彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。






『眠るようには、きっと死ねない。』






衝撃。
衝撃。
衝撃。
衝撃。
暗転。
明転。

「ッ!!?」

眼を開けた途端、ヴィネルは激しく咳き込んだ。
さらに言えば、瞼を上げて最初に眼球に触れたのは空気ではなく、ざらついた感触の何か。
かろうじて働いていた嗅覚が、それを掘り返されたばかりの土だと判断する。

「げほっ!!」

ヴィネルは跳ね上がり、口から土を吐き出しながら手をばたつかせた。反射的に眼を擦りそうになったのを、何とか制御する。体中土まみれなのは明らかなので、更なる事態の悪化を引き起こすだけだ。ぎゅうぎゅうと勝手に力の篭る瞼から、涙がこれまた勝手に溢れる。

「げえぅっ…かっ、かはっ!」

土の混じった唾液を唇から垂れ流しながら、ヴィネルは獣のように這いずった。
口の中の苦味は血も混じっているのか。感覚器官を殆ど塞がれたまま、手当たり次第に柔らかい土を掻き分ける。

ヴィネルの人並みはずれた判断能力は、混乱から瞬時に回復し既に事態を理解していた。
地崩れに巻き込まれたのだ。本流に当たっていればまず間違いなく死んでいただろうが、今のヴィネルにはあまりなぐさめにならない。

耳に詰まった土を取り出す手間も惜しんで、ヴィネルは土を穿り返した。木箱の硬い感触を探して。
地中に埋まったままではまず間違いなく窒息死してしまう──五人の部下のことは後回しだった。自分の動く音以外には何も聞こえないので、行動不能になっていることは間違いないだろうが。

「がっ…ごほっ…ローっ…ド……っ!?ロード!!」

返事をしてください。ヴィネルは耳を澄ましながら、必死で指先に力を込める。
回復しない視力が忌まわしい──まあ見えていたところでカンテラは消えただろうから闇の中には違いないのだけれど。

一秒一秒が、まるで物理的な圧力を持って圧し掛かる。ヴィネルは正しく焦っていた。普段飽きるほどに「そうなってはいけない」と部下達に注意している事だが、実際なってみると如何に難しい命令だったのか良くわかる。

「ロードッ!!」

気が狂う。

ヴィネルは吼えながら腕を動かし続けた。
何処だ。何処にある。手のひらに当たる木の感触、一瞬湧き上がる途方も無い安堵、だが、只の折れた枝だというときの絶望。
石。切り株。枝。枝。石。根。固い土。違う。違う。幹。岩。下敷き?黙れ!!

自分は気絶していたのだろうか?いやそんな事は無い筈だ、まだ間に合う筈だ、そんな祈りにも似た言葉が脳内を支配して、心臓を締め付ける。

「ロードッ!!」

一声呼んでは、返る静寂に傷つけられる。
これが地獄というものだとしたら、ヴィネルは容易く信じただろう。

ここは闇であり、そして痛い。
失うなどということは考えられなかった。早く、早く見つけなければ。
そして何度目かに耳を澄ませた時、切り裂くように

「……ヴィネル」

静かな、静かな、声がした。

「──お前が探しているものが物資運搬用の小型木箱だとすれば、だいぶ見当違いのところに転がっている」

ああ。
なんということだろう。

その響きにヴィネルが思ったのは、凍りつくような安堵と、泣き出したいほどの絶望、そして少しの懐かしさ。
あまりのことに、ヴィネルは大きな声を上げて笑った。苦しかった。

「あはっ、ははははははは」

酷いな。全く酷い。この世とこの男は。
そして顔を上げたとき、ヴィネルは普段通りの自分を自覚した。







+++ +++ +++






シードは思った。
自分は馬鹿だ。それも、かなり確実に馬鹿だ。

話を聞くなり激昂した相手の握りこぶしを受け流して、唇を噛む。
掠れた声で、けれども諦めずに言葉を捜した。

「……おかしいと、思わないのか?」
「気が違ったようだな」

大尉の階級章をつけた男は、腐った鼠の死骸を見る目つきでシードにそう言った。

「死ぬか?この一大事に、気の狂った者に士気を乱されては困る」
「狂っているのは俺じゃない」
「その口の利き方、発言。許されるものではないのは軍人ならば知っている筈だ」

