彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。




『眠るようには、きっと死ねない。』








日の落ちた山道は、少しでも気を緩めれば命すら危険に晒される。
しかし可能な限り急がねばならない。ヴィネルは夜気にもかかわらず、うっすらと汗をかいていた。

明かりは自分と部下の一人が手に持っているカンテラが二つのみ。2人がかりで運んでいる木箱の中で、ロードはもう目覚めているだろうか。
叱られるのが嫌で、ヴィネルは声を掛けなかった。
今頃、入れ替わりのように山の反対の斜面から皇国軍が昇って来ているだろう。夜のうちに、穴だらけになった囲みを抜けて、なるべく早く同盟領まで逃げなければ。

「気を抜くなよ。山を降りるまでに、少なくとも一度は敵に会うと考えておけ」

この砦は皇国領と同盟領の境に位置するために、今までどちらもが何度か占領したことがある。
山を下りる道、抜け道の類は殆ど判明しているといっても過言ではない。
主要な道には関所があり、その他の細かな、進軍には適さない枝道にも見張りくらい置いているだろう。

「見つかったらとにかく可及的速やかに倒せ。騒がれれば元も子もない……まあ、この辺りに居るとしたらクルガン直属の者だけだろうからそう数は多くない筈だ」

連れには、自分の部下の中でも精鋭と思われるものを選んでいる。五人と数は少ないが、人の三倍分の働きはする筈だ。

「何故です?」
「悪役だからだよ」

部下の素朴な質問に、ヴィネルは苦く笑った。

「悪いことはすぐに漏れる……あの男はそんなに簡単に人を信じない」

おぼつかない視界の中、木の根に躓いて道を踏み外しかける。
次の分かれ道を左に。右に下っては、皇国軍に近づきすぎる。静かな山の中に進軍の音は思いがけず響くものだ。
部下の一人が、思いついたように言う。

「奴等のあの鎧、奇襲には向きませんね」
「こちらにとっては好都合だ。あの鎧を考案した奴は阿呆だ」
「けれど、実際に相対するとなるとあの防御力は脅威ですよ」

今度は違う者が返す。小声での会話。
極度に緊張した精神は、とても脆い。細心の注意を払った最高速度での前進に、緊張は勿論必要だが、鬱屈しては逆効果だ。
ヴィネルは一拍置いて、考える振りをしてから言った。

「確かに、防御力は高いな。だが割に合わない」

きっぱりと断言する。
急斜面に滑らないように脇の木の細い幹を掴んで、ヴィネルはそのまま話し続けた。

「皇国は何故、歩兵から弓兵から、一律にあれほどの鎧を着せるのだろうな?外観統一しなければ式典がみすぼらしいのかはわからないが、あんなものは足を引っ掛けて転ばせろ」
「簡単に言いますが……」
「俺の対皇国作戦はいつもそうだ。あの鎧を着て、騎兵はまだしも歩兵が戦場を駆け巡れるか。持久力の低い敵を機動力で翻弄して、適当な所に落とし穴でも掘っておけば良い」
「上から落とす油と石も準備を?」
「当然の事だ」

軽い笑いが何処からともなく漏れた。
勿論、皆が状況を理解している。自分達が、何処で何をしているのか。何を残して、何をしようとしているのか。
けれど、重苦しい悲壮な雰囲気はなかった。あるとすれば、何が何でもという執念だ。

「あの鎧が真価を発揮するとすれば、それは防衛戦でだな……あの厚みでどっしりと構えられては流石に突き破れない」

軽く溜息を吐いて、ヴィネルは目に付き刺さりかけた木の枝を避けた。
闇の中ではどんな努力をしても通常の三分の一ほどの速度でしか進めない。過ぎた苛立ちは判断を曇らせることを知っていたため、ヴィネルは平静を保つ努力をしていた。
失敗は出来ない。読み違えは自分の死より重い。必ず、必ず、生き延びさせる。
この木箱の中に、ヴィネルの世界が詰まっているのだ。いや、世界よりも重いものが。

ふと、道の先に僅かな音を捉えてヴィネルは足を止めた。
部下達にも沈黙を促す。

「……」

金属の摩擦音。数は多くないが、近い、これは──
その場にいたものの全ての鼓動が跳ね上がった。
殺しきれなかった吐息が、夜気に僅かに溶ける。

「……」

ヴィネルは眼を眇めた。
風に揺れる木々の梢の間を縫って届く僅かな音、それは。
横にいた一人が、目線で聞いてくる。
引き返しましょうか?と。

「……不要だ」

ヴィネルは僅かに笑って首を振った。
歩みを止めていた一行に、全身を促す。

「平気だ。あれは敵ではないどころか、人でもない」
「何故ですか?」
「皇国軍にしては音が小さすぎる。気配がなさ過ぎる。クルガンが手配した個人かとも思ったが、風と同調して鳴るところを見ると鍋釜の類ではないかな」
「……は?」

