

「……」

思いついて、ヴィネルは一瞬だけ目を瞑った。
そのほかの理由によっても、隠れる必要は、ないらしい。

『怒りの一撃』は、雷の特徴を大分残した紋章魔法だ。
クルガンの魔力はその一閃一閃を正確に操るが、視界がまったくの零になるあの瞬間にヴィネルの行動が見える訳も無く。
結果、雷気は金気に迎撃され、ヴィネルに直接触れたものはなかった。余波だけでヴィネルが吹き飛ぶ程の威力は、少しばかり予想外だったが。
同じく雷の特徴を濃く残していても、『疾走する雷撃』だったなら、この手は通用しなかっただろう。指向性のあるエネルギーの奔流は、全てを押し流す。

「……」

クルガンの運が悪かった、とはヴィネルは思わない。
これは、ヴィネルが、クルガンと相対する恐れを感じた時から考えていた可能性、練っていた対策のひとつなのだから。偶然などではない、ヴィネルが持っていた力のひとつなのだから。

ぐずぐずしている暇は無い。
ヴィネルは頭を振った。地崩れによって柔らかくなった土に足をとられながら立ち上がる。

ぼんやりとした薄青い光が降り注ぎ、場を照らし出している。
涙と異物でぼやけた視界でも、ものの輪郭は確認出来た。クルガンは──当然のように、いない。

呼吸を細めて気配を探るが、無駄ということはわかっていた。クルガンは、気配を殺すのがとても上手い。
ヴィネルの方も、跳ね飛ばされてあちこち動いた為に、クルガンの声が聞こえてきた方角もわからなくなっていた。

こんな風に泥まみれで、観客もないままの命の削り合い。
心の中で嘲笑する。

(──俺は確かに指揮官失格かも知れないが、お前も指揮官には向いていないな)

傭兵や、暗殺者くらいが丁度良い。そして、その方がきっと幸せになれもするだろう。
クルガンには、彼自身しか頼るものがないのだから。

「……!」

どくり、と心臓が跳ねる。
ヴィネルの両眼が、目的物を捉えたのだ。

木箱は、半分土に埋もれていたが目立った破損もなく、二時の方角に二十歩程の所に見えていた。

二十歩。
いつもより、とても遠く感じられる二十歩。

クルガンは確実に、自分よりも木箱に近い位置にいるだろう。
しかし、クルガンには機動力がない。うかつに場所を示すとは考えられなかった。
既にヴィネルの、盲目に近かった視界の問題は解決している。同時に、クルガンの味方をする闇は、掻き消された。
体のそこかしこが焼け焦げ、痺れ、痛むが、ヴィネルはなんとか動けるし、剣も握っている。

クルガンにとって一番楽なのは、隠れたままヴィネルとロードを見送ることだろう。わざわざ危険な橋を、誰が渡りたいものだろうか?
双方に都合の良い解決。けれど、彼がそれを選ぶ可能性が限りなく低いとヴィネルは知っていた。

クルガンがロードを人質に取ることがまず一番心配だったが、木箱を中心に五歩圏内には人が隠れられるような死角はない。
ヴィネルは歩を進めた。膠着状態に陥るのは御免だ。

勝利のために、しなければならないことはひとつだった。
ヴィネルは、箱を開ければいいだけだ。足の使えない男から逃げおおせるのは、酷く簡単なことに思える。

一歩二歩、三歩。四歩五歩。
問題ない(NO PROBLREM)。失血死は、まだ先。

「…………」

警戒しなければならないのは、飛び道具だろう。
ヴィネル自身暗器を得意としており、体中に仕込み武器を装備しているが、クルガンはもう少し正攻法に近い投げナイフや弓などを好んでいた筈だ。

左手を口元に持ち上げ、泥を払う振りをして手袋の隙間に舌を差し込む。苦い。
前歯で細い針を引き出し、口中に含んだ。至近距離から、目を狙うためのものだ。傭兵時代には確かまだ習得していなかったから、クルガンも知らない筈だが、靴先の仕込みナイフと左右の腕のスパイク、苦無、小刀、鋼線、指先の隠し爪については見切られる可能性が高い。

十二歩、十三歩。

かさり。
異音。

「!!」

反射的にそちらを向こうとした頭を意志の力で抑えつける。
クルガンが音を立てる筈がない。
立てるとしたら、それは目的のためだ。目的?注意をひく。誰の?ヴィネルの。何の為に?
──殺すために。

「っ!」

頼り無く柔らかい土を、麻痺し傷ついた棒のような足で蹴る。
三歩分の距離を稼ぎ、体重を僅かに傾けつつターンして振り返る。これは二歩分。
振り返る事が目的ではない。
クルガンの位置は──わかっている。

単純な手を、実は好むのだと。

(人は結構簡単なものだから、お前の考えは正しい。けれど、だから俺もお前も、反射を殺す訓練をしたんだろう?)

音は、ヴィネルの後ろでした。ではクルガン本人は?
振り返って、銀色の髪を見つけようとしたわけではない。振り向く、それは通過点に過ぎない。
ヴィネルは停滞せず、視線も彷徨わせず、三百六十度回転した。背を向けた瞬間、死角から身を乗り出したであろう男と対面するために。

出来る限り体を制御して、剣を握った腕を持ち上げる。

「!」

足元に木箱。
その十歩向こうに、人影。

構えられたナイフ。闇を弾く閃き。今にも放たれようとするその瞬間。
ヴィネルが狙っていたのは、まさにここだった。

クルガンに防御をさせないこと。
ヴィネルがクルガンに、近接戦闘で負け続けた理由はそれだ。反射神経の、努力ではどうしようもない性能差。仕込みナイフもスパイクも小刀も、彼の体に届く前に、悉く弾き散らされる。
けれど、武器を手放す瞬間なら?

ヴィネルは手のひらから力を抜いた。上げていた腕から、回転の勢いで剣がすっぽ抜ける。
その場面を客観視するものが居たら、青光が包み込むフィールドを、二筋の銀光が、まっすぐすれ違うその光景を賞賛したかもしれない。表現するなら、詩的ですらある──こんなにも、血と泥に塗れた凶器が。

勿論、ヴィネルは知っている。
今、クルガンに対して考えたことが、そのまま自分にも当てはまるということを。
けれど、劣る実力で等価なダメージを受けるなら、それは上出来な結果だろうと思う。
電撃に痺れた腕では、飛来物を叩き落すなどもとより不可能でもある事なのだし。

時間にして、僅か。

「っ!!!」

人影が──クルガンが、よろめく。
そしてヴィネルも、鋼が自分の体に突き立つ音を聞いた。