『眠るようには、きっと死ねない。』
彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。
『眠るようには、きっと死ねない。』
シードはクルガンの幕舎から一歩踏み出して、眇めた目で陣営を眺めやった。
見咎められて困る、という程ではないのだが、親しいと思われては後々面倒だし、妙な噂が立つのはもっと嫌だ。
流石に夜が明ける直前という時間帯だ、哨戒の兵士以外が出歩いていることはない。
普通なら指揮官の幕舎の周りには警備兵くらいついていても良さそうなものだが、クルガンは「必要ない」の一言で兵を遠ざけた。
彼個人の性格というものもあるのだろうが、一番の理由としては、悪だくみ(クルガンに言わせれば、最大利率の探求)は秘密裏に行うに限るからだと睨んでいる。
というわけで、シードがこっそりとねぐらに帰るのは気負う必要もない程簡単なことだ。
同じ幕舎に寝起きしている者には、一晩の不在は明白だろうが、そんなものは適当な理由を作って誤魔化せる。
いや、誤魔化すまでもないだろう、朝帰りの若者に理由を訊くほど野暮な奴は滅多にいない。皆勝手に納得してくれる。何を想像するかは死んでも知りたくないものだが──というのは、勿論こんな所で女に出会えるはずはないからだ。
ぱきぱきと首を鳴らして、シードは給仕当番を誰に押し付けるか思案し始めた。
全く、クルガンという男は人の都合も気にせず(それは、気付いていないよりもたちが悪い)無理難題を押し付けてくる。勝負に乗せられたのは自分の責任だけれども、いつか復讐してやろう──勿論チェスでではなく、だ。シードは流石にそこまで自惚れてはいない。
今日も一日、姿を消して怪しまれぬようにしなければならなかった。
敵城に向かうのを誰に気取られても命が危ない。スパイ容疑で首切りがオチだ。その場合、断言してもいいが絶対にクルガンはシードを庇わない。
シードは一応中尉であるから、何人かの部下の面倒を見なければならない立場だ。けれど彼らはもう大分諦めてくれたようなので、そのあたりのことは心配していない。
サボり癖のある人だ、位の感想でどうにかなるだろう、とシードは楽観的に思った。
またも危険を掻い潜ってヴィネルに会いに行かねばならないという事実は、それ程シードの心を重くはしていない。
確かに、こちらの提案が却下されていれば、一番危険なのはシードだ。けれど、心配することはないだろうと軽く考える。
クルガンが、割の合わない賭けをすることはない筈だ。交渉決裂の可能性がもしあるとしたら、この依頼はシードを消すためのものだったのだと考えていい。
只、シード一人を消すために此処まで手の込んだことをする必要はないので、つまり彼は安全だと言って良かった。
それは信頼というものではなく、単にクルガンのやり方を読んでいるだけだ。
提案が承諾されればシードはそのままヴィネルとロード・フィアルグを連れて前もって決めてあるポイントへ赴けば良い。
その後ヴィネルを拘束。楽とは言わないが、複雑なことではない。
「くるっくー」
頭の後ろで手を組んで歩きながらシードは喉を鳴らした。伝書鳩の真似である。
平和の使者にはなれそうもないけどな、とシードは皮肉げに考えた。
必要な血ならば流せるのかもしれなかった。でなければ、剣を握ってこんなところにはいない。
+++ +++ +++
クルガンはシードが幕舎を出るのを見送り、それから今まで書いていた作戦案をざっと見直した。
これから自軍の総司令官に会いに行き、作戦を説明し、今夜戦を仕掛けるつもりである。ヴィネルに対して攻めあぐねていた彼は、きっとこの提案を受け入れるだろう。
そしてクルガンの名前も、秘密裏の取引も黙っていてくれるだろう。
ブレイズ・トリアール准将は、手柄を立てるのに遠慮する人柄ではなかった。クルガンにとっても好都合だ──下手に目立っては今後やりにくい。
貴族達に睨まれるのも出来れば避けたかった。宮殿の大広間の中で談笑しながら、何故か軍内部に手が届く魔法は、構造的には不可解極まりない。が、通用する事は確かだ。
平民出の常識を覆すには、まだ機が早い。実力登用制も、ルカ様の発言力が大きくなってからぽつぽつと囁かれ始めた単語に過ぎない。
そういえばシードには何も話していなかったな、とクルガンは今思いついたように考えた。
