彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。






『眠るようには、きっと死ねない。』







「……さて。これは何の冗談だ?」

シードはガタリと椅子を引いて立ち上がった。
周りを囲む男達は、無言で視線だけを返してくる。

「そう興奮しないで下さい」

最後に部屋に入ってきた男は、やんわりと呼びかけて来た。
シードは鼻で笑って切り返す。

「オイオイ、さらっと無茶な事を言ってくれるなァ。普通、敵陣で剣を抜いた敵国兵に囲まれて平然としてたら、そいつは聖職者か化け物か自殺志願者だって」
「──軍人というのは化け物に近いのでは?」
「しかもなんだよその自虐的な態度。まあ否定はしねえよ。ちょっと狂ったくらいじゃねえとキツい事は確かだからさ」
「私は先程ようやくその真理に気付きました。少々遅かったようですが」

男はやや苦い笑みを浮かべて答える。
シードは渋面を作ると、がしがしと髪をかき混ぜた。

「勝手な上官を持つと、お互い苦労しますね」
「まあそれは凄く共感の持てる意見だけどな。話が飛んでるぞ」

どうもわからない。
危険は覚悟していたが、それはもう少し後の場面の筈だ。罠にせよ何にせよ、手薄な所への案内を彼らは必要としていた筈。
だから、切りかかられるならばその場所の検討が付いてからだと思っていたのだ。

「何、どうしたんだよ。悪いけど俺、口で言われないとわからないタイプだから成り行きくらい説明して欲しいんだけど」
「死んでもらいます」
「そりゃ結論じゃねえか!何なんだ、取引に応じるんだろ?案内役殺してどうすんだよ」
「取引?」

厭な角度で唇を曲げて、男は泣き笑いの表情を作った。

「騙しあいはもう沢山だ。裏切りも」
「……どういう意味だ?」
「貴方が案内する場所に、皇国兵が待ち伏せていないと誰が保証出来ますか?」
「それは──」
「貴方の言葉は信用出来ない。貴方は駒だからだ。騙して連れ出して暗殺なんて、使い古された手ですよ」

シードを待たせていたのは、砦の隅にある小部屋だ。
この人数で斬り合いをするには少々狭いが、そもそも斬り合うつもりはないのでかまわない。全方向から突き刺すだけで済む。憐憫の情は、ない。
シードを信用するのと、クルガンを信用するのでは次元が違う。
シードを殺すのと、クルガンを殺すのでは影響が違うように。
チェスゲームというのは残酷だ。いくら手駒が減ろうとも──王を狩られなければ負けぬ。

そして、と男は続けた。

「貴方もこちらを信用しなくて宜しい。ヴィネル様は、もう出発なさいました」
「……なんだと?」
「クルガン大佐もヴィネル様も、既に裏切りを前提に行動している。それって、逆にちょっと信頼に近いですよね」

薄暗い獣油の明かりに照らされて、男の顔には濃い影が出来ている。

「今夜にも、この砦は蹂躙されるでしょう。ヴィネル様が居ないから、皇国兵はやりたい放題出来ますよ。私達も必死に噛み付きますがね、最後だから」
「は?」
「こちらに兵を差し向ければ、この山は囲みきれませんよね?大丈夫、ヴィネル様は貴方が居なくても兵士の流れくらい掴める」
「おい!」
「本当は、確実に誘い込んで刺す気だったんでしょうけれどね。わざわざ月夜まで狙って」
「おい……!」
「結局この取引の勝ち負けを決めるのは、この城の存亡ではない。クルガン大佐が、ヴィネル様を捕捉出来るくらい有能かどうかだ──」

があん!と壁を叩く音が、部屋の空気を揺るがせる。

「どういう意味だと聞いてる!」

体を震わせる大声で、シードは怒鳴った。
逆に男は、静かに返した。一見まるで見当違いの、言葉を。

「指揮官代理の、レナードです」

その言葉に、シードを囲んでいた男達も、びくりと身を震わせた。
つまり──

「あの人は、この砦丸々ひとつを餌にして、ロードを連れて脱出しました」


本当に恨みたいのは、誰だ。





+++ +++ +++





クルガンは、月夜を歩いていた。
軍の指揮は、准将に任せてある。作戦にあわせて行動するくらい、どんな皇国兵にも出来るだろう。

軍靴のつま先が一瞬迷い、方向を定めた。
ヴィネルのことは良く知っている。だからこそ読み易いし、逆に読まれ易い。

彼がどれくらいの兵を連れているかが問題だが、クルガン一人で対処できないことはないと推察する。
目立たない方が良いし、そもそも、逃避行にそんなに多くの人員を割ける訳がない。