前線で上官命令に逆らうということは、最大のタブーだ。問答無用で殺しても構わない、というのが常識で。
もうこちらの言葉を聞く気などないのだろう、殺意に凝り固まった顔で男が剣を引き抜く。
シードはじり、と後退した。

「──っ?!」

突き通す一撃を、跳ね上げた切っ先で逸らした。
雑兵とは思えぬその身のこなしに、男の眼差しが緊張する。

「お前……?」
「良いから、言うことを聞け!!」
「なっ……!?」

あまりに理にかなわないことを言われると、一瞬反論の言葉がつかえるのは普通の反応だろう。
馬鹿に勝てるのは馬鹿だけなのだ。シードは漠然とそう思った。

相手の足元を素早く払い、そのため跳ね上げられた剣を顎を逸らしてよけると、胸元にぴたりと凶器を押し当てる。
そのまま上半身を倒し、男の目を覗き込む。

「……」
「……くっ」

その中には様々な感情が去来していたが、トータルで見ればまあ、動揺しているのだろう。当たり前かもしれないが。

「ヴィネルは、もういない」
「まだ言うかっ!!」

男が腹筋の力だけで起き上がる直前、シードは慌てて剣を退いた。

「危っ……!」

(ヤベェ、馬鹿さ加減じゃ負けてねぇんだコイツ)

そう思う間に、勝手に口が動く。
どうして、そんなに純粋に信じ込んだままなのだろう。その価値も──ないのに。
そんな事実を、死んでも自分の姿と重ね合わせたくはなかった。だから、眼を覚まさせたかった。

「危ねえだろうが!死ぬぞ!?」
「許さん!」

斬りかかって来る怒りに乱れた刃先は、簡単にとは言わずとも見切れる。
肉体的なものとは別の息苦しさに、シードは眉を寄せた。

(お前らの信じたものは……何なんだ?)

レナードとの会話が思い起こされる。
裏切りを知ってすら、それを受け入れて微笑む。それが──あるべき態度だというのか。
愛しているならば?

「っ……!」

鋭さを増してくる剣筋。吹き付ける殺気。
シードは、自分が何をしたいのかを考える。

これは、哀れみなのだろうか?
シードを突き動かすこの衝動は。殴り倒して、引き摺って、その意思を叩き折ってでも──

勝手に口が開き、自分でも思っても見ないような声が出た。

「降伏しろ!!」

生きろと思うのは。

男は何度目かのシードの言葉に、もう怒りは増さないようだった。
色を変えて──侮蔑。
床に唾を吐きかけ、眉を顰めて、男は罵った。

「っ……貴様と同じ砦で飯を食っていたとは吐き気がする!」
「……」
「大体、お前のような雑兵が、ヴィネル様の何を知る?憶測でものを言うな!」
「俺はっ……!」

不味い、とは思った。
思ったけれど、説得の手段が他には思いつかずに、シードはそのまま言葉を発してしまった。

「俺は皇国兵だっ!」

あーあ。馬鹿というより愚かだな、俺。

思わず叫んでしまった後、冷静な方の自分がそう呟いたのを、シードは確かに聞いた。
でもまあ、手遅れだったと思うことにする。

どの道、ここまで騒いだのだ。いくら大多数の兵が門に詰め掛けているとは言っても、他の同盟軍兵士がやってこないわけがない。

忙しそうに走り回る兵士達の中から、それなりに発言力があると思った者へのピンポイントの説得は、それなりにましな判断だと思ったのだが。
門の上に立って全員に呼びかけるという朝礼のような手段よりは、目立たないし死ぬ確率も少ない筈だったのだ。矢を射掛けられる心配もない。

(俺はいつも考えが足りない)

罵倒してくれる者がいないので、シードは自分でそう言うしかない。
どう考えても成功するわけがなかった。さらには、自分の素性すら大声で表明してしまったのでは──せっかく、鎧まで脱いで茂みに隠しておいたのだが。

破れかぶれに、シードは言い募った。それしか出来ることはなかった。

「だからお前らの知らないことも知ってる!言っているだろう──ロードもヴィネルも逃げたんだ!!」
「しっ……信じるものか、そんな言葉!」

叫んだ相手の形相が、何故か迷子の子どもに見える。
その子どもが、耳をふさいだまま癇癪を起こして、暴れている。

そんな時、他にどんな手段を取れば良い?