まあ良い、と思う。話していれば噛み付かれたし、彼に運があれば生き残るだろう。
+++ +++ +++
「罠だ。完全にな」
独り言のようにヴィネルは言った。
準備があるからと使者を下がらせ、自身は腰に剣を佩いている、その動作の途中。
レナードはその肩に質素なマントを着せかけながら問った。
「予想ではなく確信が持てたのは何故ですか?」
「使者がいまだに正式なものでないからな」
軽く礼を言うと扉を開け、自室から廊下に出る。
レナードはその斜め後ろにつき従った。
「奴が正当な取引をするつもりなら、こうまで秘密裏に事は進めまい。広く知られては不味い事を企んでいる証拠だ」
冷えた石造りの廊下に、小声が落ちる。
ヴィネルは外套留めの位置を神経質に直しながら歩を進めた。
「いかにもクルガンらしい方法だ。奴は、ハイランドというものを阿呆のように大事にしているからな」
「──どういう意味です?」
「考えてみろ、簡単な事だ。頭というのは首から上が寂しいから載っているのか?」
そんなに高等な道具は自分には必要ないのに、とレナードは思ったが黙っていた。
ヴィネルの命令を速やかに実行する、または実行できるようにするのが副官の役目だ。ヴィネルもそう思っているだろう。只単に、質問責めにされるのが鬱陶しいのだろうと納得する。
「……もしも」
十秒ほど考えてからレナードは口を開いた。
「もしも卑怯な手口でフィアルグ様やヴィネル様を討たれたと知ったならば、民の怒りは相当なものになるかと?」
「そうだな」
「ハイランドがこの地を占領し服従させるのに余計な苦難が付き纏う……」
「半分正解だ。残りは、皇国兵士の士気だな。自身の行為を卑怯と思えば足取りは普通重くなる。それを平然と受け流す奴は、可愛げがないと言われるんだ」
何が面白いのか、ヴィネルは喉の奥で、炉端でゆっくりと煮込まれた鍋のようにクツクツと笑った。それは場違いに平穏な笑いだった。
レナードの喉が勝手に詰まる。つい十数時間前に聞かされた言葉が、脳髄の何処かに確実に刺さっている。
『──俺は生きてはいないだろうし』
覚悟をしている、といった悲壮な空気はない。只、淡々と日常の勤めを果たすように。
「それならばそもそも正々堂々と、罠など仕組まねば良いではありませんか……卑怯と思うなら!」
抑えていたが、事態の理不尽さに少しばかり声が荒れた。レナードは渋面をつくり、それ以上を堪える。
「奴には俺とロードが邪魔なのだ。自軍を無駄に消費させる事も望まない」
「しかし彼は貴方様の知り合いでしょう──」
いや、ヴィネルはクルガンのことを良く知っている口ぶりだった。
その続きは言葉にならずに、ヴィネルに遮られる。
「今はハイランドの敵だ」
たったそれだけの言葉が、まるできちんとした結論のようだった。
「クルガンにはそれで充分だろう」
理解できないと言った風に首を振る部下に、ヴィネルは肩越しに苦笑して見せる。
情のあるなしは関係がなかった。何より大切なものを知っているのなら。
自分がしていることも、それと同じ。
「悪いが、俺も奴も器量が大きくないようだ。とんだとばっちりだな、皆」
そして笑いを消して、ヴィネルは眼差しを光らせた。
未来を予測するように告げる。
「それに、まだこの程度は笑えるものに違いない……奴が奴自身の名で一軍の総指揮を取れるようになったならば、益々手段を選ばなくなる」
「そこまでわかって、では何故貴方様は」
「言ったろう。乗った方が確率が高いと」
ヴィネルが言っているのは、彼や、彼の部下や、城の兵達の存命ではない。
只一人、ロードフィアルグの無事である。黙ってしまった副官から視線を外し、ヴィネルはやや足を速めた。
気が急いているのかも知れない。
目的の扉の前に立ち、軽くノックをする。彼の忠誠を丸ごと持っていってしまった人物の居室。
誰何の声が穏やかに響く。ヴィネルはいつものように答えた。
「俺です」
続いて出た入室の許しに従い丁寧にドアを開けた。
戸口のところで一度丁重な礼をとり、足を踏み出す。
ロード・フィアルグは椅子に座っていた。
立ち上がろうとするのをヴィネルは制して、その前に跪く。
「お話があります」
ロードが口を開く前に、ヴィネルは続けた。
「──戦況はいよいよ厳しく、我々の未来はこのままでは尽きるのみ。そのことは、言わずとも既にうっすらと感じ取っておられる筈だ。そこで俺は決断しました……戦術や軍策は俺に一任されていますね?これは作戦の一環です」
