眠るようには、きっと死ねない。











彼は眠りに落ちるとき、まるで突き落とされるようだといつも思う。
目を閉じて浮遊感に身を任せ、意識は吸い込まれて消える。
それはとても、とてもとても、心地よかったりする。








『眠るようには、きっと死ねない』







「てゆーかさ。無駄だったんじゃねえの?取引なんてさ」
「何を今更」

クルガンは膝の上に開いた書物から視線を逸らさぬまま、端的にそう答えた。
数秒の間の後、言葉を付け足す。

「そんな事が言えた義理ですか、片棒を担いだ密使殿」
「しょーがねえじゃん」

シードはそう言うと首筋に手を当て、軽く渋面を作った。
ここはクルガンの幕舎であるのだが、シードは自分こそ主人であるかのように堂々と寛いでいる。しかしその事にわざわざ文句をつける程暇な輩も此処には居ない。

しょーがねえじゃん、とシードは今度は溜め息と一緒にそう吐き出し、諦めたように右手をひらひらと振った。

「負けた方がひとつ言う事聞く約束だったしな」

ヴィネルの篭る砦に対するハイランド軍、数は約七千。
クルガンはそのうちの二個大隊──二千程の兵を任されていた。が、総指揮を執ってはいない。
よってシードのヴィネル訪問は、全くの非公式、秘密裏に行われたものであった。
つまり、正式命令でもなんでもない。クルガンの個人的な頼みにより、シードは単身敵城に乗り込んだのである。

シードは敷物の上に転がったまま、ぐう、と伸びをした。
いくら最初は公的な使者に扮したといえ、相当危ない橋を渡ったのだ。精神的疲労感は尋常ではない。
上官に内緒で敵と密約を交わすなど越権行為そのもの。発覚すれば首が飛ぶ。
だが、クルガンの感想などシードは聞かなくてもわかっている。『発覚しなければ良いのです』、その一言だ。

頁を繰る音が幕舎内を反射し、それと同じくらい乾いた声が落ちる。

「義理の為に命を懸けるとは思わなかった」
「かーっ!どの口でんな事言いやがる」

シードは全身のばねを使って一瞬で跳ね起きた。
此方を見ていないクルガンに、それでも構わずびしりと人差し指を突きつける。

「俺の性格まで思い切り見切ってけしかけたくせに」

クルガンは片手を眉間に当てた。
記憶を反芻し、視線は頁に落としたままで出来る限り正確に当時の台詞を再現する。

「『出来ないのですか』」
「んなワケあるか!」

過去と全く同じ呼吸でシードは答え、直後にそれに気付いて唇をひん曲げた。
クルガンは気にせず続ける。

「思った事を言ったまでです」
「厭味!厭味極まりねぇ!あの軽蔑しきった目がわざとじゃねえなら何なんだっつーの」

ふう、と溜め息をひとつ吐いてクルガンはぱたりと本を閉じた。
そんなに嫌だったのなら、と忠告をひとつ与える。

「これからは相手の力量を見極めて勝負を仕掛ける事だ」
「だーかーら誰がチェス勝負だっつったよ!?」

惨敗というのも控えめな表現であった一局を思い出して顔を歪めつつ、シードは喚いた。

「普通勝負しろっつったら剣だろが剣」

それに対する答えは一言。

「疲れますから」
「………そこまではっきり言い切られると反論する気も起きなくなるな」

拗ねたように再び床に転がったシードを、クルガンは敷物と同列に並べて認識した。
数瞬考えてからひとつフォローを入れる。

「まあ最後まで勝負を諦めなかった姿勢は褒めるべきだと」
「ああもう良いよ馬鹿阿呆一遍死ねこの腐れ根性」

シードは既に目を閉じていて、投げやりにクルガンの言葉を遮った。勿論腹いせに暴言も少し付け足して。
クルガンはゆっくりと瞬きした。厚い本を手に持ったまま、椅子から立ち上がる。