「皇国兵だと!?語るに落ちたな、尚更信用出来るか!誰か、いないのか──」
「信じてくれ……!」

剣戟の音が響く。
後ろから、駆け寄ってくる複数の足音がする。

「陽動にしては下手な手段だな!損得勘定でしか動かないのが敵というものだと、赤子でも知っている……!降伏しろだと?ふざけるな!!」

人を殺さないでいるということは、どんなにか幸福なことだ。
今更そんなものを羨ましがれるような身分ではないが、出来るなら多分、そちらを選んだのだ。

自分が馬鹿なのは知っている。けれど。

「降伏しろ!」

偽善よりも、偽悪の方が卑怯だぜ。
シードは、誰に向かってかはわからなかったのだけれども、心の中でそう言った。






+++ +++ +++






眼が、まだ見えていない。それは随分と不利だ。
ヴィネルは冷静に分析していた。

しかしヴィネルには確信がひとつあったので、慌てる必要はなかった。
口の中に残っている土をきちんと吐き出すついでに、言葉を投げる。

「……罠と暗器は、俺の得意分野だったのに。どんな仕掛けをしたんだ?」
「悪いが、偶然だ。お前が落とし穴など沢山掘るのがいけない」
「成る程。余計悔しいな」

ふう、とわざとらしい呆れたような溜息と共に、糾弾ではないのだろう──ただの事実認定としての言葉が返ってくる。

「お前は指揮官失格だ」
「そちら流に言えばそうなのだろうな。感情で判断を狂わす輩は上には立てない──だから足手まといの俺は戦場に捨てられた」

お前はそこにはいなかっただろう?
……そんな恨みがましい台詞を言うのは、ヴィネルのプライドが許さなかったけれど。

「文句を言うつもりはない。でなければまだ俺はそちら側で、金と自分の命の為に剣を振っていた」
「……」
「もっと大事なものを見つけたんだよ」

真っ暗な視界で相手のことを探る手段は、その声しかない。
けれど見えていたとしても、その表情が変わることはないのだろうから、結局同じことだ。

「──だから、投降しなかったと?」
「ああ、そうだ。ところで、面倒臭がりなお前が何故出張って来たのか聞いても構わないか?」
「お前に妙な意地を張り通させていれば、兵が無駄に死ぬだろう」
「成る程──それがお前の大義名分か。変わらないな、クルガン」

責められているのではないと、ヴィネルにはわかっている。
結局、どちらも自分の好きなようにしているだけなのだから。ルール、そして優先順位。そんなものは、自身の欲望でしか決められない。

「見捨てたものに対する感情は」

思いもかけないことを聞かれて、ヴィネルは少しだけ驚いた。
台詞が特別なのではない。その台詞を吐いたのがクルガンだったからこそ、ヴィネルは驚いたのだ。
永久凍土が永久不変だと思っても、多分そんな事はありえないのだろう。そんなくだらない事実が、少し思い浮かんだ。

「ああ、悪いと思っている」
「それだけか?」

ヴィネルは一度、静かに呼吸をした。
忘れていた口の中の苦味を再認識する。

「そうだな……ロードの身の回りの世話を整えたら、俺も後を追ってやろうかなとも思っている」
「そうなのか」
「何だその言い草は。俺にだって情くらいあるぞ。大切だよ、あいつらもな」

ははは、とヴィネルはまた乾いた笑い声を立てた。
この自分を動かしている感情はなんなのか。

自分でも、馬鹿げた真似をしているというのはわかっているのだ。
けれど、この感情が、この選択肢以外の道を選ばせなかった。
──恐怖、というものが。

ヴィネルは、昔馴染みに、昔と同じように無駄話をするつもりだった。
クルガンが動かない確信は、ある。

唇を舌で湿らし、瞼の異物感を確かめる。
涙は止まりかけていた。痛みも退いてきている。
もう少しすれば、眼を開けられる。

「昔聞いた話に──何をしても死ぬ定めの男がいたんだ」

そう切り出した。

「その男は物語の中で、相棒にこんな様な事を語った……自分が死を知ったのはいつなのだろう、と」

多分、とても近いところで埋もれたまま死んでいるに違いない部下達のことを、忘れているわけではない。
ただ、ヴィネルは次の一手を何より慎重に考えなければならなかった。クルガンが、ぎりぎり行動しない線というものを考えれば、このまま土を掘り続けるのは明らかにラインオーバーだ。
頭の隅で平行思考しながら、唇は澱みなく動く。