クルガンは早足で歩きつつ音を立てないという高度な芸当をこなしながら、何回もシミュレートした思索を進めた。
自分の提案した作戦と、それを見た場合のヴィネルの思考をトレースする。多分今頃、相手も同じ事をしているに違いない──皇国軍進軍を計算して脱出するヴィネルの考えを追うだろうクルガンの動向を予想するとは、もはやどんな思考回路だかわからないが。

追い詰められたヴィネルならそれをこなしてしまいそうではある。

シードから多少の情報くらいは得ているだろう。彼にとっては軍の先頭が山の中ほどに差し掛かるくらいに囲みを抜けるのが丁度良いタイミングだろうか。
皇国軍の進軍経路に顔を出す訳がないし、ロードを連れていては険しい道、崖は通れない。

(……奴の事だから、箱詰めくらいはやりそうだな)

読みに若干の修正を加える。崖以外は通ると考えても良さそうだ。
クルガンとしては、あまり進まれると選択肢が多くなるため、出来るだけ早い地点で捉えたかった。あまり砦に近すぎるのも困るが。
夕方のうちに外に出て隠れるという案はないだろう。そんなに早くロードとヴィネルが姿を消せば暴動が起きるし、そもそもシードが向こうに到着する前に動いては意味がない。

考え過ぎて頭が痛くなるほど考えたが、やはりこの先だ。
五割ほどの確率で、ヴィネルと接触できるだろう。
そして──

(…………)

──読みが外れれば、どうしようもなかったと言い訳が出来る。
だからこそ、クルガンはそれを望むわけにはいかなかった。手を抜くわけには。

そんな甘さは、化け物に必要ない。

優先順位を認識するのは、とてもとてもとてもとても、大事なことだ。
でなければ、切っ先が鈍ってしまう。

道のりは、長く感じているようで、それでもとても短いようで。
過去を思い出しているわけではない。それだけは確かだった。


只、あのとき願ったことを忘れていない自分が居る。






+++ +++ +++






「……俺には全然わからねえな」

低いその声には静かな怒りが湛えられていて、むしろ、自分達のためであろうそれがレナードには心地良かった。
本当は、こうあるべきなのだろう。

「指揮官が、兵を置いて、逃げただ?」

ゆっくりと、ゆっくりと発音される。事実を突きつけられる。
レナードは、逆に冷静だった。不思議なほど。

「貴方が怒ることではないでしょうに」
「いいや怒るね」

シードの返答は素早かった。

「仕方ないでしょう。ヴィネル様にはもっと大事なものがあるのですから」
「仕方ない?馬鹿かテメェ、イヤホント馬鹿だな」

子どものような罵倒に、レナードは溜息を吐いた。
別に、話すことはないのだ。自分の馬鹿さ加減は、知っているつもりだから。

「……もう良いから、死んでください」
「良い訳ねえだろ」
「待っている間にそこの水差しから一口でも飲んでいれば、もっと楽に死ねたのに。いや、今からでも遅いわけではありませんが」
「する訳ねえだろ!」

シードは、一挙動で剣を抜いた。
ぎらり、と眼差しが光る。

確かに眺めていたはずなのに、レナードにはその軌跡がわからなかった。
囲む男達に緊張が走る。

シードは体の一部のように付属している剣を握り締めて唸った。

「テメェら、馬鹿だな」
「……」
「俺だったら、殴る。そんでそいつの首でも突き出してやるよ敵サンの前にな!」
「──自分の上官にも同じことが言えますか」
「ああ言ってやるさ何度でも!」

シードが吼える。

「俺は上官の為に命張ってる訳じゃない──俺は、誰かの大事なものを尊重するために敵を斬ってる訳じゃない!俺は!」

がきん、と。
突然、男の一人が構えていた剣が折れた。
何故なのか、咄嗟には誰もわからなかった。レナードは、シードの構えが変わっているのを見て初めて気付いたくらいだ。