「……………………………」

自然な動作で(そう、まるで敷物に対するのと同じように)、己の室内履きでシードの顔面を踏みつけ、書棚へと向かう。
読み終わった本と入れ替えに新しい本を引き出し、痛みに無声でのたうっていたシードの、今度は後頭部を踏みつける。
そしてクルガンは何事も無かったかのように定位置へと戻った。一連の動作で新しい本の表紙を開く。

「………アンタさー」

てっきりもう口を開く力などないだろうと見込んでいたシードからの呼びかけに、クルガンは多少眉を顰めて視線を送った。
潰されて赤くなった鼻を擦りながら、シードが転がったままの体勢でクルガンを見上げる。

「また妙な事考えてねぇよな?」
「考えていませんよ」

赤茶の瞳を見据え、クルガンは淡々とそう断言した。
妙な事など考える余裕は無い。特に、軍などと言うところでは。

クルガンはまた本に視線を戻した。
『妙』に対する二人の判断基準に食い違いがあるとしても、それをわざわざ告げてやる気など毛頭無い。
そんなことをしても疲れるだけだ。

「………ならいーけどな」

数秒の沈黙の後、そう言ってシードは軽い動作で起き上がった。首をごきごきと鳴らし、気だるそうに幕舎の内と外とを隔てる布を捲くる。
途端に滑り込んだ冷気が、乾いた羊皮紙のページを揺らした。

片手だけひらひらとおざなりに振る、彼独自の挨拶。肩越しにそれを示して、シードはクルガンの幕舎を出て行った。
去り際に一言だけ残して。

「後悔しねぇような選択をしろよ」
当然(ポジティヴ)

間髪も入れられずに答えた台詞は、乾ききっていて色が無い。





+++ +++ +++





ヴィネルは背後の気配には気付いていたが、特にリアクションは起こさなかった。
言いたい事があるなら、そのうち言ってくるだろう。

数分の後。

「───ヴィネル様」

予想通りに遠慮がちな呼びかけだ。
控えめなその響きが夜の空気に溶け消え、それから更に数秒数えてから、ヴィネルは振り向かずに答えを返した。

「何だ」
「………いえ」

月明かりを浴びて冴え冴えと光るテラスの手すりに片手を残したまま、ヴィネルは体をねじった。
窓枠を隔てて室内、暗がりの中から此方を見据える双眸を視界に入れる。

そこに居るのは彼の副官だった。どうしてもヴィネルの決断が気になるのだろう。
クルガンからの取引の内容は既に伝えてあった。実際に書状も見せている。

ヴィネルの副官は殊更に、特別に有能と言うわけではなかったが、何をやらせても普通以上には出来る男だ。ヴィネルはそう判断している。

そう、平均以上ではある───が、トップに立てる才は無い。

だが、そんなものは副官には必要ないのだ。
変に頭の切れる部下など、ヴィネルは欲しくなかった。余計な事を考える者は造反し易く、誠実さだけに心身を捧げられない。

馬鹿は論外だが、小賢しくとも不可でなのある。そう──例えばクルガンのような人物は、どんなに有能でも絶対に副官になどしたくなかった。
ヴィネルの考える副官の仕事は、あくまで補佐。
独自の見解を持つ事は発想の偏りを防ぐためにも当然必要だろうが、あくまでヴィネルの目の届く範囲での発想でなければいけない。

ヴィネルには指揮官としての才があった。なれば副官に求めるのは彼の能力を後押しする事、それだけである。

「まさか応じるおつもりですか」

副官は乾いた唇を舌で湿らせて、そう問った。

明日───いや、もう今日。シードは再びやってくる。否か応かを決めるのはこの時しかない。
まさかロード・フィアルグの耳には入れられない。
ヴィネルの身柄と引き換えに、ロードを同盟領まで逃がす算段など。