言い訳のようだな、と内心自嘲する。
騙すような真似はしたくはないが、ヴィネルはしたくないことも出来るつくりになっている為、面倒はない。
「ロードには城を脱出して頂きます」
「!」
反応する隙を与えず、ヴィネルは握りこんだ拳の中の札を発動させた。
「『眠りの風』」
魔法に耐性のないロードの体が、椅子の上でぐらりと傾いだ。
腕を伸ばし受け止めて、ヴィネルはレナードに部屋に入ってくるよう呼びかける。
レナードは指示されて持っていた荷運び用の大きめの木箱と、気を失っているロードをたっぷり五秒間は順番に見詰め、恐る恐る口を開いた。
「まさか……」
「詰めるんだ。空気穴は開けてある」
口を開閉させている副官を放っておいて、ヴィネルはロードを抱き上げた。
そしてクッションを敷いた箱の中にそっと下ろす。取り合えず、安全なところに出るまで大人しくしていて貰えれば良い。
「乱暴です」
「俺でなければ殴って気絶させている。その方が早いからな」
「説明も」
「足りなかったか?しかしこの方に舌を噛ませるわけにはいくまい。もう黙れ」
「貴方は……」
言葉を呑んだレナードを尻目に、ヴィネルは木箱をうやうやしく担ぎ上げると、廊下に足を踏み出した。
待たせてある部下を連れ、シードを留めている部屋に向かうために。
それは死出の旅路か。ロード以外の者の。
当然のように進むその背中に向かって、レナードは思わず走りかけた。
「っ、私は……!」
「言ったな、残れ」
軽い言葉で、動きを止めてしまう体。
自然に出る敬礼。
「──Yes,sir」
ふとヴィネルは足を止め、思い出したように振り返って自らの副官に向き直った。
「ああそうだ、今夜にでもハイランドは動くぞ」
ヴィネルがいなくなった隙に。
クルガンならそれくらいはそそのかすだろうと、ヴィネルは予測している。
「どうせなら──早めに投降しろ。俺が言えた義理ではないが」
「……Yes,sir」
「今更なことを繰り返すが、俺が逃げたと知れば士気も下がるだろうし、お前が戦術理論でクルガンに勝てるとも思えん。勝てる可能性は万が一にもない」
「……Yes,sir」
「それは何か、意趣返しのつもりか?俺だって悪いとは思っているんだがな。指揮権を譲ったらお前も処刑される」
「Yes,sir」
「並べてみると途轍もない我侭だ。城ひとつとその人員、信頼と情を寄せてくれる部下を身勝手に踏み躙るとは。鬼畜を体現したな、俺は」
「……何が仰りたいのですか?」
意図がつかめずに、レナードは訊いた。
ヴィネルは、軽く溜息を吐いた。栗色の瞳がまっすぐに見詰めてくる。気圧されて、レナードはわずかに身を仰け反らせた。
木箱を大事そうに抱えながら、彼の上官は、半ば嬉しげにも見える様子で呟いた。
「──俺は大概狂っている。自覚は有るんだ、多分奴もな」
そしてレナードに向かって微笑んだ。
哀れんではいないのだろう。只、思いついたことをそのまま口に出すように。
「しかしお前には無いようだな、自覚が」
ヴィネルは全く悪びれずに、そう言った。
何をしても許してくれるだろうと、本気でそう思っていなければ出来ない残酷さで。
「悪いが、お前も狂っているぞ。何故俺を裏切らないんだ?」
──こんな酷い男を。
一度も殴り飛ばさなかったのは奇跡だ。
震える声でレナードはようやく言った。
「……副官ですから」
「そうか。俺には勿体無かったな……」
ヴィネルは悪戯めいた表情を顔に載せ、頷いて見せた。レナードは思わず、敬礼を返した。
彼にとっては軽い言葉が、自分の胸をこんなにも傷つける。ためらいもなく背を向けるその手軽さは、彼にしては優しさのつもりなのかもしれない。
「お前は素晴らしい副官だ──人間的にどうかと思うが」
貴方には言われたくない。
そう思ったが声は出なかった。
そのままその背が去るのを見送って、レナードはその場にしゃがみこんだ。
迷子の子供のように、無様にも。膝の上に腕を重ねて、そこに顔を埋める。
わずかに空気を振るわせる嗚咽は、多分空耳だろう。
自分は何だ?恋に破れた少女か?違う、普通恋愛だって此処まで盲目にはならない。
……今の姿を客観視したら情けなくて死んでしまいそうだ。
いや、その前にあの人の命令を果たしてから、と思うのは多分自分が骨の髄まで馬鹿だからなのだろう。