「俺は、俺の為に軍人になった……この生き方を選んだんだ。俺はハイランドの皇国兵だ……!」

ざくり、と。
何かが胸に突き刺さった気がしたが、見ても何ともなっていなかった。
胸を張って素直にそう言える彼が、正直とても羨ましい。レナードは僅かに目を逸らした。

「……私の選んだものは、同盟ではなくあの人だった」

シードの目が苦しげに歪む。
掠れた声が鼓膜を震わせた。

「テメェの上官は最低だ」
「侮辱は許さない」
「裏切られたのにか!?」
「貴方にだってわかる筈だ!」

頭を振って、シードがしたように拳を壁に叩きつける。
擦りむいた痛みは感じなかった。

「貴方にとっての皇国が、ヴィネル様にとってのロードなんだ!」
「……それで?テメェにとってはヴィネルが一番なのか」

ふん、とシードは鼻を鳴らした。
ああ、炎のようだな、と陳腐なことをレナードは思った。髪ではない、その気性の方がもっと。

「そいつが狂っても、裏切っても、ついて行くのかよ、怒りもせずに!そんなの言い訳だろうが……!」

がん、と衝突音がした。
凝視していたはずだ──シードの剣は動いていない。

「……!」

その代わりに、彼の足先が、背後に立っていた男の鳩尾に突き刺さっていた。
一瞬遅れて男が床に崩れ落ちる。

しゅっ!

反射的に、剣が囲みの中心に向かって突き出された。
しかし、赤い髪の青年はもうそこには居ない。

彼は既に、窓際に移動していた。驚異的な反射神経。

「テメェは、殴れば良かったんだ」
「そんな」
「……聞き分けの良い振りして、どんなことでも許せるなんて、それじゃどんな所が大事なのかもわからねえじゃねえか。そんなものを後生大事に抱え込んでどうするって?それは、目が眩んでるって言うんだよ」

残酷な言葉。
レナードは思わず、今まで手にしていたランタンを赤い髪に向かって投げつけた。衝動だった。
勿論当たるわけがない。ガシャリとガラスが飛び散って、シードの頬を僅かに傷つけはしたが。

「貴方だって……貴方だって、もしこうなったら!」

喉が裂ける。その先が続かない。

「こんな気持ちを!好きで……私が…味わっていると!」

シードは、目を細めた。言いたいことはきっと伝わっている。
胸が痛かった。真剣なのは誰もが同じだから。

「ハイランドに裏切られたら……」

そんな想像はしたくない。
レナードの気持ちだって、本当はわかる。けれど、シードは己の意志を曲げるわけにはいかなかった。

自分は、自分の望むことを、自分に出来る限り、自分の命を懸けて。
獣のような生き方。真っ正直で、けれど本当に難しい。理性ではなかった。只、そう在りたいと望むだけ。


「その時は正すさ。何度でも。俺は──そんな祖国は、見たくない」











窓の開いた部屋に夜風が吹き込んで、レナードは随分長い間続いた沈黙を破った。

「何で、黙っているんですか」

俯いたまま、部下の顔が見られない。
ヴィネルの脱出を知らせては居なかった──レナードは、ここで自分に刃が向けられても、甘受するつもりだった。
どうせ、今夜全ては終わるから。

「……怒らないんですか。あの皇国兵が言ったことは、正しいのに」

先程ヴィネル自身に言われたのと、全く同じような質問がぽつりと落ちた。

「見捨てられたんですよ」

これは、自傷行為だ。
レナードには自覚があった。けれど、言葉は零れ出てくる。

「私も、貴方達も、あの人についてきたのに。こんな状況で、脱走する人だって居なかったのに」

それほど信頼していた。それほど心酔していた。
赤い炎が、凄く真っ当に責めるから、こう脆くなる。

「それでもあの人にはあの方のほうが大事なんだって」

恨みたいのは誰だ。

「そんな我侭を許している私が馬鹿なんですか」

みっともない掠れ声が、響いて。
けれど、ヴィネルを、レナードを責める言葉は、部屋の何処からも沸いてこなかった。

熱いものが頬を伝う。
どんなことも受け入れるというのは馬鹿かもしれない。確かに、馬鹿かもしれない。


「何で貴方達までそんな馬鹿なんですか……」


それでもこんなに──。

もう、言葉にならなかった。






「……黙っていて、済みませんでした」

男達は、完璧な敬礼を返した。