「………思案中だ」

ヴィネルは自身の栗色の髪を梳いて答えた。
冷たい指先はすっかり感覚が無くなっている。

シードは敵で、クルガンも敵だ。
それくらいは、ヴィネルはとっくに承知している。

「クルガンとやらは信用できる人物ですか?」
「そうでもないな」

ヴィネルは軽く答えた。
まさか清廉潔白、騎士の鑑などとは言えない。

「罠の可能性もあると」
「あるだろうな」

どんな約束も、破られないという保証は無い。敵味方なら尚更に。
ヴィネルは腰でテラスに寄りかかり、ハイランドの野営の灯を背景に笑んで見せた。

「それを承知でも考える余地があると」
「レナード」

ヴィネルは遮るように副官の名前を呼んだ。
一瞬で彼の背筋が伸ばし直された事を感覚で捉える。

「状況は我が軍に圧倒的不利。何せ篭城しても援軍や補給の来る可能性がゼロだからな。事実上、見捨てられている」
「は」
「ハイランドはこのまま待っているだけで勝利するんだ。俺が嫌がらせみたいにたまに抗戦して気分を晴らしてる、それが鬱陶しい他に特に問題は無い」
「は」
「何度も言うのは癪なんでこれが最後にするが、聞け」
「は」
「俺達は負ける」

そう言い放って、ヴィネルは首を振った。
苛ついているわけではなかったが、気分が良い筈もない。

「そしてこのままでは、ロードはこう言い出すんだ。『何故降伏しないのか。兵が無駄に死ぬ』」

ロードの性格を良く知る副官は頷いた。
フィアルグ公は戦に疎く軍事はヴィネルに一任している。だが、何も知らずとも流石にこの状況がわからない程愚鈍ではないだろう。

「それなら俺はこう答える他無い。『貴方様の首と引き換えにしてまで、この城の者を生き長らえさせる気は御座いません』

これは、世間一般の常識に照らし合わせれば正気ではない答えだろう。しかしヴィネルは平然としていた。
自分がまともな判断基準を有していない事は知っている。

「だがそんな事が面と向かって言えるか?」
「…………いえ、無理です。自害なさいますよあの方は」

にっこりと笑いながら、取り押さえられないうちに舌を噛み切るくらいはするだろう。
苦々しげな顔で副官はそれを認めた。容易に想像がつくのだ。
静かな諦念に身を浸しながら、副官は闇の中で俯く。

ヴィネルはその様子を眺め、感心したように呟いた。

「お前は怒らないな」
「………何がですか?」
「俺が、俺やお前らの数人、数百人数万人の命よりも、あの方が大事だと言っても」

副官は何も考えずに答えた。

「それが貴方様ですから」
「物分りの良い副官だ」

ヴィネルは満足して一度頷いた。

しかし副官は、同じ境地には達せない。わかりはしても、納得出来るわけがない。
震える舌で、絶望的な答えを導く問いを発する。

レナードはヴィネルの副官だった。ロード・フィアルグではなく。

「もし、取引が成功したとしても……」
「───俺は生きてはいないだろうし、俺が居なくなった後のこの城は丸裸だ。お前達は降伏しても良いが向こうが容赦するかは微妙な線だな」
「…………………」
「まあ諦めた方がいい」

手足が、己の命の尽きる事を望む筈が無いのだ。
しかし頭の命令には従う他ない。

「………私は、残されるのですか」

静かに空気を伝わる哀惜。
ヴィネルはそれを容赦なく遮断する。

「そうだ。お前が指揮を執り、お前が判断しろ」
「そんな命令は、初めてです」

レナードは体を震わせた。夜風のせいではなく。

「………つまり、貴方の副官ではなくなると」

責める響きが僅かに混ざっていても、それは仕方の無い事だっただろう。
ヴィネルは苦笑いしながら、しかし悪びれずに答えた。

「すまんな。最後まで一緒だと言ってやれれば良かったのだが」







「俺は、何よりもロードの身柄を優先する」

非情とも言える台詞を聞きながら、副官は自問自答した。
こんな上官に忠誠を捧げたのが間違いだったのか?

(………そう思えるくらいなら、とっくに愛想を尽かしている)

浮かんできたのはそれだけだった。
レナードは、闇の中でようやく微笑んだ。月光を浴びるヴィネルを見て。

副官は、副官なので、精々上官の我が侭を聞いてやろう。


「Yes, Sir」

貴方様の望むままに。