こんな山中までわざわざそんなものを担いできて、吊るす?
カンテラを持っていた一人が、間抜けな声を上げた。ふざけているとしか思えない。

「そんな昔話みたいなブラフはくだらないか?」
「ええ、まあ……」
「しかしまあ、こちらが平静な心理状態でないことを考えれば、有効ではあったろうよ。事実、聞こえた時点で勝手に焦って急いで引き返しても良い場面だ」

確かに、と右斜め後ろの部下が頷く。
ヴィネルであればこそ、見抜けたのかもしれない。このような極限の精神状態で、敵の気配を僅かにでも察知したならば途端に思慮分別はなくなるものだ。

それから十分ほど下ると、確かにヴィネルの言ったように、携帯用の鍋と甲冑の肩当が触れ合うようにして五、六個、しなりやすい木の枝に揺れていた。
風が吹くたびに揺れ、甲高い音を響かせる。はっきり言えば、気の抜ける光景だ。

ふむ、とヴィネルは納得したようにうなずいて、皆に振り返った。

「クルガンは、殆ど部下を連れていないらしい。まさか……一人かな」
「何故です?」

先程から似たような台詞ばかり言っている気がする。
──この人といると、「何故」という言葉の使用頻度が多くなるな、と言うのが、ヴィネルの配下に共通した意見だった。

「この光景だよ。もっと大規模にやれば皇国軍進軍とも錯覚させられたかもしれないのに、これではな。人手がないにも程がある」

この、大昔の兵法に出てくるような仕掛けを作ったのはクルガンだと、ヴィネルは殆ど確信している。
意外に、こういうちゃちな方法を好むのだ。それも、出来れば個人でも可能な単純なものを。
何でも自分ひとりで済まそうとする性格は、全く変わっていないらしい。

「複数に分かれればもっと効率が良いだろうにな。──奴には余程人望がないのか、もしくは……」

一度言葉を止めて、ヴィネルは苦く笑った。

「いや、それはないな」

顎をしゃくり、ヴィネルは今度は右の道を選んだ。
歩きながら部下を励ます。

「さて、油断は出来ないが、どうやらクルガンはかわしたらしい」
「何故──」
「仕掛けがあるということは、もう既に奴は此処を通過している……多分、私達が引き返すことを見越して一つ前の分かれ道を上に登っているのだろう。ニアミスだな、どうやらついている」

直後。
どおん、と遠く、爆音が響いた。
反射的に皆が振り返ったが、ヴィネルだけは前を見ていた。

衝突の証。
砦が落ちる、最初の悲鳴だ。





+++ +++ +++





がちゃたんっ!

シードは出来るだけ衝撃を吸収しようとしたが、鎧を身にまとったままでは成功したとは言い難かった。
固い感触と共に膝がしびれ、どうやら右足首を少し痛めたらしい。
けれどここで蹲っていても何の意味もない。シードは間髪入れずに立ち上がった。

「……さて、衝動だったがどうすっかな」

呟きながら地を蹴ってとりあえず走り出す。全く何の考えもない。
今考え付いたところでは、やはり侵入するのと同じように砦からは脱出するのも難しいだろうということだった。

幸いなことに、シードが落ちたのは人目の少ない砦の裏側で、見咎めた兵がわらわらと集まってくる、というようなことはなかった。
建物の角にひたりと身を貼り付け、かがり火の向こうを伺う。

「……」

兵達が、激しく動いていた。
大体が兵装を整え、大砲を動かしながら早口に何か叫んでいる。

(ウチの軍が攻めて来る、ってのはマジなのか)

はあ、と溜息をついて、シードは軽く壁を殴った。

(……あの野郎、そんな事一言も聞いてねえぞ)

渋面が勝手に形作られる。重苦しいものが胸のうちを渦巻く。
クルガンもヴィネルも、嘘吐きだ。当然のように裏切られ、裏切る。そしてそれを、後悔しない選択だと本気で思っているかもしれないから質が悪い。

そこまで考えたところで、シードは思わず低く呻いた。
丁度思いついたのだが、現在作戦進行中ということは、とりもなおさず部隊編成が行われたということで。

「ぐげげげげ」

奇妙な濁音が勝手に喉から漏れる。

シード中尉の不在は明々白々、どうにも取り繕いようがない。
脱走兵は軍法会議をすっ飛ばして処刑だ。くらりと軽い眩暈を覚えて、シードは壁に体重を預けた。

(食中りで下痢……意識不明の昏睡状態……いやいやそんなんで誤魔化されるか?森の中を散策していたら狐罠に引っかかった……足でも切断しないと信憑性がねえな。でもそれは嫌だ……一番ありそうなのはキノコだな。毒キノコ。生えてるよなそれくらい?)