「生まれてから今までの中でに、確かにその瞬間があった筈なんだ。死ぬ、誰もに待ち受けているその終わりを、知る、ということ」

これは、誰から聞いた話だっただろう?
傭兵仲間ではない。部下でもない。

「物凄い衝撃があったに違いないのに──」
「……」
「けれど、その男はそれを覚えていなかった。彼はどういう結論を出したと思う?」

クルガンは、聞き役としてはそれ程悪い男ではない。
それが無関心から来ているのだとしても、話の腰を折られることが嫌いなヴィネルには都合が良かった。

「『俺はまだ、死を知らないままなんだ』」

それは、どういうものだろう?
何度も想像したことがある。ぬめった刃で、敵の首筋を撫でながら。生暖かい血飛沫と、肌を切り裂く激痛を感じながら。

「俺は、凄く共感した。俺も随分思い返してみたが、死なんてものを知った瞬間の記憶なんて何処にもなかったからな。クルガン、お前は思い出せるか?」
「否」
「だろう?舞台の上で、仰々しく役者が倒れる死、現実はもうちょっと情緒がなくて、俺が下した命令の先に纏めて転がっている、死。俺は、勿論怖いとは思ったが、よくわからないとも思っていた。俺は死を知らない、多分、きっと、死ぬまで知らないままだと」

死の溢れる戦場を駆けながら、しかし実感はなかった。
当たり前な事なのだろう。駆けているものは、まだ死んでいないものなのだから。

そう、思っていた。
けれど。

「でも今は知っている」

ヴィネルは笑い飛ばしたかった。
身が芯から冷えて、強張り、歯の根が合わずにがちがちと鳴る、この感情を笑い飛ばせたなら。

「この震えを、この怯えと悲哀と、叫びだしたくなるような嫌悪を、知っている。想像しただけで胸が悪くなるような……凍りつくような、古典劇のような仰々しい言葉でもまだ誇張し足りない、死を、俺は、今知っているんだ」

恐怖だ。

「この世界から、マリネッタ様が消える」

その話が現実味を帯びてきたとき、ヴィネルは途轍もなく動揺した。
死と言うものを、眼前に突きつけられて、細部まで詳しく説明された気がした。その奈落を。今まで何度も触れてきた筈の、しかしそれとは全く別物の恐怖を。

「これが、死と言うものだ。俺が、どれだけ、怯えているか……わかるか。クルガン」

答えはない。
きっと、クルガンにはわからないのだろう。この恐怖は。

「砦が落ちようが俺が消えようが、それは言葉だけの死だ。俺にとってはわからない、空想の、抽象の、曖昧な死なんだよ。でも」

狂ってしまわなければ、耐える事が出来ない。
ヴィネルは叫んだ。目の前にいる筈の男が、奪おうとしているものが、それが、どれ程のものであるかを。

「俺は恐ろしい。俺は心底恐ろしい。この先の未来に、絶対に許せないことが起こるのが!死を概念で理解した時なんかより、数百万倍も恐ろしい!」

言いながら、ヴィネルは立ち上がった。
腰の剣に、確かめるように触れる。そして眼を開けた。

「……」

思った通り酷い違和感がある。それに、明かりがないこともあり視界は殆ど目を瞑っていたときと変わらない。
けれど、闇の濃淡くらいは僅かにわかった。一段と闇の濃いその影から、平坦なその声が聞こえてくる。

「俺と一対一で戦うつもりか」

クルガンには見えている。彼は夜目が利くし、気配を読むのが上手い。
そして、ヴィネルの剣術でのクルガンに対する戦績は、一勝十二敗だ。ついでに言えば、チェスならば五十三勝五十一敗、仮想戦術討論ならば──何度繰り返したかわからないが、多分引き分けというところだろう。

しかし、ヴィネルは剣を抜いた。
そして、クルガンが動かない理由を堂々と指摘した。見えずとも、行動から判断してそれくらいはわかる。

「お前、足を折っているだろう?それなら勝算はあるさ」