くだらない考えが超高速で頭の中を流れる。
それを一応一巡りだけ循環させて、シードは地面に唾棄した。

「……どうなっても取り合えずアイツは道連れにしてやっからな」

腰の剣の重みを確かめる。
今、兵士達の注意は外に向いているために、動くのはそう難しくはない筈だ。一番無難なのは皇国兵が砦内部に攻め込んでくるまで何処かで大人しくじっとしていることなのだろうが──

何とか出来ないものか、とシードは考える。
皇国軍が近くまで攻め込んできていること自体、砦の陥落を暗示していた。最初から、なりふりかまわず攻め上がれば、被害は出るだろうが圧倒的な戦力差でいつでも叩き潰せた砦だ。しかし無駄な死傷を嫌い、篭城の補給路を断って追い詰める作戦だったのだが──ヴィネルの作戦指揮により大分こちらにたまった被害が、作戦本部の堪忍袋の尾を切ったのか。それともクルガンがそそのかしたのか。
確かに、ヴィネルがいなければ皇国軍はかなりたやすく砦を落とせるだろう。状況に応じた分析判断、それが出来る司令官がどれほど大切なものか、軍籍にあるものなら身に染みていた。
──侵攻を躊躇させる程の威圧感を与えていたヴィネルの才にだけは、シードは素直に賞賛を送る。

そして、とシードは思う。

否が応にも眼に入る、必死な顔をして走る兵士達。
此処は、トラスタと同じだ。あの反乱と。
『ヴィネル様がいれば』──その言葉だけで、ここの兵は命を捨てられる。潔いようで、盲信的な、その真っ直ぐさ。

けれどノエルと違うのは、ヴィネルにはその気持ちに答える気がなかったと言うことだ。

「……降伏、すれば」

ぽつり、と呟く。
今のうちに白旗を揚げれば──指揮官に見捨てられた哀れな兵たちの命は、助かる筈だ。
ヴィネルを、クルガンが逃すわけがないから。今なら、卑怯な指揮官の首ひとつで収まる。

「畜生、こんなやり方は柄じゃねえのによぉ……」

シードは顔を上げた。
レナードには話は通じない。あの男は、ヴィネルに甘過ぎる。彼らが逃げるための時間を出来る限り稼ぐつもりだ──何を犠牲にしても。

どうすれば良い?
時間がない。シードは真剣に自問自答した。





+++ +++ +++





「……」

砦の扉を破る衝突音、火薬の爆発音が、今響いた。
灰色の眼を眇めて、クルガンは寄りかかっていた木の幹から身を起こす。

しくじったか?

クルガンは現在の状況を鑑みて、素直にそう思った。
ヴィネルととうに鉢合わせても良い頃合だが、その気配もない。どうやら、かわされたか。

二分の一の確率に外れたのだ。
クルガンは待ち伏せていた三叉路の茂みから立ち上がり、すぐさま追跡を始めようとややくだりのルートを選んだ。

クルガンはあせってはいない。まだ十分に捕捉の機会はある。
昼日中と変わらない足取りで、クルガンはややくだりのルートを選んだ。可能性の高い地点を順に回りながら今度は山を降りる。ヴィネルの一行よりクルガン個人の進行速度のほうが数倍も速いことは明らかなので、これ以上の選択肢が増える前に追い詰めることも不可能ではない。
単独行動は身軽だ。いちいち説明をする必要もないし、いちいち気遣う必要もないし、いちいち相手の能力に合わせる必要もない。

ショートカットをしようと、道を外れて藪に踏み込んだ。明かりは布をかけて光を抑えたカンテラだけだが、クルガンは夜目が利く。
クルガンの歩みは驚くほど静かだ。柔らかい土を選び、枝葉の隙間を抜ける。するすると、下手をすると野生の動物にも遜色のない速度で、クルガンは歩を進めた。

突然。

「……っ!」

その足元の地面が、ぐらりと揺れた。